い~ちまい に~まい さんま~い・・・、の一枚目

 「お化け屋敷」は今でも随分な人気が在るようですね。今年はコロナ禍対応の新機軸の「お化け屋敷」が現れた、等と言うニュースも最近見ました。客が棺桶の中に入って、次々に現れるお化けの恐怖を身動きが出来ない棺桶の中でひたすらじっと耐える、という趣向でした。うまいこと考えましたねぇ。。。
 最近はお化け屋敷の主役も、ぞろぞろ出現するゾンビになってしまいましたが、やはり「怪談」と言えば、「四谷怪談」、番町もしくは播州「皿屋敷」、「牡丹燈籠」ですね。古来から講談、落語、歌舞伎、演劇、映画になっていて、「日本三大怪談」等とも言われます。今回からのシリーズではそこから「皿屋敷」の話を採り上げてみようと思います。そうです。お菊さんが『い~ちまい に~まい さんま~い・・・』と、皿の数を数えるアレです。





一枚目:仙台城下の「化物屋敷」の話
 「皿屋敷」の怪談話によく似た話は仙台城下にも在ります。現存する最古の仙台の地誌「仙臺鹿の子」の6ページ目に以下の様な1項目が在ります。

 『一、御裏門通りより北に四方三四十間これある荒れたる屋敷あり これを化物屋敷といふ説世にあり 此屋敷にてまつというふ女秘蔵の皿を損したりとて主人の手討になりし 其(その)亡魂(ぼうこん)今にありといへり 万治三年(1660年)の頃より荒れ初る 万治三年より元禄八年(1695年/この本が著された年)まて三十六年なり』

 侍女が主人秘蔵の皿を壊し、その咎で手打ちに遭う。その無念の思いがこの世に残り、祟りを為す。という点が他の皿屋敷の怪談(以降の回でお話しします)と共通する所ですね。
 見落とされがちなのですが、もう二点共通する所が在ります。それは『荒れたる屋敷』、つまり、この話が荒れ屋敷の因縁話である事と、この話の出現が元禄年間であるらしいことです。これらのについての考察は後の回でおいおい致すことにしまして、今回はこの話の「化物屋敷」が何処に在ったのか、という事について考察してみようと思います。


 この「化物屋敷」が何処か、という事を特定するにあたって、「仙臺鹿の子」の記述には三つのヒントが在ります。ひとつ目は『御裏門通より北』と言う記述、二番目は『四方三四十間(の屋敷?、敷地?)』、三番目は『荒れたる屋敷(空き屋敷?)』です。

 先ずは、『御裏門通』が何処か、という事ですが、、、これは「仙臺鹿の子」にも、他の地誌にも直接的な記述はありません。ただ、間接的な記述や、「御」と言う文字が冠せられていることからみて、仙台城の「裏門」に通じているか、面している道であろう、と推測できます。ですが、仙台城に「裏門」と名付けられた門はありません。ま、これは他の城郭でもそうであって、一般的には正面の門「大手門」に対しての「搦手門(からめてもん)」等と通称されます。しかし、実際はその方角の名が付けられただけの門であったり、単に「埋門(うずみもん)」とか「切門(きりもん)等と、その形態の名が付けられているだけであったりします。
 で、仙台城なのですが、仙台城全体としての正門・「大手門」は一ヶ所在りますが、仙台城全体の裏門・「搦手門」に比すべき門はありません。しかし、本丸曲輪、二之丸曲輪、それぞれに正門と言える「詰門(つめのもん)」と、裏門と言える「埋門」が一対づつあります。
*本丸曲輪の「詰門」、「埋門」
   (天和二年「奥州仙台城并仙台城下絵図」/仙台市史特別編「城館」付録より)
天和二年「奥州仙臺城並城下絵図」_本丸曲輪.jpg
*二之丸曲輪の「詰門」、「埋門」
   (同上出典)
天和二年「奥州仙臺城並城下絵図」_二之丸曲輪.jpg

 本丸は古くに造られた(1600~1602年)事もあって、その造りには戦国色が強く残っていますね。詰門も脇櫓を供えた食い違い虎口ですし、他の門も食い違い虎口を設けています。搦手門である「埋門」は、その名の通りに、城壁に埋まる様に設けた目立たない門になっていて、いざ落城の折にはそこから「御裏山」を経て郷六や蕃山に逃れられるようになっています。このように、非常口のような役割の門ですので、通常は締め切られたままになっていたのでしょう。
 本丸曲輪の搦手門・「埋門」はこの様な造りですので、「御裏門通」どころか、小屋一軒建っていません。本丸の搦手(裏側)には『切通』と描かれた杣道と山林しかないのです。

