寺子屋と往来物について

 前回のクイズの出題材料としました「往来物」と、仙台領内の「寺子屋」について簡単な説明を加えておこうと思います。




*榴岡天満宮の「筆塚」
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 榴岡天満宮の手水屋の傍らには3基の「筆塚(ふでづか)」が立っています。向かって一番左端が「虎岩八弥頼景(とらいわはちやよりかげ)の師恩を顕彰した「筆塚」です。虎岩八弥頼景は、五代藩主吉村に見出され、祐筆(ゆうひつ)を務めるほどの能筆家でした。「酔墨堂(すいぼくどう)」と号し、城下に筆道(書道)の私塾を開き、城下一の評判でした。延享4(1747)年、仙台で没しています。



  1:仙台城下の「寺子屋」
 
 「寺子屋」は江戸時代の初等教育施設です。「寺子屋」と言う呼び名は上方の方の言葉で、江戸城下では「手習いの師匠」とか、「○○指南」とか言っていて、看板は「幼童筆學所」とか「手跡指南」、「筆道指南」とか書いた下に「○○塾△△」とか「○○堂△△」等と記されていました。ちなみに、「△△」は塾主の名前です。仙台も後者であったと思われます。しかし、歴史用語としては「寺子屋」の方が定着していますので、ここでもこの用語を使わせていただきます。
 江戸時代には初等教育の公的な機関はほぼ無く、「寺子屋」は私営の”塾”でした。中・高等教育機関は、「藩校」や「郷学」等の公的機関も在りましたが、「算術」や「筆道」、「漢学」、「習礼」等を教える私塾も数多くありました。
 明治中期に纏められた「日本教育史資料」の記述に拠れば、幕末期の宮城県下の「寺子屋」の数は567、私塾の数は52であったそうです。でも、維新後だいぶ経ってからの調査ですので、網羅しきれていないと思われます。実際はもう少し数が多かったのではないでしょうか。
 「寺子屋」の教師の身分なのですが、一般には町人(商人、豪農)が多く、次に武士(浪人や武士の次男、三男等)、その次に僧侶や神官となっています。しかし、仙台領内では武士の比率が高く、前出の「日本教育史資料」では、武士266名、農民118名、平民(町人)17名、医師50名、修験者51名、僧侶38名、神職23名、その他5名となっていました。修験者の数も多いですね。
 仙台領内で武士身分の塾主が多いのは、仙台藩が「地方知行制(じかたちぎょうせい)」を採っていて、郷村部の「在郷屋敷」に在住する武士が多かった事に関係していると思われます。
 「寺子屋」の生徒たちは「筆子(ふでこ)」と呼ばれました。冒頭写真の「筆塚」は、一般には「筆子塚」と総称されます。筆子達が師の遺徳を偲んで建てるからです。この他に、使い古した筆等を供養する「筆塚」もあるのですが、こちらは「筆子塚」とは呼びません。
 この「寺子屋」の生徒の「筆子」達ですが、多くは商人・町人、農民の子供たちです。割合は少ないですが、武士の子弟もいました。就学年齢は概ね7歳(数え)から11、12歳ですが、その途中の出入りもありましたし、18歳くらいまで通う子もいました。『男女七歳にして席を同じゅうせず』とか言いますが、一般には「寺子屋」では男女共学でした(ただし、女子の比率は少なく、13%ほど)。勿論、女子だけの「寺子屋」もあって、そこでは当時は男子の学ばない裁縫や機織り等も教えていました。ただ、女子専門の「寺子屋」の数は大変少ないです(仙台城下には女子専門の「寺子屋」は無かったようです)。男子のみの「寺子屋」もあって、仙台城下では1塾、郷村部では21塾数えることが出来ます。
 仙台城下の「寺子屋」の生徒数は、少ないところでは十数人、多いところでは1200人を超える処もありますが、中心的なところは1塾あたり30~60人位で、これは江戸城下とあまり変わりません。





  2:「往来物」について
 「往来」とは「往復書簡」の事で、中世の頃、古今の能筆家の書状を写して書道の手本としたことから、そのような”読み書き”の手本を「往来物」と呼ぶようになり、「寺子屋」の教材としてよく使われていました。
 「往来物」としてもっとも有名で、代表ともいえるのは「庭訓往来(ていきんおうらい)」です。女子用の「女庭訓(おんなていきん)」も有名ですね。
   ・「庭訓往来」
     仙台市歴史民俗資料館「学都仙台と杜の都」2015年図録よりコピー
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 「庭訓往来」、「女庭訓」は、時節ごとの手紙の見本を示し、それらに関する言葉や漢字を習う本です。どんな「往来物」にも本文記述に関した挿絵が入っていて、それによって事物の名称や行事についても学ぶ事が出来ます。

