flom 仙台

アクセスカウンタ

zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その4)

<<   作成日時 : 2017/07/23 16:16   >>

ナイス ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

 今回と次回で、最も多い人口だった武士たちの居住区がどのようにして定まったのかを見てみようと思います。






 B上級武士、中級武士の居住区を定める
 仙台伊達家において「上級武士」とは、概ね「一門」、「一家・準一家」、「一族」の家格の武士達とするのが、先ずは順当なのではないかと思います。
 ただ、「一門」でも1000石台、「一家」、「一族」の者でも100石台の者もいて、その屋敷は中級武士のそれとあまり変わらない(門構えは屋敷の広さに関係なく、家格に応じた格式の物になります)ので、私のこの記事では上記の家格の者に、家格は下だが知行高が1000石以上の者も加えることにします。仙台城下の武家屋敷の広さを定めた「仙台惣屋敷定」(注1)では1000石以上は『(広さの)定め無し』となるからです。また、1000石以上の武士の場合、たとえ家格が上から8番目の「平士」であっても特別の待遇を受けていました。これも理由のひとつです。ちなみに、1000石以上の知行を持つ平士は6家ありました。
 この分類にしますと、「宿老」の家格の者のすべてと、「着座」〜「平士」の家格の者の一部が含まれることになります。
 これら「上級武士」の家数は、おおざっぱな数え方ですが、190家前後です。

 これらの上級武士たちの登城は通常馬や駕籠ですので、お城への出仕(通勤?)の便を考えて、というのは当たらないと思うのですが、屋敷は最もお城に近い位置に配置されています。その配置の本当の理由は、一つには防衛上であり、もう一つは威厳を保つためであったと思われます。
 上級武士の邸宅は、仙台城の内堀とも言える広瀬川(当時は城前面を流れる広瀬川を「仙臺川」と呼んでいた)に沿って配置されました。江戸の町の様に土塀を連ねることはありませんでしたが、個々に屋敷塀を構えた広い邸宅は、戦時には砦や前線基地としての役割を担ったものと思います。
 また、建ち並ぶ大きな屋敷と鬱蒼(うっそう)とした屋敷森を前景にした城は領主の偉大さや領内の繁栄を誇示する役割も果たしたものと思います。

   ・中島丁(なかじまちょう)
画像

 (上級武士の屋敷町としては最も北に位置します。現在の八幡町の南、澱橋の近くです。広大な区画の土地があったことから、明治以降に公立や私立の高校が建てられました。また、現在でも個人の邸宅が多い地域になっています。)

   ・片平丁(かたひらちょう)
画像

 (片平丁のほぼ真ん中辺りになります。現在、東北大学片平キャンパスに隣接する「放送大学 宮城学習センター」となっている所です。寛文2年の城下絵図にはこの場所は『伊達佐兵衛殿』と書いてあり、岩谷堂伊達氏政隆かその第七子の宗規の屋敷であったようです。この撮影地点の後方約150mの場所は仙台地方裁判所で、寛文の頃までは伊達騒動で有名になった原田甲斐の屋敷でした。)
画像

 (この写真は、現在の西公園の一部、中ノ瀬橋付近です。寛文2年の城下絵図では石母田織部(宮崎在住)の屋敷があった辺りです。写真左手、道を挟んだ反対側も西公園なのですが、この場所には伊達騒動のもう一方の当事者伊達安芸の屋敷が在りました。この辺りは明治以降には「元柳町」や「中ノ町」と呼ばれていたのですが、江戸時代はこの辺も片平丁でした。)
 片平丁は、大変広い屋敷町で、北は北一番丁通の西端、南は田町に至るまでの広瀬川の川沿い一帯を指していました。明治以降は、北端が大町頭から、南端は五橋の裏通り、「南六軒町」までとなりました。現在は、北が片平消防署、裁判所の敷地から、南は片平キャンパスの終わる所、「電気通信研究所」の敷地までで、往時の半分ほどの範囲になっています。
 「片平丁」の名は、此処が「片側町」だったことに拠ります。上級武士の屋敷は、地形の許す範囲で出来るだけ広い土地を確保しようとしますので、不定形になりますし、「両側町」である必要もありません。と、いうか、侍屋敷は街道から外れたところに割り振られています。さらに、侍屋敷に面する道は意識して狭い道にしています。これも防衛上の理由です。
 片平丁は別名「大名小路」とも呼ばれました。知行高が1万石を超える、大名並みの大身旗本もいたからです。

 上級武士の屋敷町は、以上の他に、「川内(かわうち:寛文事件の後にはしばらく幕府の国目付の邸宅が置かれました)」、「支倉(はせくら/現在の元支倉丁のことです:元禄7,8年以降?)」、「清水小路(しずこうじ:寛永以降?)」があります。
   ・上級武士の居住区
画像

 葡萄色に塗ったところが上級武士の居住区です。
 これら上級武士の居住区は、廃嫡や降格、転封等で住む人間の変動はありましたが、居住区そのものの変動は江戸期を通じてほとんどありませんでした。