 しからば二之丸はどうでしょう?
 一見すると、本丸曲輪よりかはずいぶん簡素に見えます。虎口や馬出、挟間等の防御設備はほとんどありません。これは二之丸が徳川氏の一円支配が確定した後に造られたからです。軍事拠点と言うよりも、家政や政庁としての機能を重視しているからです。
 二之丸御殿がつくられる前、この二之丸曲輪には伊達宗泰の屋敷と伝わる屋敷や、五郎八(いろは)姫の御殿・「西屋敷」、御米蔵等が在りましたが、それはお城の付属施設のような役割で、あくまでもこの時期の主要施設は本丸でした。
 寛永十五(1638)年、二之丸御殿が造られ、二代藩主忠宗がここに移り住むようになると、二之丸御殿を中心とする二之丸曲輪は藩政の中心になります。ですので、「仙臺鹿の子」が書かれた年、元禄八(1698)年当時では”お城”の正門は「大手門」もしくは二之丸御殿の「詰門」であり、裏門は二之丸曲輪の「埋門」か、二之丸御殿の「大所門」と、認識されていたでしょう。
 この二之丸曲輪の「埋門」は、特に一般藩士の通常の登城口、つまり通用口であり、此処に通じる道が「裏門通」と通称されていた、としても不思議はないと思われます。下図の緑の線か青の線、もしくはその両方がいわゆる「裏門通り」であろうと考えられます。
*「裏門通」の推定図
天和二年「奥州仙臺城並城下絵図」_裏門通.jpg
 ま、私の勘では緑の線の方かな、ですが…
 で、その「北」には『侍屋敷』地が広がっています。赤紫色に塗った地域です。やはり、「仙臺鹿の子」の言う「化物屋敷」は、この赤紫色に塗った地域のどこかに在ったのではないでしょうかねぇ。


 では、以上のような仮定の下、次に「化物屋敷」の場所をもう少し絞り込んでみようと思います。『四方三四十間これある』と言う文言と、『万治三年より荒れ初める』『荒れたる屋敷』と言う文言を手掛かりにします。

 『三四十間四方』ということは900坪~1600坪という事になります。建坪でこれだけの広さですと、もはや屋敷と言うよりも「御殿」です。ですので、これは敷坪でしょう。900坪~1600坪の屋敷地の侍と言うと、仙台伊達家では知行500石~1000石位の上位の中級武士、という事になります(仙台惣屋敷定に依る)。これは探すのが楽ですね。数が少ないですし、屋敷地も限られます。ちなみに、侍の中で最も数の多い100石未満の「平士」の屋敷地は300坪位の広さです。
 二之丸の北側を、元支倉丁辺りまでの範囲で探してみます。

 使用する絵図は、『万治三年より荒れ初める』とありましたので、万治三(1660)年から、「仙臺鹿の子」が書かれた元禄八(1695)年までの間の複数の絵地図を使います。この間ずうっと空き屋敷であれば、それが「化物屋敷」の候補になります。
 丁度手元に寛文四(1664)年の「仙台城下絵図」と、延宝九年・天和元年(1681年)~天和三(1683)年の「仙台城下絵図」がありました。この二枚の絵図を使う事にします。
 先ずは寛文四年の絵図の該当エリアに空き屋敷を探します。
*寛文絵図
PT寛文絵図_0001.jpg
 空き屋敷を探し出し、赤丸で囲ってA~Dの記号をふってみました。
 つぎに、寛文絵図から二十年ほど時間が経った延宝・天和絵図の同じ場所にA~Dの記号を付けて見ます。
*延宝・天和絵図
PT延宝・天和絵図_0001.jpg
 寛文絵図のA~Cの空き屋敷には、延宝・天和絵図では新しい住人が入っています。しかし、Dの場所の空き屋敷は、延宝・天和絵図では更地になっています!
 Eの場所にも空き屋敷が在るのですが、これは寛文絵図の時代には「大立目将監」と言う侍の屋敷でした。ですので、これは「仙臺鹿の子」の記述に符合しませんので「化物屋敷」の候補から外せます。
 と、いうことは、他に該当する場所もありませんので、Dの場所が「化物屋敷」ではなかろうか、という事になります。

