補足(1)

 仙台が「杜の都」と呼ばれるようになった理由を探る今回のシリーズですが、第3回目は明治~昭和初期の時代を一気に飛ばして戦後の話をするつもりでした。で、そのつもりで史料調べをしていましたら、ちょっと興味深い史料を見つけました。これを見て見ぬふりするのももったいなく思いますので、今回はそれを「補足」と言う形でご紹介することにします。飛ばしてしまう予定でいた明治~昭和初期の仙台の宅地の広さや景観に関するお話です。





1:明治初期の屋敷地の広さの話
 仙台市史の「史料編7 近現代3 社会生活」に、「壱戸壱人当り坪数調(いっこいちにんあたりつぼすうしらべ)」(以下、史料①と略称することにします)及び、「宅地毎等級明細帳(たくちごととうきゅうめいさいちょう)」(以下、史料②とします)と言う史料がありました。史料①は明治10(1877)年5月8日、明治政府の指示に従って宮城県仙台区が提出した報告書です。史料②は同じく明治10年に調査し、明治11年5月に更生、朱書きして提出したものです。

 この二点の史料に関しまして、まずその背景を簡単に話しておきます。
 明治四年の「廃藩置県」により260年余り続いた封建領主の支配は消滅し、明治6年の「地租改正法」によって領主の知行権も消失します。それまで「王土王民」であった土地の所有権は解放され、私有が認められるようになりました。
 ただ、土地の私有が認められた代わりに、それまでは農地(百姓地)だけが課税の対象で、そこから生まれた収穫高に応じた租税(田祖あるいは貢租と言う)でしたが、それが全ての私有地に対して、その地価に応じた税が徴収されるようになりました。しかも、それまでの物納ではなくて、金納となり、全国一律の租税率となったのです。
 こうして始まった「地租改正」なのですが、これだけの大事業ですので、すんなりと切り替えが行われたわけではありませんでした。何度かの税率の変更や算出方法の変更などを経て、明治13年にようやくこの事業は完了します。約7年かかったことになります。

 で、この史料なのですが、そうした地租改正の作業の中で、各地にどのくらいの評価額の土地が存在し、如何ほどの徴税が可能か、と言う見積もりを出すために調査した基礎資料でした。
 今回、私がこの史料から何を読み取ろうとしたか、なのですが…
それは、江戸時代の武家屋敷地が、この時代にどのくらいに分割されていたのか、という事です。



 先ずは、史料①「壱戸壱人当り坪数調」からです。ここから当時の「仙台区」(この当時はまだ市制が敷かれていず、「大区・小区制」でした。旧仙台城下とほぼ同じ範囲、現在の青葉区の市街地に若林区と宮城野区の一部を加えた範囲です)全体の数字を見てみます。
 明治10年当時の仙台区の人口は53,776人で、戸数は11,798戸でした。宅地(私有地)面積は2,982,111.82坪、筆数が9,163筆ですので、1筆当たり平均は325.45坪となります。現在の4倍位になるのではないでしょうかね。(仙台市の統計データに宅地の敷地面積に関するものが見つかりませんでしたので、統計データに有った戸建て住宅の床面積の平均「38.55坪」から推測し、概ね7~80坪として計算しました。データの統計年度は平成25年度です)
 これを、士族地と町地に分けた数字もあります。江戸時代侍身分だった人々はこの当時士族身分となっていましたので、「士族地」は旧・武家屋敷地と見なす事が出来ます。
 士族地の面積は、宅地2,694,116.83坪。筆数が6,895筆。ですので、1筆当たりは390.73坪となります。
 これに対して町地は、宅地287,995.01坪、筆数が2,268筆ですので、1筆当たりは126.98坪です。

 士族地(江戸時代の武家屋敷地)の平均が400坪弱、町人地の平均が120坪強、と言うのは江戸時代のそれとあまり変わらないですね。どちらも若干少な目かな、と感じるのは、地租改正令の発布後に分筆が進んでいる証左なのでしょうか?
 ちなみに、この数字から導き出される士族地の面積比率は、約90.3%です。この内に公有地や寺社地が含まれていませんので、前回述べた数字とは単純に比較はできませんが、似通った数字ですね。

 もう少し細かく見てみましょうか…
 史料②を使います。この史料には町ごとにピックアップした数字があります。
 先ずは町場の一等地を見てみます。小六区、大町四丁目の四つ角に面した4軒の合計です。4筆合計となっていましたので、1軒が1筆と思われます。坪数が680.44坪で4筆ですので、1筆当たり170.11坪になります。
 前回書きましたように、江戸時代の町屋の基本単位は、一軒前=150坪ですので、その数字よりも大きいですね。先程史料①で算出した町地の全体平均の「一筆当たり126.98坪」よりも大分大きいです。町場の一等地の商家ですので、少なくとも4軒のうちの1軒が一軒前以上の面積があったようで、さすが商業地の一等地です。
 次に、江戸時代も「小店(こだな)」が多かった「荒町」を見てみようと思います。荒町は「六等級」になります。
 地番1~19、45~101(内10ケ所を除く)、65筆合計が6,534.35坪とありましたので、その一筆当たりの平均は、100.53坪となります。先程の大町四丁目と比べるとかなり小さな敷地であることが分かります。江戸時代の「一軒前=150坪」という数字と比べても大分小さいですね。しかし、「半軒前=75坪」よりは大きいです。