 中級武士は、家格が「着座」〜「平士」までの4階級の家格の武士達で、その多くは大番組に属する「番士」です。上級武士の数に比べれば圧倒的に多い家数になります。最も人口が増えた江戸中期で3千家を超えていました。藩政の大半は、これら中級武士が担っていました。
 中級武士の最下層「平士」の内には100石未満の知行の者や、知行地宛がいではなく切米や扶持米の俸禄の者も大勢いて、生活の実態が下級武士とあまり変わらなかったりするのですが、一応、屋敷の間口でその差が付けられていました。(注1)

 これら中級武士達の屋敷は、町人町を囲むように広瀬川の東、河岸段丘上に配置されました。
 正保2(1645)年に作られた「奥州仙台城絵図」、「仙台市史 近世編1,2」、菊池勝之助著「仙台地名考」等を参考に、それら中級武士の開府初期の居住区を五万分の一地形図に落とし込んでみました。
   ・町人地、上級、中級武士の居住区色分け
画像

 赤紫色に塗ったところが中級武士の居住区です。赤紫色の太線は各「番丁通」になります。
 開府当初は、北部の湿地帯(深田)や東部の湿地帯(谷地小路等)の為に、北は北一番丁〜北七番丁、東は東一番丁〜東五番丁までしか切られていません。
 しかも、北一番丁〜北四番丁の東端は現在の二本杉通までで、北五番丁〜北七番丁の東端は奥州街道までです。
 これは、その東部に広がる湿地帯の「深田」や、「玉田横野」(注2)の開発に、当時はまだ手が付けられなかったためです。
 同様に、東の番丁の方も、東一番町は順当に奥州街道と平行に造ることが出来たのですが、東二番丁は奥州街道の屈曲部を避けて出来るだけ広くとるようにしましたし、東三番丁〜東五番丁は北端が勾当台にさえぎられて南に少し下がっています。
 また、これらの地形の制約で、後の東六番丁〜東八番丁ほどではありませんが、東二番丁通〜東五番丁通は基本軸の奥州街道と平行ではなくなっています。


 このようにして、どうにか中級武士の居住区も新しい城下町の内に収めたのですが、一部は整然とした番丁の内に収まりきらずに、上級武士の居住区と町人町の間に押し込めた所もあります。これらの居住区は当初町の名を持たないのですが、後に町人地の整理や下級武士町の整理が済むと、例えば「元鍛冶町」であるとか、「元櫓町」であるとかの名が付くようになります。
   ・国分町交番が建っている「元鍛冶町」
      (案内標識が”町”ではなく、”丁”となっていますが、これは明治以降の誤表記であろうと考えられます)
画像






 注1):武家屋敷の広さー「仙台惣屋敷定(せんだいそうやしきさだめ)」
 1000石以上=定め無し
 800〜1000石=間口40間×奥行30間
 500〜800石=30間×30間
 300〜500石=25間×30間
 150〜300石=17間×30間
 100〜150石=14間×30間
 100石以下 =12間×25間
 
 足軽組頭=10間×25間
 足軽   =7間×25間
 諸職人棟梁=12間×25間
 諸職人 =6間×25間

 <参考>
 ”町”屋敷=6間×25間
 *通常、1間=6尺で、1間四方は1坪になるのですが、仙台の場合は地割において、1間=6尺3寸の「太閤尺」を用いていたものと思われます。従って、1間≒1.9mとなり、1間四方は世間一般の1坪よりも多少大きくなります。




 注2):「玉田横野(たまだよこの)」
 現在の「仙台東照宮」は承応3(1654)年に江戸の東叡山から東照大権現の御霊を迎えて出来たのですが、それ以前、古くからこの地には天神社がありました。ちなみに、これは現在榴岡に遷座しています。
 この天神社があった地が台原丘陵の東端に位置し、天神様の御霊(みたま/玉)を祭っていることから「玉手ヶ埼」、あるいは周辺が田圃のような湿地だったことで「玉田埼」と呼ばれていました。
 本来、馬酔木(あせび)で有名な歌枕の「玉田」は河内国(現・大阪府)の事なのですが、以上のようなことがあってこの地にも付会されることになりました。
 さらに、この「玉田埼」の南面、南は小田原・榴岡、西は宮町通辺り、東は清水沼・原町辺り一帯を、玉田埼の横の荒野という意味で「玉田横野」もしくは、湿地が多いことから「小田原田圃」と呼ぶようになりました。
 この仙台の「玉田横野」はそれほど馬酔木が多いというわけでなく、むしろツツジやハギの方が多い荒野でしたが、河内国の「玉田」のイメージに引っ張られまして、平安時代後期以降の馬酔木の歌枕の地となりました。

 『とりつなげ 玉田横野のはなれ駒 つつじの岡にあせみ咲くなり』
                        (『散木奇歌集』、源俊頼)




 何とか町人と上級・中級武士の居住区は新しい城下町に収まりましたが、中級武士達よりもさらに数の多い「組士」階級の下級武士たち、また足軽や「小人(こびと)」、武家奉公人等”準武士”身分の「卒」階級の者たちの住まいは何処に定めたのでしょう?
 組士だけでも1200家余り、卒たちは少なくとも5000人はいます。新しい城下町にはもう、ほとんど土地が残っていません。
 さらに、開府前からあった多くのお寺、神社はどうなったのでしょう?
 これらの事については次回お話いたします。これで例の謎の答えが少しは見えてくると思います。
 




テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
東〇番丁最大の謎(その4) flom 仙台/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる