南町通はちとややこしい(2)

 前回、「南町通」の区間については複数の説がある、という事を申し上げました。そして、それは「南町通」がダイナミックな時代変遷を経てきた事にその理由がある、と書きました。今回を含めて3回ぐらいでその「南町通の時代変遷」について書いてみようと思います。






*ここも「南町通」?
7月旧南町通り-07_18_2020-055 (1024x768).jpg
 ここは仙台駅東口の、「東口交番」前の歩道です。このたこ焼き屋さんは、付近の女子高生の”買い食いスポット”になっています(笑)。
 で、この歩道と、そこに丁字路状に繋がる「初恋通り」の一部が「市道宮城野1451号・南町通線」です。そして、この歩道も、仙台駅が出来る前の昔は「南町通」でした。




2):南町通は江戸時代からある通りではない?!
 「南町通(みなみまちどおり)」と言う呼称ですが、それが命名された時期ははっきりしているのですが、そう呼ばれるようになった時期ははっきりしていません。「南町通」と命名されるよりも前に、そう呼ばれていたようではあるのですが…

 ん?
 なんだそれは!
で、しょうね。一般的な”地名の成り立ち”とは異なりますものね。順を追って説明します。



 江戸時代のかなり初期から、後に「南町通」と命名される通りは存在しました。現存する仙台城下絵図では最古の「奥州仙台城絵図」(正保二年/1645年)、通称「正保絵図」に、もうその姿が見られます。
 その姿は、19年後の寛文四年の「仙台城下絵図」(寛文絵図)でもほぼ同じです。
*正保絵図の(南町通)
P正保二年城下絵図_0001 (1024x722).jpg
*寛文絵図の(南町通)
P寛文四年城下絵図_0001 (1024x722).jpg
 赤紫色の線を引いたところが後の「南町通」です。この時期は東七番丁~南町の区間でした。この当時は東八番丁以降の番丁はまだ造られていず、そこは田圃や畑が点在する原野「宮城野原」でした。「正保絵図」には、『源田(原田) 東西五町 南北三町』の記述、寛文絵図には、『田』、『畑』、『畠』の文字が見られます。
 この「南町通」は、東七番丁~東一番丁の侍屋敷地を通り抜け、その原野である宮城野原と、町場である南町を結ぶ、いわば”生活道路”のようなものではなかったか、と想像できます。なので、この時期は、この通りに名前が付いていなかったのかもしれません。それほど重要性も利用頻度も高くはなかったと想像されるからです。

 仙台城下の拡大は延宝~元禄期を最後として以後は落ち着き、幕末期には衰退を始めるようになります。それが絵図や地図で如実に見られるのがこの東八番丁以東です。その最大の拡大期であった元禄期の城下絵図を見てみます。
*「五厘掛絵図」(元禄四~五年/1691~1692年)
TP元禄八年五厘掛絵図_0001 (1024x533).jpg
 「東八番丁」、「東九番丁」が新たに切り出され、件の「南町通」はそこを通り抜け、後に「東十番丁」と呼ばれる地域にまで達しています。さらに、クランク状に曲がり、見瑞寺と徳泉寺の間を通って、慈恩寺の前を通って榴岡天満宮の参道に繋がっています。
 ちなみにですが、これらの寺が移転してきた地域を「天神下」と俗称していました。これらの寺の内、「見瑞寺」、「久近寺(くごんじ)」、「慈恩寺」は今も昔の位置に在ります。寺域は狭くなりましたが…

 で、この時代なのですが、この通りが何という名称であったかは伝わっていません。この時代の地誌には出てこないのです。でも、もしこの通りに「南町通」以外の呼び名を付けるとしたら、たぶん、「天神下通」とか、「天神通」と名付けるのが最もふさわしいのではないかと思います。町中から榴岡天満宮に参拝する経路としては、大町筋~二十人町の経路と同等の近道として便利だからです。


 先ほど申し上げた「南町通」と正式に命名された時期ですが、それは明治20年です。
 明治14年11月、日本初の私有鉄道会社である「日本鉄道(にっぽんてつどう)」が設立されます。ま、私有鉄道会社といっても、実質は半官半民、むしろ国策会社であって、後に他の鉄道会社と共に「日本国有鉄道」に統合され、現在のJR東日本となるわけですが…
 で、この「日本鉄道」が「第三区線(白河 - 仙台間)」として計画した路線(後の東北本線)が明治20年12月に完成します。そしてこの時に初代の仙台駅が造られました。
   ・初代仙台駅
      仙台市歴史民俗資料館特別展
       「仙台のまちと近代交通」図録より

T初代駅舎_0001.jpg
   ・大正時代の仙台駅前(大正11年5月27日空撮)
     出典:同上
P大正11年5月27日空撮「仙台駅上空」_0001.jpg
 この時代、「南町通」は仙台駅前~南町の区間でした。それは、この初代の仙台駅駅舎が出来た時、この駅舎と街中を結ぶ目抜き通りとしてこの通りが9間幅に拡幅され、それを「南町通」と命名したからです。(この時に「年徳神横丁(現在の駅前通の一部にあたる)」と「東五番丁通り」・「清水小路」も拡幅され、こちらも「新・仙台」の目抜き通りとなった)