 でも、私とすればちょっと引っかかる所が無い訳でもありません。
 ひとつには、この場所が下馬先であることです。このDの場所のすぐ南、「千貫沢」に架かる橋を「千貫橋」と言います。ここは、城の北側に住む侍たちが二之丸へ登城する際、馬や乗り物をここで降りて徒歩で向かう、「下馬(「下乗」と書かれていることもある)」に指定されていた場所だったのです。もっとも、「扇坂」の「下馬」に比べればずうっと通行量は少なかったのですが、それでもニ~三十人のお供たちが主人の馬や乗り物を守ってたむろしていた筈です。そんなところのすぐ近くに「化物屋敷」が…、というのがちょっと気になります。
 ま、逆の見方を言えば、そういう所だからこそ、「化物屋敷」等と言う怪談話が生まれた、という事も言えるのかもしれないのですが、、、(後の回でこの辺の考察をします)

 もうひとつは、もしかするとBも候補に入れても良いのかなあ、という事です。
 Bの場所は、寛文絵図では空き屋敷でしたが、延宝・天和絵図では「月畊和尚(げっこうおしょう)」と言う人が入っています。
 武家地にお坊さんが?! という事で調べて見たのですが、、、この「月畊和尚」と言う人、なかなかの高僧でした。尾州名古屋に寛永五年九月一日に生まれ、名は「道稔」、号は「亀毛子」。二十五歳の時に松島瑞巌寺で修道。根白石の臨済宗乾徳山永安寺に住する時に綱宗公の目に留まり、小田原の萬壽寺の開祖となり、その後、鐵牛和尚の跡を継いで大年寺二世を務めるまでになります。
 で、そんなえらいお坊さんがなんで市井の、それも武家地に?
 「仙台人名大辞書」をよく読んでみると、この人、お上と衝突したらしいのです。
 先ほど乾徳山永安寺は臨済宗、と書きましたが、この月畊和尚はこの寺に居る時に、寺領を返納するから、私が傾倒する黄檗宗に宗旨替えしたい、と願い出たのだそうです。しかし、藩では高僧雲居禅師の開基した寺であるので、それは許さず、という返事を返し、月畊和尚は寺を離れた、と言う話だそうです。
 それが何時の話であるのかは書いていなかったのですが、年譜を追ってみると、どうやら延宝から元禄初めまでの間らしく、延宝・天和の絵図に月畊和尚の名が書かれていてもおかしくないように思えます。
 だいぶ遠回りしてしまいましたね。要するに、そんなへそ曲がりのお坊さんですので、この様な1000坪近くある様な広い武家地に小さな庵住まいであってもおかしくなく、そうした所に「化物屋敷」の噂が立つのもあり得る、という事です。



 と、いう事で「化物屋敷」のおおよその場所が分かりました。では、それは現在の何処であるのか、という事が皆さんも気になるでしょう。ですので、先ほどの絵地図を現在の地図に重ねて見ます。
*1万分の1都市図「青葉山」から、川内キャンパス付近
p21万分の1都市図「青葉山_0001.jpg
 地図上の赤丸()は、発掘調査で判明している門の跡です。北から順に、「大所門」、「詰門」、「大手門」跡です。()は、私が推定した「埋門」の位置です。
 延宝・天和絵図を基に、地形図上に当時の道を薄いオレンジ色の線で描き込んでみました。細部においては間違いもありそうなのですが、概ねこんなものではないかと思います。
 当時の「二之丸御殿」は、現在では「法学部」、「経済学部」、「文学部」、「教育学部」等が在る学部棟エリアになっていますね。「勘定處」だった所は、現在では「川内記念講堂」等が在るエリアです。で、現在教養課程の学生さんたちが学んだり、サークル活動をしているエリア・「川内北キャンパス」は、当時は中・上級武士たちの武家屋敷地だった訳です。
 と、いうことで、寛文絵図と延宝・天和絵図で探し出した「B」地点と「D」地点を、この都市図に描き入れてみました。黄緑色の線で囲んだ所が「B」地点、赤紫色で塗った所が「D」地点です。

