細横丁の不思議(1)

 仙台の市街地に、「細横丁(ほそよこちょう)」と呼んでいる幹線道路があります。中心部のやや西を南北に走る通りです。
 今回のシリーズは、この「細横丁」にまつわるちょっと「へ~」な話と、私が常々疑問に思っていた事について話してみようと思います。全3回の予定でいます。





1):「細横丁」と「晩翠通(ばんすいどおり)


 実を言いますと、この「細横丁」という呼び名は古い呼び名でして、現在は「仙台市道1159号・晩翠通線」が正式名称で、「晩翠通」が愛称として案内標識などに記されています。なので、この「細横丁」という呼び名は、本来はもう使われなくなっていて良いはずなのですが…
*辻標に記された「細横丁」
5月晩翠通-05_03_2014-023 (1024x576).jpg
*案内標識に記された「晩翠通」
5月定禅寺通-05_03_2014-046 (1024x576).jpg
 この「晩翠通」という愛称が制定されましたのは昭和57~58(1982~83)年の事でして、すでに40年近くが過ぎています。しかしながらこの「晩翠通」という呼び名はそれほどは浸透していませんで、特に40代以上の仙台人は今でも「細横丁」の呼び名を使う方が多いのです。勿論、タクシーの運転手にも「細横丁」の呼び名は通じます。
 と、いうことで、この「晩翠通」という呼び名が何故あまり普及しないのか、というのがひとつ目の”不思議”です。

 この事を分析・解析した資料というものが見当たりませんので、平均的な仙台人である私(笑)の思いを書いてみます。私自身が「晩翠通」よりも「細横丁」の呼び名をよく使う人ですので、一応、仙台人を代表できるのではないかと思います。


 先ほど、昭和57,8年に「晩翠通」という愛称が制定された、と書きました。そのバックグラウンドについて、まずは少し説明してみます。
 私のブログでは何度か出てきている「住居表示に関する法律」ですが、これは昭和37年5月10日に施行されました。これにより、旧来の町名・地番主体の住居表示は、主要道路によって区画される「街区」主体の表記へと再編されて行きます。これは昭和30年代終わりから昭和60年にかけての長い期間に渡るのですが、仙台では大多数が昭和40年前後に完了しています。
 この結果、旧来の住居表示で不便だった複雑な町境や不連続の地番、同一市内に共存する類似町名等の問題が解消される事になったわけなのですが、、、
 しかしながら、これは仙台の様な旧城下町でよくあった事なのですが、慣れ親しんだ由緒ある町名や地名が失われることへの抵抗がかなり強く、歴史的町名・地名の保存運動が各地で起きることとなり、行政訴訟も起きました。
 この問題は国会でも採り上げられる事となり、「あまりにも民意を無視した行政ではないのか」と、いうことで、この「住居表示に関する法律」は修正がかけられる事となり、昭和42年に第一次改正法案、昭和60年に第二次改正法案が出され、施行されます。これにより、当初の「中央」とか。「東、西、南、北」とか、味もそっけもない”新・住居表記”というものはだいぶ少なくなり、上意下達の趣はだいぶ緩和されることとなりました。

 こういう背景があった中で行われたのが昭和57年の「道路愛称名の公募」だったのです。仙台市が道路愛称名の公募をするにあたって示したその趣旨は、『市民生活の利便性や市民の皆様の身近な道路への愛着心の向上を図る』でした。
 と、いいながら、その実態は、行政の利便性・効率改善の目的で行った「住居表示に関する法律」と、市民に深く根差す郷土愛ととの対立緩和の策だった訳です。

 この「住居表示に関する法律」ですが、当時の私がそうであったように、一般市民もその意味を正しく理解していなかったと思います。私等は単に住所表記や町境が変わる、という理解だったのですが、この法律の意味する所は行政区分、つまり行政の基本単位の区分方法の変更だったのです。
 この法律以前の行政の基本単位は「町」でした。これは藩政時代から続く、自治機能を持った「両側町」が基本となっていました。幹線道路を挟んで建ち並ぶ商家で構成される「1町」が基本単位です。江戸時代はこの「1町」の内に「町年寄(呼び名はその土地により異なり、仙台では「検断」と呼ぶ)」を中心とした住民で構成される「町役人(ちょうやくにん)」が居り、一定程度の自治を担っていました。
 この行政の末端組織としての「町」は、明治に入って制度上は無くなるのですが、後の時代、戦中の「隣組」や戦後の「町内会」として、形を変えて具現化する事にもなります。