 女子用の「往来物」としてもっとも有名なものは「女今川(おんないまがわ)」と「女大学(おんなだいがく)です。
   ・「女今川教種全」
     -同上ー
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 『今川になぞらへて自(みずから)をいましむ制詞の条々』と前書きして、以下箇条書きに守るべき戒めを書いています。
 「今川」は、南北朝の武将、今川貞世(いまがわさだよ)が、弟の仲秋に宛てて書いた家訓の手紙、「今川状」のことです。これになぞらえて女性としての教訓を書いたものが「女今川」です。戦前の女学校を出た私の叔母などはこれをそらんじていたのですが…、現代(いま)の女性(ひと)はこの本の題名さえ知らないでしょうね。

 今回クイズのタネ本として使った「実語教童学教 全」の「実語教」と「童子教」も、「往来物」としてはよく知られた文です。いずれも児童向けの教訓が書かれた文で、仏教や儒教の要素を多分に含んでいます。

 この他に、商人の子弟、丁稚向けの「商売往来」や、農民の子弟向けの「百姓往来」等の「往来物」もよく使われていたようです。より実業的な教科書ですね。
 その他、地理・地名も学べるものとしては「道中往来」等と言うものもあります。
   ・仙台ローカルな道中往来の「仙府年中往来 完」
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 このような”読み書き”の教本、「往来物」の内容や体裁は、明治に入ってからの「小学読本」に引き継がれます





  3:「実語教」の冒頭部分
 参考までに、「実語教」の冒頭部分と、その現代語表記を漢字かな交じり文で載せておきます。原文の崩し字と対比して見ていただければ、と思います。
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 (”へのへのもへじ”はこの時代でも変わらずですね)

 『実語教
 山高きがゆえに貴(とうと)からず 木有るをもって貴しとす
 人肥えたるがゆえに貴からず 智あるをもって貴しとす
 富これ一生の財(ざい) 身滅すれば即ち共に滅す
 智はこれ万代(ばんだい)の財(たから) 命終えれば即ち行きて従う
 玉磨かざれば光無し 光無きを石瓦とす』

 (注:「と」や「す」、「う」、「為」等は二種類の字体で書かれています)

 どこかで聞いたような文句ですね。昔の人はこのようなものを基礎教養としていたのですね。なので、講談や落語なんかにもこの「実語教」の一節が使われたりするわけです。

 この「実語教」ですが、版本によってその内容や字句が異なっていたりします。原文が世に出てから数百年間、何度も使いまわされたので仕方のないことだと思います。



 なお、私が所有する「実語教童学教 全」は、文政10(1827)年三月の版刻でした。版元は国分町十九軒の伊勢屋半右衛門、「伊勢半」と通称される仙台でも有数の書肆(しょし/本屋)、版元です。
   ・「実語教童学教 全」の奧付
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この記事へのコメント

2018年08月22日 23:49
こんばんは。大学生のときに高校は男子校だったと言ったら,「私立だったの?」と言われました。
今では共学化や統合が進み,公立高校のほとんどが共学になっていますが,昔は県内多くの普通科高校では男女別になっていました。
今回,寺子屋時代から男女別が多かったのかと思ったら,そうではないようですね。では,どうして宮城や福島は男女別学の高校が多かったのかなあ。
2018年08月23日 08:30
ET先生、おはようございます。

 男女別学になるのは高等教育からでしたね。初・中等教育では一部のミッションスクールを除けば共学でした。
 江戸時代も初等教育以外は男女別です。男女で学ぶ内容が異なりますので。と、いうか、江戸時代は女性の高等教育機関はありませんでした。女性が高等教育を受けようとすれば、男子の中に単身飛び込んで行かなければなりませんでした。なので、女性が高等教育を受けるのは極めて難しかったです。
 明治から戦前までは学校規則(だったかな?)とか言う文部省の規則で男女別学だったのですが、戦後はGHQの指導などで共学校が増えて行きます。しかし宮城県や福島県(確か長野県もそうでしたね)が平成まで別学校が残った理由については良く分かりません。

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