 北キャンパスの「キャンパス・ゲート」付近に、以下の写真の様な案内板がありましたので、それを使って、この「B」や「D」の地点が現在どのような用途に使われているのか見てみようと思います。
*キャンパス・ゲートの案内板
12月川内キャンパス-12_12_2015-025 (683x1024).jpg
 方角を都市図に合わせます。
*上の案内板を90度半時計方向に回転
P12月川内キャンパス-12_12_2015-025.JPG
 この案内板に「B」地点と「D」地点をマーキングしてみました。
 「B」地点には「A03」と「A04」という建物が在りますね。案内板の凡例を見てみますと、これは「講義棟B棟」と「同C棟」ですね。学生さん達の教室です。
*川内北キャンパス・講義棟付近の写真
12月川内キャンパス-12_12_2015-024 (1024x683).jpg
 この写真は2015年の12月に、キャンパス・ゲート付近から撮ったものです。写真左手に建ち並ぶ建物が講義棟です。

 「D」の地点には「B01」と書いてあります。「B01」の建物名は「川内厚生会館」です。この建物には学生生協や学食が入っていて、私も何度か利用しています。学生生協の組合員でなくとも利用が可能ですし、一般人でも出資金を出せば学生生協の組合員になれます。
*「川内厚生会館」入り口
12月川内キャンパス-12_12_2015-026 (1024x683).jpg
*学食・「キッチンテラス・クルール」
12月川内キャンパス-12_12_2015-032 (1024x683).jpg12月川内キャンパス-12_12_2015-028 (1024x683).jpg
*私が食べた「オムハヤシ・中盛」410円也
12月川内キャンパス-12_12_2015-029 (1024x683).jpg
 この学食が在る場所が、昔「化物屋敷」と呼ばれた場所だったらしいという事を、此処を利用する学生さん達のどれだけの人が知っているのだろう?





 さて、「仙臺鹿の子」の記述から「化物屋敷」と呼ばれた屋敷跡と思しき場所を特定して見たのですが、、、
 実はこの話は作話ではないのか、と作者も疑っている様なのです。引用文に、『これを化物屋敷といふ説世にありとか、『其亡魂今にありといへりという風に伝聞形式で書いているのがそれです。また、これに付けた鈴木雨香の注釈にも、『本條の事甚いぶかし』と、あります。
 また、この「化物屋敷」の事は、7~80年後の安永年間に書かれた「残月臺本荒萩」には出てきません。「仙臺鹿の子」にしか見られないんです。雨香氏ではありませんが、「甚だ訝し」ですね。

 この「皿屋敷」の類話は仙台近郊にもう一つあります。次回以降、「皿屋敷」の怪談のコアな部分に話を進める際に、その事についても述べてみようと思います。





<謝辞>
 今回のこのシリーズは、私が何時も訪れている「リアルETの英語学習 高校入試&TOEIC」さんの「夏の読書と(1) 皿屋敷?」と言う記事に触発されて書いております。文末ではありますが、大変興味深いヒントを与えてくださったリアルETさんに、ここで感謝の意を表しておきたいと思います。
 ありがとうございました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 11

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い 面白い 面白い 面白い
ナイス

この記事へのコメント

2020年08月29日 16:23
こんにちは!
あきあかねさんの推理は、
緻密で、検証もさえて居ます。
まるで、シュロック・ホームズ張りで楽しい投稿文でした。
次回の怪談のコアな部分に話も楽しみです!
2020年08月29日 20:10
こんばんは。
ブログまで紹介していただき,ありがとうございます。
さすが「化物屋敷」考は入念に調べられて読みごたえがありました。
もしかすると私は化物屋敷跡の隣でTOEICを受けていたのかもしれませんね。
次回の仙台近郊の話はあの場所だと思いますが,楽しみにしています!

2020年08月30日 08:37
みなとさん、おはようございます。

 シュロック・ホームズを引き合いに出されると、ちょっと気恥しいのですが…
 今回は比較的スムーズに特定が出来ました。ラッキーだったと思います。
 次回は少し手こずりそうです。いろんな学者さん達の論文を基に、「皿屋敷」のコアな部分を抜き出してみようと思っています。
2020年08月30日 08:54
ET先生、おはようございます。

 そういえば、先生は川内の講義棟でTOEICの試験を受けられたことがおありでしたね。ええ、あの辺りも「化物屋敷」の候補地です(笑)。

 次回触れる予定の仙台近郊の類話ですが、宮城県の民話の本などに載ったことがあるものですし、先生の御出身地の近くの話ではないかとも思います。ただ、私の手元にはこの話に関する資料がほとんど無くて、ご当地の役場に問い合わせのメールを出そうか、などと考えています。
 もっとも、この話も数ある類話のひとつとして紹介するだけの予定なのですが…