 では、こうした「町」が、「住居表示に関する法律」によって「街区」となったことによってどのように変貌したか、という事を具体例を挙げて説明してみようと思います。細横丁沿いではないのですが、旧・奥州街道沿いに丁度良い例がありますので、それを使って説明してみようと思います。
*昭和27年の北四番丁付近
   塔文社レトロマップシリーズ2より部分コピー、加筆
P昭和27年北鍛治町付近_0001.jpg
 青い線で囲った所がこの時代の「北四番丁(町名)」で、赤紫色の線で囲った所が「北鍛治町」です。「北四番丁」は飛び飛びになっていますね。これは、江戸時代は繋がってひとつだったのですが、明治・大正・昭和と時代を経るに従って武家屋敷地が細分化され、脇道沿いに新しい町が形成されていったからです。この事についてはいずれ別の機会にお話ししようと思います。
 ともあれ、ここでは「町」が幹線道路を挟んで形成されている事と、町境が複雑であることに注目してください。

 これが「住居表示に関する法律」が適用された後にどう変わったか、という事を現代の地図で確かめてみます。
*現在の北四番丁付近
   昭文社でっか字まっぷ「仙台」より部分コピー、加筆
P現代北鍛治町付近_0001.jpg
 黄緑色の線が「街区」の境界線です。かつての「北四番丁(町名)」は、「上杉2丁目」、「同1丁目」、「木町通2丁目」、「二日町」等に分断・再編され、「北鍛治町」はその歴史的町名を無くし、「木町通2丁目」と「柏木1丁目」に分断されています。
 この現代の「街区制」で注目すべき点は、①幹線道路が境界線になっている、②境界線が直線的で明確である、③一つ一つの区画の大きさがほぼ同じくらいで、大きさの極端なばらつきが無い、の3点だと思います。

 と、いうことで、これで行政の効率は改善(郵便屋さんが迷わなくなったとか…)されたわけなのですが、ひとつ従来の常識が通用しない事態も出てきました。それは道路・通りの呼称です。
 「住居表示に関する法律」の適用以前の道路・通りの呼称は、基本は「町」の名に「通り」を付けることで行っていました。上の例で言えば、「北四番丁<通り>」、「北鍛治町<通り>」等です。また、複数の「町」を繋ぐ通りで、よく使われる通りに関しては「固有の通りの名称」もありました。例えば、「定禅寺通」や「勾当台通」等、そして「細横丁」もそうでした。
 しかしながら、こうした常識は「住居表示に関する法律」の適用後は通用しないことになります。多くの「(旧)町名」が無くなったり、「街区名」に変ったりしたからであり、主要な道路が街区の境界線になってしまったからです。
 そこで行われたのが以前お話しした「道路の通称に歴史的町名を生かそう」という事業であり、先ほど申し上げた「道路愛称名の公募」だったのです。
 上の地図をもう一度見ていただきたいのですが、旧・北鍛治町の所に「青葉神社通」という、通りの名称が記されています。この名も昭和57年5月に新たに制定された「道路の愛称」です。「住居表示に関する法律」以前は、この道路は「北鍛治町通り」、「通町」、「奥州街道」、「南部道」等と呼ばれていまして、その目的によって唱える名称が異なっていました。基本、「道路=町」であり、「通り」は「何々に向かう道」だったからです。「道路・通り」の名称が「町」から分離され、単体での呼称が確立して行くのは平成の中頃からになります。




 長々と時代背景を述べてしまいました。本題に戻ります。何故、我々仙台人が「晩翠通」という新しい”愛称”を使うことをためらっているか、という事ですが、上のような時代背景を心に含みつつ、以下の様な”屁理屈”を理由にしています。
 ①もうすでに「細横丁」という名前があるのに、何をいまさら…
 ②土井晩翠先生は確かに郷土の偉人だけど、その名を「細横丁」と取り換えるのはちょっと異論があるなあ…


 ①についてですが、「細横丁」の名は藩政時代から続く呼び名でして、少なくても二百年以上続く通りの名称です。しかも、この「細横丁」は江戸時代はさほど重要な通りでは無かったのですが、時代が下って明治中期から昭和初期と、大戦後に、それぞれ別の理由で注目度が高まって、仙台人の間で知られる存在になりました。
 明治~昭和初期に注目度が高まったのは、「常磐町遊郭」と、花街としての国分町の間の通りだったからです。「常磐町遊郭」は明治37年に小田原の蜂屋敷に移り、遊郭があった所は「元常磐町」と名が変わったのですが(移った先、「小田原蜂屋敷」は、この時に「小田原常磐町」という名称になりました。これは昭和33年の「赤線廃止令」で「旅籠町」と名を変えています。現在の青葉区小田原6丁目の一角です)、その後も料理茶屋や置屋等が細横丁を挟んだ「跡付丁」~「元櫓丁」辺りに残り、この辺も”準花街”となっていました(”青線”が引かれていた、という様な話も聞いたことがあります)
 戦後に知名度が上がったのは、戦災復興計画で広い道路となったからです。仙台の市街地は、東西の幹線道路の本数に比べて南北の幹線道路の本数が少なかったので、細横丁が幹線道路になったのは喜ばれました。
 と、いうことで、なじみ深い「細横丁」の名を捨てて、新たな「晩翠通」に飛びつくにはためらいがあったのです。

 ②についてですが、「細横丁」を「晩翠通」という名に改めますよ、という報道がされた時、仙台雀が喧しく騒ぎ立てた内容です。「細横丁」と土井晩翠の関連性は言うほど密接じゃないんじゃないの、ということです。
 公募の時、「晩翠通」が選定された理由に、「土井晩翠の住居(晩翠草堂)がこの通りの近くに在る」、「土井晩翠の学んだ小学校がこの通り沿いに在る」、「土井晩翠は郷土の偉人である」の三点が挙げられました。最後の「土井晩翠は郷土の偉人」という事にはだれも異論は無かったのですが、他の二点については、仙台を良く知る人の間では首肯しにくい事でした。
 まず、「土井晩翠の住居(晩翠草堂)」ですが、
   ・「土井晩翠の住居(晩翠草堂)」
7月青葉通-07_02_2014-023 (1024x576).jpg
確かに「細横丁」の近くなのですが、所在地としては「本荒町(もとあらまち/現在の大町1丁目)」です。面する道路も「細横丁」ではなくて「青葉通」(昭和初期ならば「本荒町通り」)です。「細横丁」に関連付けるのはちょっと強引に思えます。
   ・「晩翠草堂」と「細横丁」の位置関係
7月青葉通-07_02_2014-020 (1024x576).jpg
 (赤紫色の線が「細横丁」、黄色の星印が「晩翠草堂」です。「細横丁」に「晩翠通」と名付けるよりも、「青葉通」を「晩翠通」と名付ける方が自然な感じがしませんか?)

 もうひとつの、「土井晩翠の学んだ小学校がこの通り沿いに在る」という件ですが、この小学校というのは「木町通小学校」のことです。
   ・「木町通小学校」と、『土井晩翠先生の母校』の横断幕
4月晩翠通-04_20_2014-003 (1024x576).jpg4月晩翠通-04_20_2014-009.JPG
 この写真の様に、たしかにこの小学校は、”現在は”細横丁に面しています。しかし、「木町通ー」という名称に在るとおり、この小学校は創立時(明治時代)は「木町通」に面していて、校門も木町通に開いていたのです。
 さらに、土井晩翠がこの「木町通小学校」に通っていたのは明治11年から明治13年までの2年ちょっとで、明治13年からは「立町小学校」に転校しています。卒業も立町小学校です。立町小学校に在籍していた期間の方が長いのです。
   ・「立町小学校」と、校門前に掲げられた『土井晩翠先生の母校』の看板
7月西公園通-07_02_2014-021 (1024x576).jpg
 で、「立町小学校」は、広瀬通と西公園通の角にあり、細横丁からは大部離れています。なので、これもちょっと強引な気がするのですが…

 他にも、この「晩翠通」の名を付ける時に、土井先生のご遺族の方からクレームがあったりとか、色々ありまして、それも「晩翠通」の呼称を使う事のためらいにもなっています。
 ま、そう言う事で、ちょっと古い仙台人たちはもっぱら「細横丁」の呼称を使っているのですが、交通情報であったり、新聞記事であったり、公式な所では「晩翠通」が使われるようになっていますので、この「細横丁」という名もやがては忘れ去られるものなのかもしれません。







 次回は、「細横丁は何で”細”横丁なの?」という謎について書いてみようと思います。

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この記事へのコメント

2020年06月21日 08:50
おはようございます。
仙台生まれでない私にとっては,実は青葉通り,広瀬通り,定禅寺通り以外は今でもなんとなくでやり過ごしています。
すみません。「細横丁」初めて聞きました。読んでいてずっと疑問だった「細」の謎が次回解けるんですね!
2020年06月21日 09:35
ET先生、おはようございます。

 ん~、「細横丁」の名はやはり年寄にしか分からなくなっているのかなあ…

 はい、「細横丁」の名称の謂れを次回お話しします。こんな広い道なのに何で「細ー」なの? というのは、私が中・高生の時に抱いた疑問でした。意外に単純な答えなのですけどね(笑)。