東西線沿線散歩 その7「大番士の登城」①

 シリーズのテーマからは少し逸れますが、こんな散歩の楽しみ方も良いかな、と思いまして…

 今回は、江戸時代の仙台藩の武士になったつもりで二の丸跡まで散歩してみます。勿論、江戸時代には地下鉄東西線が有りませんので、当然歩きになります。





1)モデルをどうしようか?

 まずは、どんな人物になるかですが、武士団の中核となった「大番士」が適当なのでは、と思います。武士団の中では人数も多く、中級武士なので「サムライ」の平均的な姿が描けるのではないかと思います。
 仙台藩の大番士は、奉行(他家の家老にあたる)直下の「大番組」に属します。大番組には、幕末頃で3717家が属していましたが、大番士はその中で禄高が知行千石未満の「平士」身分の者達です。360家づつ10組、3600家いました。禄高が500石~1000石の者が68家、100石~500石は994家ですので、100石未満の知行取りや切米・扶持米取りの者は2538家いたことになります。

 大番組は、戦時には領主の旗本として、軍事力の中核となる役目を担っています。平時は、城内や領内の警備、治安維持が任務です。いわゆる「武官」なのですが、ここから町奉行や郡奉行など、藩政の中核を担う人物も多く出ています。
 


 さて、禄高300石前後の大番士になろうかと思うのですが…
 と、今回のテーマにうってつけのモデルを一人見つけました。
*そのモデルが住んでいたところ、「百騎丁」
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 この場所の本来の地名は、「東二番丁」です。現在の地番で言えば、「青葉区一番町4丁目6‐1、仙台第一生命タワービル」になります。「百騎丁(ひゃっきちょう)」はこの辺りの別名です。

 「百騎丁(ひゃっきちょう)」
 いわゆる「伊達騒動(寛文事件)」の際、当時の幕府の老中、板倉内膳正重矩(いたくらないぜんのかみしげのり)は伊達家存続のために尽力してくれました。その謝礼の為、騎馬侍百騎、足軽二百人を進上申し上げたい、と申し出たところ、「御芳志の段は千万かたじけない。なれど、たかだか三万石の内情では召し抱えることが困難である。せっかくの思し召しなれど、御辞退申す。」との返礼でした。
 そこで伊達家は、この騎馬侍百騎と足軽二百人を「御預り分」として仙台城下東二番丁に留め置き、有事の際は板倉家に差し向ける、としたのです。
 ここから、東二番丁の定禅寺通~柳町通を「百騎丁」と別称するようになりました。
*「百騎丁」の道標
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 古地図を使って「百騎丁」からモデルになりそうな人をピックアップしてみました。
*延宝~天和年間(1673年~1683年)の「仙台城下絵図」から部分コピー
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 上記二枚の写真の所で、ぴったりの人物を見つけました。城下絵図で赤丸で囲った人物です。「木幡又右衛門(こばた またえもん)」とあります。


 さて、それではこの「木幡又右衛門」とはどのような人物だったのでしょう。
 このような時に使う史料は、「伊達世臣家譜」や「御知行被下置御牒(ごちぎょうくだしおかるるおんちょう)」等ですが、今回は後者を使ってみます。

 「御知行被下置御牒」は、延宝4(1676)年の末から3年4ヶ月かけて、仙台藩が一門一家・一族、侍衆、御鷹師衆、在々に被指置(さしおかるる)御番外衆、片倉小十郎内ノ者(白石片倉家家臣、白石城は仙台藩の支城なので別記されている)に至るまで十石以上の武士達に、知行する土地の「先祖以来の拝領の由緒」を書き出させ、それをまとめたものです。現代の「身上書」の様な物と思っていただければ結構です。
 いわゆる「伊達騒動」が土地の境界争いを発端として起こったことから、二度と同様の事が起きないよう、知行地、知行高の確認を行ったのです。現在、六十冊に分冊された写本が宮城県図書館の所蔵になっています。
 私が仙台市図書館から借り出してきたのは、それを活字化した「仙台藩家臣録」で、昭和53年に歴史図書社から出版されたものです。

 *「仙台藩家臣録」の第1巻p335から「木幡又右衛門」の項をコピーしました。
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 日付の部分が次ページなので切れていますが、『延宝七年七月二十一日』とありますので、上の城下絵図の時期と同じ頃になります。
 長くなりますが、適宜説明を加え、現代文に置き換え、内容を書き出してみます。

