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zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その2)

<<   作成日時 : 2017/07/14 20:46   >>

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 前回は、東一番丁通〜五番丁通と東六番丁通〜九番丁通が平行ではない理由として三つの要因があるのではないか、という事を書きました。今回以降の回ではその要因が仙台城下の形成と発展にどのように関わったのかを考察してみたいと思います。






*仙台城下の基点となった「芭蕉の辻」
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 国分町通(旧・奥州街道)と大町通(榴岡で石巻街道と繋がる)の交点です。
 この碑と道標は戦後(1970年)に建てられたものです。江戸時代、奥州街道(江戸街道)の起点は北目町に置かれていました。





2)仙台城下の建設(1600年〜1628年)

 「伊達政宗が何故青葉山に仙台城を定めたのか」、というのも仙台城下の謎のひとつなのですが、ここでこの問題に立ち入ってしまいますとまた大幅に長くなってしまいますので、今回はただ、「未だ戦乱の世の余韻が色濃く残っており、北方、西方に憂いが残る中、確固たる防御態勢の確立を急ぐ必要があった。」、「十分な戦力を永続的に維持できるだけの経済的基盤の確立を急ぐ必要があった。」という二点を提示しておくだけにいたします。
 (附:このような緊迫した情勢でなく、仙台城下の建設をあと50年ほど遅らせる余裕があったならば、仙台城は名取川と広瀬川が合流する「日辺」付近に建て、仙台城下を太白区郡山から長町にかけて展開したのではないか、と私は推測しています。ま、歴史に”タラ、レバ”は禁物ですけど。)


 伊達政宗が青葉山の仙台城の縄張始(なわばりはじめ)を行ったのは慶長五(1600)年十二月二十四日のことでした。この二月ほど前、九月十五日には関ヶ原の戦いが終わったばかりで、まだその余韻が残る頃です。
 そして、その翌々年の慶長七(1602)年二月一日〜五月五日には家臣や町民の岩出山城下からの移住が行われました。なんと、1年ちょっとで遷都を済ませています!



  @城下を通る奥州街道

 仙台城下の建設にあたって最初にしたことは、城下を通る街道の新設です。また、これは城下の町割りを行う際の基準軸ともなりました。
 「大町筋(東西の基準軸)」、「奥州街道(南北の基準軸/江戸海道+南部海道)」、どちらを先に決めたのかをいつも悩むのですが、やはり「奥州街道」を最初の基準軸に定めたのではないか、と今は思っています。
 江戸時代に造られた城下町のほとんどに共通する事なのですが、城下町の中心を街道が通り、街道の横手にはお城が在り、街道を通る人々、城下町の人々は常にお城に見守られているような気持ちにさせられます。これは近世の城下町の構成にとって非常に重要な要素で、この事から「城下町(しろしたまち→じょうかまち)」という言葉も生まれました。領主の威厳と権威を示す意味が有った訳です。
 そのような事から、私は城下を通る奥州街道を最初に定め、これを基準軸とした、と思っています。

 附:奥州街道から仙台城本丸は見えていたのか?
   これについては「仙台市史近世編2」第3章第4節でも検証しているいるのですが、奥州街道からはほとんど見えることはなかったようです。大町筋、それも大町頭付近であれば大手門から二の丸にかけては見えたようで、柳町西端からであれば本丸の懸造(かけづくり)の一部が見えたのでは、と述べています。
 江戸城と城下の東海道との関係でも同様の事がありまして、日本橋の上ぐらいでしか江戸城は見えなかったようです。)

  
・図1):新設された城下を通る「奥州街道」と旧街道の関係
  国土地理院五万分の一地形図「仙台」から部分コピー、加筆
  各街道は「仙台領の街道」高倉淳著/無明舎刊を参考にしましたが、一部筆者独自の解釈も入っています。

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 (附:参考までに、江戸中期以降に出来た街道、開府以前からある旧街道との連絡道を薄い緑の線で記してあります。)


 されば、何故にこの基準軸である奥州街道がこの場所でこの傾きなのか、という事なのですが…、この問題に答えるヒントになるのは当時の測量方法にあると思います。

 トランシット (transit/経緯儀)やGPSもない時代、どうやって荒野に基準線を引いたのか、と考えて一番先に思い浮かぶのは、最初にどこか適当な測量基準点を二か所定め、その二か所の基準点を見通して直線を引く、という事かと思います。これなら簡単な水準器と旗竿、縄だけで出来ます。
 先ず、見通せる、出来るだけ遠方の2点に旗竿を建てます。そして片方に観測者を置きます。これはできるだけ高い位置の方が良いです。次に、先ほど旗を立てた見通せる2点間の適当な場所に旗竿を持った人を向かわせます。この2点間に向かった人が、2点間の直線状にのる様に観測点から旗などで指示を出します。直線状にのったなら、その位置に旗竿か杭を建てます。これを繰り返し、その間に縄を張ります。この方法ならば、人手と時間はかかりますが、簡単な道具で直線が引けます。

 さて、その最初の2ヶ所の測量基準点は何処だったかですが、ちょっとずるい方法ですが(笑)、現在の地形図で奥州街道(通町筋)に南北の延長戦を引いてみました。結果からその基準点を推理しようとする試みです。
  ・図2):開府初期の城下町の範囲と街道

     国土地理院五万分の一地形図「仙台」を部分コピー、加筆
     街道、城下町の範囲は復刻版「奥州仙台城絵図」正保二年/風の時編集部
     を基に仙台市史近世編1、2及び、「仙台地名考」菊池勝之助著/えんじゅ書房刊
     等を参考にして作成。

