テーマ:仙台城下

「跡付丁」の話

 またまた変わった名前の横丁の話です。  「跡付丁」は、「あとつきちょう」、或いは「あとづけちょう」と読みます。「ストーカー・ストリート」と言ったような意味になります。ただし、この地名は現在失われていまして、町名ばかりでなく、通りの名前としても残っていなくて、辻標にその名が残るのみとなっています。その、失われた理由については後程お話い…
トラックバック:0
コメント:12

続きを読むread more

「化物横丁」の話

 仙台市の中心部に、かつて「化物横丁(ばけものよこちょう)」と呼ばれた短い通りがあります。今日はその一風変わった名前の横丁の話をしてみようと思います。 *「化物横丁」の現代(いま)の姿    ・付近地図  (赤紫色に塗った所が「化物横丁」です)  「勾当台公園」や「仙台三越」にもほど近い、仙台市街の中…
トラックバック:0
コメント:6

続きを読むread more

仙台七坂、「まとめ」

 前回までの回で「仙台七坂」の七つの坂をひとつづつご紹介してきました。その中で、それぞれの坂が「仙台七坂」に採り上げられた理由の考察も試みてみたのですが、今回の「まとめ」では、それらの総括をしてみたいと思います。 1、私が何故「仙台七坂江戸時代成立説」を疑ったのか  私が「仙台七坂」というものの存在を知ったのは二十数…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

仙台七坂、⑦「茂市ヶ坂」

 今回は「仙台七坂」の最後の坂、「茂市ヶ坂(もいちがさか)」の話になります。  私の母などは今でも「茂市ヶ坂」の名を口に出すのですが、昭和40年以降に生まれた方ですと「茂市ヶ坂」の名すら知らない方が多数なのではないかと思います。  でも、今でもこの坂の名が書かれた市街図(私が普段使いしている昭文社の「でかじまっぷ 仙台」もそうで…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台七坂、⑥「藤ヶ坂」

 「藤ヶ坂(ふじがさか)」は、何でこんな坂が「仙台七坂」に数え上げられているのだろう、と疑問になるような小さな坂、って言うか、階段(!)です。 *藤ヶ坂(坂下から) *藤ヶ坂(坂上から) 1)場所  市街地の西部、青葉区大手町に在ります。  戦後、「五橋通(いつつばしどおり)」は西へ延伸され、「道場小路…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

仙台七坂、⑤「新坂」

 「新坂(にいざか)」は私のブログでも、過去に何度か話題にしています。  昔ほどではありませんが、現在もよく使われる坂ですし、仙台人の間では良く名の知れた坂です。その意味では「仙台七坂」にふさわしい坂なのですが、私の仮説の論理を進めるにはちょっと厄介な坂でもあります。その辺の、”論理展開”がうまく行きますかどうか…  ま、とりあえず…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

仙台七坂、④「元貞坂」

 「元貞坂(げんていざか)」は、お歳を召した方でも知っている人は稀になりました。今はそこを通る人も限られます。 1)場所  この「元貞坂」周辺は、江戸時代初期~中期、明治~昭和初期、戦後~昭和30年代と、何度も再開発があった地域でして、「元貞坂」が何処を指して言っているのかを特定するのにだいぶ苦労しました。実を言…
トラックバック:0
コメント:7

続きを読むread more

仙台七坂、③「大坂」

 「大坂(おおさか)」は、仙台人ならばほとんどの人が通った事のある坂でしょう。でも、その名を「大坂」だと知っている人は稀かもしれません。 1)場所  地下鉄東西線「大町西公園」駅の「西出口1」を出てすぐのところに在ります。その「西出口1」を出てすぐ正面に見える「西公園通」との交差点、「大町交差点」と「大橋」の東詰めを…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台七坂、②「扇坂」

 「仙台七坂」の他の坂はいずれも仙台城下に在る坂なのですが、この「扇坂(おうぎざか)」だけは城中に在る坂です。その辺も、私に、「仙台七坂は江戸時代に成立したんじゃ無いんじゃない?」、と思わせる所以です。 1)場所  市営バスの「国際センター西」バス停の所に在ります。地下鉄ですと、東西線の「国際センター駅」が最寄り…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