 『養祖父は木幡杢助(もくすけ)と言って福島県相馬の出で、貞山様(初代藩主正宗)に召出され、知行高三十貫文(これは貫高制による表記、石高表記に換算すると、300石)で仕えました。
 (正宗の家臣となった時期が明記されていないが、上記の記述から想像するに文禄年間ではなかったかと思われる。)
 江州(近江国、滋賀県)郡司を仰せつかり、数年勤めましたが、寛永3年5月26日京都で病死いたしました。
 (正宗は、豊臣秀吉から5千石、家康の代に5千石、都合1万石を「在京賄料」として、近江国蒲生郡、野洲郡から与えられている。木幡杢助はこの郡司として働いていたことになる。彼の知行地もここに在ったという事だろうか?)
 杢助の嫡子は私の養父ですが、何時、どなたの申し渡しによって知行拝領・家督相続の義を行ったかは伝え聞いていません。
 (武家の家督相続では上司もしくは目付の見分が必要。また、主君から「安堵状(安土状と書かれる事も有る)」が出され、その身分の確認が行われる。)
 私の養父、又右衛門は、貞山様の代に江戸上屋敷の番士(「江戸番馬上」身分、江戸番頭配下、若年寄支配)で、御典薬を預かり、管理するお役目を勤めました。
 (正宗公晩年の頃の話なので、これは医者であったという事ではなく、持病の薬を預かってお側近くに近習し、正宗公の具合が悪くなった時に差し出す役目だったものと思われる。正宗公は、晩年腹腔、或は胃に腫瘍ができ、食事もままならないほどだったという。だが、又右衛門にとってはこの役目は大変名誉なことだったので、ここに明記してあるものと思われる。)
 養父又右衛門は、義山様(二代藩主忠宗)の代の「寛永惣(総)検地」に因って知行高が二割増しとなり、三十六貫七百文となりました。
 (これは「二割出目(にわりだしめ)と呼ばれる行政処置。少しややこしい話なので、別項を設け説明する。)
 その後養父は竜ケ崎郡司を十八年勤め、
 (仙台藩は先ほどの近江の国の一万石の他、江戸賄料として常州・常陸の国にも一万石の領地が有った。この地を支配するのは出入司(しゅつにゅうつかさ)配下の「常州竜ケ崎奉行」で、その下に竜ケ崎郡司等の各地の「郡司(こおりつかさ)」や代官がいた。)
引き続き、仙台の地で作事奉行を十年勤めたところでこの役を辞し、大番組となったが、寛文八年二月四日病死いたしました。
 跡目相続については、婿養子である私をもってするようにと、同年四月、古内志摩様(2代藩主伊達忠宗の次男、伊達 光宗の家老と思われる。)から仰せつかりました。
 私は、佐藤右衛門(家格:「一族」、知行高:百貫文。又右衛門よりかははるかに身分が上だが、同じ相馬出身。)の実弟でしたが、養父又右衛門に男子が無く、私は婿養子です。
 (この辺の書き方に曖昧さが有って、大いに想像を掻き立てさせられる。これほど身分の違う家になぜ婿養子に入ったのか、もしかして「末期養子(まつごようし:臨終間際に養子縁組をすること。往々にしてその死を隠して行う事も有る。)」ではなかったのか、お金は動いたのか、等。また、知行高36貫なにがしの「平士」の家の養子縁組にしては異例の感が有る身分の見分役も佐藤右衛門の家格によるものなのか、興味を掻き立てさせられる。)
 跡目相続後、茂庭大蔵御番組に属し、虎間御番を勤めていましたところ、江戸御番を仰せ付けられ、六年間あい勤めました。その後は、足軽奉行を仰せ付けられ一年半勤め、続いて延宝四年十月に近習目付を仰せつかりました。
 (茂庭大蔵は人名でよいと思うのだが、伊達世臣録、仙台人名大辞典等に見えず。茂庭大隅の間違いでは?
  足軽奉行は若年寄支配「旗本足軽頭」のことか?
  近習目付は奉行直轄。藩主に直言でき、行政、人事、財政の疑義を糺す監察官。きわめて重職。)

 現在でも私の知行高は三十六貫七百文です。
      以上、延宝七年七月二十一日』
 (『今もって拙者の知行は 云々』と書いたのは、「近習目付と言う重職に就いたのですが、給料が上がっていませんけど・・・」と、拗ねてみせたのであろうか。ちょっと面白い。)





 だいぶイメージが湧いてきましたが、背景となるものをもう少し調べてみようと思います。

 武士のあり様を見る場合、「御恩と奉公」という言葉がキーワードになります。主人から与えてもらった俸禄や身分、役職等が「御恩」であり、それに報いる義務・責任が「奉公」です。この「御恩と奉公」が武士の日々の生活形態や規範に大きく影響しています。