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 すると、その延長線上に、北は現在の青葉神社、南は愛宕山(向山)と大年寺山が在りました。(上図上の赤紫の丸印)
 青葉神社は明治以降に出来たものですが、江戸時代には北山五山筆頭の東昌寺であり、開府以前には名称由来が不明の神社(注1)が在りました。また、愛宕山には開府時点で既に愛宕神社があり、青葉山に仙台城を築く際に虚空蔵堂を青葉山からここに移動し、別当虚空蔵山大満寺を建てています。この二か所が測量基準点として選ばれて不思議ではありません。
 さらに、この地を仙台城下と決定した時にすでに下見を済ませていたと思うのですが、段丘崖(勾当台)や湿地帯(不動沢、深田、谷地小路)を避けて南北に続く直線路を造るには、この2点間が最適であったと思われます。
 (上図2、及び前回記事の「・開府以前の原風景」図をご参照ください)

 私も、地図上でできるだけ長い直線の南北の道路を引く方法をさんざん試してみたのですが、この2点間以外には見出せませんでした。この2点間が必要かつ十分条件だったのです。

 結果、城下中心部では直線の大通(5間幅)なのですが、北端では北山丘陵に当たって東へ屈曲し、台原丘陵の隙間を縫って南部領へと向かう奥州街道(南部街道)となり、南端では広瀬川に当たって東に屈曲し(注2)広瀬川に沿ってさらに南へ進み、「宮沢の渡し」を渡って長町を通り、名取付近で旧「東街道」と合流する奥州街道(江戸街道)となったわけです。


   ・青葉神社から見た旧奥州街道(通町筋)
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 拡大してみると大年寺山の稜線らしきものは見えますが、愛宕山は見えないですね。大年寺山の標高は105〜110m、対して愛宕山の標高は66〜68m。青葉神社の標高も、石段の最上部で62mしかありませんので、間に15階建て程度のビルが在れば視界が遮られてしまいます。

   ・愛宕山の頂上から北山方面を眺めてみたのですが…
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 今はもう、昔の眺望は望むべくもないようです。



 このようにして南北の基準線、城下を通る奥州街道は定まりました。偏倚角は真北に対して15度西です。この角度が当時の磁北かどうか、手元にデータが無いので分からないのですが、おそらく違うでしょう。この角度は上記のような地理的要因によって決まったものだと思います。ちなみに、現在の磁針方位は西偏約7度40分です(国土地理院五万分の一地形図「仙台」昭和53年第2回編集 平成7年修正 平成13年要部修正、に拠る)

 この南北の基準線が決まった後、次に東西の基準線を定めたのではないかと思います。
 東西の基準線(大町通筋)は、上記の南北の基準線(奥州街道)に直行する様に、かつ谷地小路、清水沼の湿地帯、丘陵である榴岡の障害物を避けて、仙台城から東への(松島、石巻方面)最短ルートが取れる線を探したものと思われます。
 結果、その交点は「札ノ辻(芭蕉の辻)」となり、仙台城の正門、「大手門」は本丸の真下ではなく、だいぶ北へオフセットして設けられました。
 また、最善の場所ではあったのでしょうが、谷地小路の北端と清水沼の南端の間を通り、榴岡を巻いてゆく道は思いのほかの難所で、寛永の頃(寛永元年=1624年)までにはまだ街道としての整備が間に合いませんでした。原町宿はすでに設置されてはいましたが、石巻街道の本格的な整備は梅田川の改修や四谷用水の整備が済んで湿地帯の水がある程度引けてからになります。



注1)名称由来不明の神社
 現在のところ、この神社に関する記録が見つかりません。
 しかし、青葉神社の宮司さんのお話によると、古代、境内の「大麻池(おおそいけ)」で麻の繊維を洗って晒し、麻糸にして皇帝へ献上した、との事でした。その伝承を信ずれば、青麻神社か貴船神社等の神社がこの地にあってもおかしくはありません。


注2)城下境での街道の屈曲
 仙台城下の歴史を勉強し始めた当初は、この屈曲を城下町にありがちな、攻め入る敵を滞留させ惑わす「虎口」だと思っていました。もちろん、その役目も果たし得るのですが、本文に書いたように、地形的な影響によって生まれたものだと、今は思っています。





 次回はこの基準軸に従ってどのように城下町が割り振られ、それによって町の形状はどうなったのか、という事について書いてみたいと思います。そうです、もう一つの基準軸が次回には出てきます。
<つづく>

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
北山と愛宕山の一直線は見事ですね。以前,仙台六芒星説のことを書いたことを思い出しました。私はおちゃらけですが,次回のもう一つの基準軸を楽しみにしています。
芭蕉の辻は松尾芭蕉とは関係がないどころか,芭蕉が仙台に来た時にはすでにあったことを俳句を始めてから知りました。
リアルET
2017/07/15 00:20
ET先生、おはようございます。

 私も、この基準軸の秘密に気付いたのはそれほど古い事ではなく、十数年前の事でした。これに気付いてからは各町の配置の合理性にも気づくようになり、理解が深まることとなりました。

 芭蕉の辻の名称由来については諸説あるのですが、少なくとも松尾芭蕉とは無関係なのは確かです。
 現在一番有力とされている説は、芭蕉という名の虚無僧(私は修験者なんじゃないの、と思っています)に因んだ、という説です。正宗がまだ戦に明け暮れていたころ、敵国に赴き、その情報を正宗にもたらして彼を助けたことから、その恩に報いて仙台開府の後も彼を重用しました。
 しかしながら、この芭蕉は俗世間の喧騒を嫌い、名取郡増田に隠遁したそうです。そこで政宗は、彼の名を城下で最も重要な「札ノ辻」の名に充てることとした、とのことです。
 彼は、「布袋軒」とも号したようです。
あきあかね
2017/07/15 07:48

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