仙台七坂、①「石名坂」

 この「石名坂」は、現在はその名がその所在地の街区名になっています。 1)場所  その、若林区石名坂に「満谷山 円福寺」という曹洞宗のお寺が在ります。 *満谷山円福寺山門  この円福寺は「仙臺三十三観世音」の第二十番札所になっていまして、その円福寺の門前を南北に通るなだらかな坂道が「石名坂」です。 *「…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

仙台七坂(序)

 もう二年以上昔の事になるのですが、『近いうちに「仙台七坂」の題名で一括ご紹介しようかと考えています』と、コメントに書いたのですが、ずううう・・・っと、ほったらかしになっていました。移り気なのは私の悪い癖です。すいません。  と、いうことで、次回からシリーズでひとつづつ「仙台七坂」をご紹介して行こうと思います。  その前に、…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(まとめ)

 このシリーズ、思いの他長くなってしまいましたし、何度か修正も致しましたので、最後に要点を整理した「まとめ」をしておこうと思います。 1):原文の解釈  以下が「仙臺鹿の子」の該当記述の原文です。原文は句読点も区切りも無い文章ですので、断定の助動詞「~なり」を仮の文章の区切りとみなし、切り分けしてあります。  …
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(10)

 「仙臺鹿の子」の記述から開府以前の仙台城下の村境を割り出そうとしていましたが、原文の解析は今回で完了します。  以下は、その「仙臺鹿の子」の該当記述全文です。原文は句読点も区切りも無い文章なのですが、断定の助動詞「~なり」を仮の文章の区切りとみなし、切り分けてみました。  ①『御府は五か村入合の所なり』  ②『荒…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(9)

 「仙臺鹿の子」の記述を基に仙台城下が造られる以前の村境を割り出そうとしていました。  以下は、その「仙臺鹿の子」の該当記述全文です。原文は句読点も区切りも無い文章なのですが、断定の助動詞「~なり」を仮の文章の区切りとみなし、切り分けてみました。  ①『御府は五か村入合の所なり』  ②『荒巻村小田原村南目村小泉村根…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(8)

 仙台開府以前の村境を「仙臺鹿の子」の記述から割り出そうとしていたこのシリーズ。前回までの回で荒巻村と小田原村、二か村の村境を読み解きました。残り三か村の内、今回は「南目村(みなみのめむら)」の記述について解析して見ます。下記原文の④の文になります。  以下の文章が、その「仙臺鹿の子」の該当記述全文です。原文は句読点も…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(7)

 前回の続きです。  今回は③の文の残り全部を解析します。 <仙臺鹿の子」の原文該当文> ③   イ):『荒巻権現の杜より南へ、』   ロ):『六番丁通り辺まで、』   ハ):『同六番丁通を西へ、』   二):『二日町東裏切に南へ、』   ホ):『高き通を同心町へ、』   へ):『同心町より東三…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(6)

 前回の続きです。 <仙臺鹿の子」の原文該当文> ③   イ):『荒巻権現の杜より南へ、』   ロ):『六番丁通り辺まで、』   ハ):『同六番丁通を西へ、』   二):『二日町東裏切に南へ、』   ホ):『高き通を同心町へ、』   へ):『同心町より東三番丁通りへ入り、』   ト):『新伝馬町…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(5)

 「仙臺鹿の子」の以下の文を解析して開府以前の村境を割り出そうとしていました。 <仙臺鹿の子」の原文該当文> ③   イ):『荒巻権現の杜より南へ、』   ロ):『六番丁通り辺まで、』   ハ):『同六番丁通を西へ、』   二):『二日町東裏切に南へ、』   ホ):『高き通を同心町へ、』   へ):『同心…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(4)

 「仙臺鹿の子」の記述から、仙台開府以前の仙台城下の村境を割り出そうとしていました。今回もその続きです。 <仙臺鹿の子」の原文該当文> ③   イ):『荒巻権現の杜より南へ、』   ロ):『六番丁通り辺まで、』   ハ):『同六番丁通を西へ、』   二):『二日町東裏切に南へ、』   ホ):『高き通…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(3)

 前回からの続きです。  「仙臺鹿の子」の記述から仙台の城下町が造られる以前の村境を割り出そうとしていました。前回は三番目の文(以下の箇条書き)のイ)~ホ)の区切りまでを解析して見ました。今回はヘ)以降の文節の解析を試みます。  ③   イ):『荒巻権現の杜より南へ、』   ロ):『六番丁通り辺まで、』  …
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(2)