 次に武家屋敷地の方を見て見ましょう。
 先ずは前回例に引きました「袋町」です。袋町は九等級で、29筆ありました。ここからして「あれ?」ですね。あんな狭い町に29筆もあるのです。
 29筆の合計は3,009,86坪でした。ですので、一筆の平均は103.79坪となります。町人地の「一軒前」よりもせまいですね。後程江戸時代と大正時代の地図を見比べてみますが、ちょっと面白い分筆が行われていました。

 前回見た油絵の武家屋敷地、「清水小路」はどうでしょう。
 清水小路はさらに等級が下がり、十二等級になります。地番は1番から28番まであるのですが、筆数は24しかありません。この事については次の章の地図の比較の所で考察します。
 24筆の合計は8,268.45坪でした。なので、一筆平均は、344.52坪になります。最初に見た「士族地の平均坪数」にちかい値ですね。あまり分筆が進んでいなかったのかな?

 ちょっと特殊な例なのですが、明治の早い時期から分筆が進み、武家屋敷地から商業地へと変身していった「東一番丁」を見てみたいと思います。現在の「一番町商店街」です。ここには知行200石から500石位の中級武士「番士」が住んでいましたので、屋敷地の広さは500坪~750坪位でした。
 東一番丁については3っの地域に分けて計測されています。
 一か所目は小三区の地番が24番から55番までの地区です。東一番丁は地番の変更が激しかったところですので、対照が難しかったのですが、おそらく「玉澤横丁」より北、定禅寺通りまでの間の通りの一画ではないかと思います。この地区は士族地でも等級が最高位の六等級でした。
 32筆合計が13,073.44坪ですので、1筆平均は、408.55坪となります。

 次は小ニ区の東一番丁の『南町通より北』の部分。これも地番から推理するに、南町通と立町通りの間の東一番丁の東側の一画ではないかと思われます。ここは七等級に下がっていました。
 これは13筆合計で、4,410.80坪でしたので、1筆平均は339.29坪でした。

 最後は、同じく小二区ですが、南町通より南の地番1から9までの地区です。この地区はもう一段等級が下がって、七等級の二になっていました。ここは現在鰻屋の「開盛庵」や、ステーキハウスの「RedRock」がある一角ですね。
 9筆ありまして、その合計は2,203.32坪でしたので、1筆平均は244.81坪です。

 こうやって見ますと、さほど分筆が進んでいないようにも見えます。でも、これは”平均の魔法”なのです。平均を取ると、傾向が薄まってしまうのです。やはり、地図で地割も見て見なければなりません。次章でそれをしてみようと思います。



 今まで見て来たのは中級武士の屋敷地で、屋敷地の広さは420坪から1,200坪が規定です。1200坪以上の屋敷地を持っていた上級武士たちの屋敷地がどの様に分割されたのかも見て見たかったのですが、そのほとんどは公収されて公共施設になっていました(片平丁のことです)。辛うじて残っていたのは「大町頭(おおまちがしら)」の四家の屋敷地なのですが、ちょっと複雑です。以下にそのまま書き写してみます。
 『7等
 小五区    一番ヨリ
  片平丁大町頭 六番マデ 五(筆)  五三九七・六二』

 なので、一筆当たりの平均は1,079.52坪ですね。まだまだ広大な敷地です。
 江戸時代は4邸しかなかったのですが、ここでは地番が6ッ、筆数は5ッです。どのように分筆されたのか、明治時代の地割が入った地図を持たないので分かりませんが、この後お見せする大正末の地番入り市街図ではかなり複雑に分割されています。



 以上の事をまとめてみますと、町人地(町地)の分割は少ないのですが、武家屋敷の分割(分筆)は進みつつあったようです。ですが、その分割はまだ二分割、三分割程度で、その敷地の広さも200坪以上は優に有り(士族地の1筆平均390.73坪/前掲)、樹木を植え得るだけの広さの庭もまだ存在していたと想像されます。士族地の割合がまだ9割程度有った(前掲)事などからも、江戸時代の「森のような景観」とまでは行かなくとも、「屋敷杜」がまだふんだんに見られる光景であったと思われます。



 (余計なことなのですが、ちょっと気付いた事で…
 この史料の「等級」なのですが、現在の感覚とはちょっと異なるので初め戸惑いました。商業地の等級が高く、住宅地の等級が極端に低いです。つまり、まだこの時代は土地そのものが「商品」となっていず、江戸時代の様にその土地の生産高、その土地が稼ぎ出すお金の多寡によって等級を決めていたのではないか、という印象を持ちました。ちなみに、現在は土地取引額をベースとした「評価額」で等級が定められます)




 <以上のような事を念頭に置きつつ、次回は大正時代の地番入り市街図を用いて、江戸時代の地割がどの様に変化をしたのかを見てみたいと思います>

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