 もうひとつ、
 今、仙台藩の武士像を描き出そうとしているわけですが、仙台藩は他藩と異なる所が随所に見られます。それを表す言葉が、「仙台藩は中世の遺風を残している」です。以下でも、「仙台藩では…」とか、「他藩とは異なって…」とか、但し書きをつけて説明することがあると思います。
 単に「時代に乗り遅れた」とか、「田舎だから」では片づけられない理由や経緯があるのですが・・・、今は深く問わないでください。私も勉強不足で考察が足りていませんので、その理由を簡潔に説明できません。

 ともあれ、これらを念頭に以下を見ていただければと思います。


2)どっちが偉い?
  (武士の身分の上下)

 武士の身分の上下は、たいへん細かく厳しく定められています。
 先ずは、領主の家臣となった経緯や領主との繋がりの軽重から決められる「家格」、そして、「役職」は藩務、軍務の命令伝達の上下に関わります。最後は「禄高」です。多くの給料(禄)をもらっている人はやはり偉いですし、例外も多いですが、概して偉い人は多くの給料をもらっています。
 この三つのファクターで身分の上下が決まります。その順番は、家格>役職>禄高となります。「家格」が最優先するのは、前出の「御恩と奉公」の「御恩」が重要視されるからです。

 仙台藩の「家格」の順位は以下のようになっています。
①「一門」:
 戦国時代に大名級の由緒を持つ家柄か、伊達家の分家筋の家柄の家臣です。11家あります。
 概ね知行高も高く、1万石以上、大名級の知行高の家が6家有りますが、500石以下の家も1家有ります。
 この「御一門衆」は、幕府で言えば「御三卿・御三家」のような存在で、直接藩の役職に就いて藩政を掌る事は有りませんでしたが、藩主家の浮沈を左右するような出来事(藩主の交代とか)の時には、その家格を裏付けに口を出すことがありました。いわゆる「伊達騒動」の時などがその例です。

②「一家・準一家」:
 一家は、ほとんどが戦国時代に在地領主や舘主(たてぬし)だった家柄ですが、片倉(小十郎)家のように神官の家から取り立てられた者もいます。
 準一家は、戦国時代に奥羽の大名であった家の分家筋や有力家臣であった家柄の者です。正宗の代に家臣となった者が大多数です。
 一家は17家、準一家は10家いました。奉行職や大番頭(おおばんがしら)等の重職に就くものが多く出ています。

③「一族」:
 一家と同様に古くからの伊達家譜代の家臣です。22家いました。一家と同様に奉行、若年寄、大番頭等の重職に就いています。

 ここまでが「上級武士」で、俗に「御一門衆」、「御一家御一族衆」などと呼ばれます。全員が知行地を持ち、「城」(片倉家のみ)、「要害」、「所」、「在所」を拝領し、要害、所には「舘(たて)」と呼ばれる城館が在り、町屋敷や寺屋敷、足軽屋敷を備えた小城下町になっていました。「在所」は、農村部に拝領した屋敷と家中屋敷、足軽屋敷、山林からなっていますが、町場は無く、拝領屋敷も城館の形態をとっていません。
 上級家臣のほとんどが「城」、「要害」、「所」のいずれかを拝領していますが、中級家臣が「要害」、「所」、「在所」を拝領している例も多いです。かれらはこれらの拝領地で独自の知行地経営を行っています(地方知行制:じかたちぎょうせい)。
 この拝領地の格は、「城」>「要害」>「所」>「在所」となります。これは経営上の問題から、ほぼ禄高に比例しています。

④「宿老(しゅくろう)」:
 戦国時代、伊達家当主のお側近くに仕えたのが、下に記す「着座」なのですが、その中でも当主を助け重要な施策に携わった重臣達です。身分は低いのですが、江戸時代になっても「奉行」などの要職に就くものが多く出ました。
 『一門・一家・一族の輩(ともがら)を指揮する』と、「司属部分録(しぞくぶぶんろく:藩の職制を記した物)」に書かれるように、時には自分よりも遥かに身分が上の者の行いを糾弾することもありました。そのせいか、江戸時代初期に7家いた宿老は、江戸後期には3家に半減していました。御家断絶や降格されたそうです。原田甲斐はこの宿老でした。
 この者たちは、「要害」や「所」を拝領しています。