 空撮写真では分かりにくいですし、明治20年と大正11年では間が大分空いていますので、明治22年と明治30年の市街図も合わせて見てみようと思います。
*明治22年「改正仙台市明細全図」
  仙台市歴史民俗資料館特別展
       「仙台のまちと近代交通」図録より

T明治22年市街図_0001.jpg
 (この図が『改正ー』となっているのは、この年の4月に市制が発布され、「仙台区」から「仙台市」となった為です)

*復刻・明治30年「名勝絵入り 仙台明細全図」
  「風の時」編集部刊より
TP明治30年市街図_0001.jpg
 赤紫色に塗った所が、この新しく命名された「南町通」です。古い道筋(黄色い線)から少し外れ、駅前ロータリーへ繋げていますね。仙台駅に繋がる目抜き通りとしたためにこの様な姿に変りました。で、これが前回の話に出て来た市道「青葉1165号・南町通1号線」の始点が「駅前交差点」である、そもそもの原因となった訳です。

 取り残された方の旧・南町通(黄色い線の方)ですが、しばらくは駅西口にも残っていたようですね。でも、それも明治30年の市街図では東五番丁~東六番丁間が消えています。これは、明治27年6月に、中央部二階建て、平屋の両翼を従えた立派な駅舎が出来、それに伴ってプラットホーム、操車場なども出来たためで、これによってこの区間の旧・南町通が潰されてしまったからです。
 (でも、大正11年、同14年の航空写真を見ると、駅構内の東五番丁~操車場間に旧・南町通の痕跡が残っています)
   ・二代目仙台駅舎
二代目仙台駅舎_0001 (1024x678).jpg


 「日本鉄道」は、明治39年に国有化され、「日本国有鉄道(国鉄)」と、なります。仙台駅は昭和3年に乗降客数が1日平均9,649人となり、東北一の賑わいを迎えるほどになります。
 しかし、東北本線によって駅正面(西側)と駅裏(東側)に分断された旧仙台城下は、近代化が進む「西側」と、旧態依然の「東側」という二面性を持つようになりました。で、それが如実に現れたのが「南町通」でした。南町通の、駅から東側、つまり、「南町通」と宣言された方は仙台一の目抜き通りとなり、「仙台逓信局(現・中央郵便局)」を始めとした官公庁、各銀行、東北学院などが建ち並ぶようになります。
 そして、この風景は、終戦後の「戦災復興事業」によって再び仙台が大きく変貌するまで続きます。
   ・「東北学院発祥の地」のモニュメント
7月南町通・東一-07_17_2020-039 (1024x768).jpg
 (このモニュメントは、青葉区一番町2丁目の仙建ビルの敷地に在ります。「日本郵政」のビルの斜め向かいです)
 (東北学院は、木町通・北六番丁の貸家で明治19年に設立された「仙台神学校」が前身で、この場所には明治20年に移転し、明治24年には新校舎を建てて「東北学院」と改称します。ちなみに、東二番丁に在ったのは明治38年~平成18年でした)


 それに反しまして、駅東側は、「転車場」や「片倉製糸場」が大きな敷地を占めた事もあり、「町」が衰退して行きます。下に明治38年の地形図を挙げますが、「旧・南町通」の東八番丁と東九番丁の周辺が田圃であった事が分かります。
*明治38年地形図
P明治38年地形図_0001.jpg
 この様なことがありまして、駅東側、東六番丁~東九番丁間の「南町通」は、その存在がだんだん忘れ去られることとなりました。



 おっと、大事なことを忘れる所でした。「南町通」と呼ばれ始めた時期が何時か、という事が未解決でしたね。
 仙台駅前から南町までの旧道を拡幅し、それを「南町通」と呼ぼう、としたのが明治20年12月の事でした。ですが、それ以前にも「南町通」と言う呼び名が在ったらしいことは、それ以前の市街図から分かります。
*明治13年「宮城県仙台区全図」
   仙台市歴史民俗資料館版より
TP明治13年市街図2_0001 (1024x592).jpg
 仙台駅が出来る前、鉄路が敷かれる前の仙台の姿なのですが、赤紫色の線が「南町通」の古い姿です。で、この赤紫色の線上に町名が書かれています。その先頭、赤丸で囲った所を拡大してみます。
   ・上図の部分拡大
T2P明治13年市街図2_0001.jpg
 『南町通一』と書かれていますね。「南町通一丁目」と言う意味です。
 以前にも書いたことがあったのですが、これは明治時代によくあった事で、通りの名を採って町の名とした例です。これが赤紫色の線上に、『南町通一丁目』~『同八丁目』まで、ずらっと並んでいます。
 つまり、この辺りが「町」なる以前から、この通りが「南町通」と呼ばれていた、という事になろうかと思います。これ以外に資料がありませんので、正確な時期を特定できないのですが、少なくとも、幕末あたりには「南町通」と呼ばれていたのではないでしょうか。そしてそれは、東九番丁~南町の間であった、という事になると思います。

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この記事へのコメント

2020年08月02日 15:32
こんにちは。
鉄道と新しい南町通り,そして東側と西側の話,おもしろかったです。
航空写真や地図で見ると本当にメインの通りだったことがわかりました。
2020年08月03日 06:39
ET先生、おはようございます。

 戦後は青葉通がメインストリートとして新たに造られるのですが、昭和40年代ごろまでは、まだ南町通にもかつてのメインストリートとしての風格が残っていました。市電の路線も残っていましたからね。
 次回はその市電と南町通の関係についての話になります。