 「仙臺鹿の子」の記述から、仙台城下にかつてあった「村境」を割り出してみます。  以下の文章が、その「仙臺鹿の子」の該当記述です。原文は句読点も区切りも無い文章なのですが、断定の助動詞「~なり」を仮の文章の区切りとみなし、切り分けてみました。  ①『御府は五か村入合の所なり』  ②『荒巻村小田原村南目村小泉…
トラックバック:0
コメント:5

続きを読むread more

仙台城下のかつての村境は何処?(1)

 前回の「村境榎稲荷」を受けて、仙台城下成立以前の村境を調べてみようと思います。  仙台城下の地がかつて村だったことは、元禄八年ごろに書かれた地誌「仙臺鹿の子」にも書かれています。以下にその項の全文を引用し、それを基に村境を特定して見ようと思います。      漢字・仮名遣いは改めましたが、句読点が無いの…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

造酒屋敷遺跡

 先日(11/4)「榧森(かやのもり)造酒屋敷遺跡」の見学会に行ってきました。教えていただいた事の整理がまだ出来ていないのですが、簡単にご報告だけさせていただきます。 *「国史跡仙台城跡 造酒屋敷跡第5次・三の丸土塁第3次発掘調査 遺跡見学会」    仙台市教育委員会文化財課主催        平成29年11月…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

スピンオフ・「仙台城下の武術」

 少し前の事なのですが、『徳川の世のサムライってお役人化したんでしょうか。』と、いただいたコメントに対し、  『組織としては官僚化していったのは間違いないと思いますが、侍個人は必ずしも”お役人化”していったとは言えないかもしれません。仙台藩内でも武術は盛んでしたし・・・』と、お答えしたことがありました。  その時は準備不足という事も…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

東〇番丁最大の謎(その9)

 以下、第4章では「仙台城下の拡張」についてお話してみたいと思います。 *仙台城下拡張の原資、仙台平野の穀倉地帯      七郷の荒井地区(現・若林区荒井十呂盤)  「七郷(しちごう)」と言うのは仙台市東部の水田地帯の一角を指す広域地名です。「七つの郷」とは、江戸時代以前、少なくとも平安時代末から在った七つの村、「…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

スピンオフ・市制施行88周年記念の「辻標」

 長いことブログを中断していました。調子に乗って「仙台城下成立の歴史」などと言う壮大なテーマに立ち向かった所為です。ちょっとここらで一休みしてみようと思います。 *仙台市役所前の「辻標」(第1号)  私のブログでもたびたび登場しましたコレですが、『道標』とか『標柱』とか私は書いていましたが、正しくは「…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

東〇番丁最大の謎(その8)

 前回までに述べたことは仙台開府初期(1602~1625年)の事でした。この時代の仙台城と仙台城下町の機能はまだまだ戦国時代の時風を色濃く反映しており、多分に戦時を想定した造りになっていました。  政治・経済を重視した近世の仙台城下の町造りは若林(注1)城の造営とその城下町建設を機にして始まります。江戸幕府が「仙台屋敷構(せんだいやし…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

東〇番丁最大の謎(その7)

 仙台開府時の城下町造りを見てきた第2章も、今回で終わりになります。今回は「寺社地」のお話です。 *国指定史跡「陸奥国分寺跡」  この辺一帯が史跡「国分寺跡」です。  ご存知のように、「国分寺」・「国分尼寺」は天平13(741)年に聖武天皇の命によって全国62ヶ所に建てられたお寺で、ここは奥州で唯一国分寺・国分尼寺…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

東〇番丁最大の謎(その6)

 今回は伊達家臣団の中でも最も人数の多い「下級家臣」の町のお話です。彼らはどんなところに配置されたのでしょう。 *川内川前丁(かわうちかわまえちょう)(町/まち)  (お城近くの「下級家臣」の町です。  この町は町名の表記に揺らぎがあります。現在の街区名は「川内川前丁(かわうちかわまえちょう)」で、菊池勝之…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

東〇番丁最大の謎(その5)

 前回までで商人、上・中級武士達の居住区が定まりました。これらは新しく切り開かれた「新・城下」に無事収まったわけですが、まだまだ多くの住民たちが残っています。これらの人々の住むところは何処に、どのようにして定められたのでしょう? もう、「新・城下」にはあまり土地が残っていません。  今回と次回はその話になります。 *川内…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more