⑤「着座(ちゃくざ)」:
 低い身分ながら、功績によって列せられた者達です。正宗公の代以後に登用された者も多いです。28家いました。
 式日に登城し、「宿老」の下座に列し、藩主に言上することができます。「着座」の中にも上下の順が有って、座る席の順が定まっています。

⑥「太刀上(たちあげ)」:
 正月の賀礼に太刀(木製で形式上の物です)を献上し、藩主から盃を頂戴する家柄です。元は一族の家柄だったが降格されたものとか、一門・一家・一族の分家筋です。

⑦「召出(めしだし)」:
 毎年の正月の宴会に召出される家柄、という意味です。一番座38家、二番座51家からなります。
 一番座の多くは上級家臣の分家筋で、二番座は藩主の側近くで藩政に携わり、「若年寄」も多く輩出しています。

⑧「平士(へいし)」:
 中級武士の大半がこの家格です。今回の主人公もここに属します。軍事、行政の中核を担う者達です。
 この「平士」家格の者の大半は大番組に属する大番士なのですが、大番士にも順位が有ります。「虎之間番士」>「中之間番士」>「次之間番士」>「御広間番士」の順になります。「大番組」は奉行直下の「大番頭(おおばんがしら)」が率います。
 「平士」の数ですが、史料が断片的でもあってはっきりしませんが、三千数百家と思われます。その内、五百石以上の「平士」は72家、百石~五百石の平士は994家です。今回の主人公は、この994家の中の1家です。
 大番士以上の家格(平士以上の家格も含む)で、知行高百石未満は972家、切米・扶持米(次回説明します)取りの者は1791家です。
 数字の根拠となる史料が異なるので、単純比較がしにくいのですが、平士の三分の二は知行高百石未満か切米・扶持米取りだったと推測されます。

 ここまでが中級武士で、以下は下級武士と武家奉公人になります。


⑨「組士(くみし)」:
 下級武士です。
 職掌による呼び名の、「徒組(かちぐみ)」、「徒小姓組」、「鷹匠組」、「大所人(だいどころにん)」等、由来・由緒による呼び名の、「不断組(ふだんぐみ)」、「名懸組(なかけぐみ)」、「給主組(きゅうしゅぐみ)」に分けられていました。
 「給主組」は、大身の家臣に預けられ、在郷地で大身の家臣の「与力」として働く者達です。大身家臣の居館周辺に知行地と在郷屋敷を給付されて住んでいます。つまり、「知行取り」です。
 「給主組」を別とすれば、他の「組士」は、ほとんどが扶持米・切米取りで、仙台城下住まいです。
 「組士」は1244家いました。


 ここまでが「士分」、いわゆる「侍身分」になります。
 「士分」は主人(藩主もしくは所属する○○家の当主)」との主従関係によって結ばれているので(御恩と奉公)、その身分はよほどの失敗が無い限り世襲されます。主従の代替わりの時はその身分の再確認がなされます。例えば藩主の代替わりの時などですが、「知行安堵状」が発行されるなどしてその身分の再確認をします。


⑩「卒」:
 「旗本鉄砲組」、「旗本弓組」等を含む「足軽」、「小人(こびと:江戸幕府では旗本などに使われるこうした者を「小者」と呼んでいる)」、「町奉行同心」、「目明(仙台藩では公式に家臣として雇い入れています)」、「諸職人」等々、五千人前後の者達です。
 身分は、「凡下(ぼんげ)」と言って百姓町民と同じで、原則、名字・帯刀も許されないのですが、役目柄によっては「見なし武士」というか、「見なし公務員」というか・・・、名字を使う事も有りますし、帯刀も有ったようです。司法・行政的な扱いも、場合によっては百姓町民とは少し異なる手続きになる場合が有ります。この辺は未だ勉強不足で、明確な説明ができません。
 雇用形態は、「御恩奉公」の主従関係ではなく、「年季奉公」が建前です。しかし、特別な場合が無い限り、世襲になるようです。
 ただし、「渡り中間」は、はっきりと一年とか一年半とかの期限の年季奉公ですし、「雇中間」は、ひどい時には宿本陣から宿境までのパートタイマーだったりします。
 俸禄は、ほとんどが「切米・扶持米」です。



 以上の事柄から見て、今回の主人公は、家格的には中の下ですが、大勢いる家臣団の中では上位のグループ(人数的に上位少数の、という意味で)の下の方に属する人と見なせます。

 長くなってしまいました。
 「役職」についての説明は今回割愛しまして、禄高他の説明は、次回に廻します。
 また、参考図書に付きましては、次回の文末にまとめて記すことにします。


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