「杜の都仙台」って?(2)

 これ以降の回は、このシリーズのディープな話になります。重要な事柄は赤文字にしておきましたので、適宜読み飛ばしてくださってかまいません。





 実は、何時、誰が仙台を「杜の都」と呼び始めたのか、という事に関してははっきりしていません。少なくとも江戸~明治時代にはそういった呼び方は無かったようです。初出と見られるのは大正2年発刊の「松島大観」のの都と通称せらるる仙台の市街は…』と言う記述です。で、自他ともに「杜の都」と言う言葉が認識され、頻繁に使われるようになったのは戦後でして、概ね昭和30年代中頃からになります。
 ですが、「杜の都仙台」の起源は江戸時代の仙台城下の特徴的な景観にあります。シリーズ2回目の今日は、先ずその事からお話ししようと思います。




 ちょっとその前に、、、「森」と「杜」の意味の違いについて簡単に書いておこうと思います。以下の話にも関連しますので…
 漢和辞典(三省堂の「全訳漢辞海」を使いました)を引きますと、その『日本語用法』に、
  ・「森」
 もり。高い樹木が密生している場所。
   ・「杜」
 もり。(神社の)森。古く、「もり」は神の来臨する所と考えられていて、「神社」「社」とも表記された。この「社」を誤って、「杜」に「もり」の訓が生じたという。平安以降の用法。

と、ありました。
 つまり、「森」は、一般的な、「高い木々が集まって盛り上がって(もりあがって)見える場所」、の意味なのですが、「杜」は神々の依り代である木々が在る場所であり、「我々を守(もり)してくれる所」、「鎮守の森」の意味だったのです。そして、この「鎮守の森」である「杜」は、その景観や用途が似ていることから。武家屋敷や農家の屋敷地を守る「屋敷杜」にも使われるようになります。要するに、「杜」は「鎮守の森」や「屋敷杜」の事だったのです。




 さて、それでは「杜の都」の成立過程を見て行こうと思います。
 先ほど、『「杜の都仙台」の起源は江戸時代の仙台城下の特徴的な景観にある』という事を申し上げました。先ずはこの事から説明します。

 「江戸時代の仙台城下の特徴的な景観」というのは、武家屋敷地の割合が非常に高かった、という事です。下に仙台市史通史編近世1からコピーした図を示します。
*図1:「仙台城下の概略図」
土地利用図_0001.jpg
 この図は、仙台城下の土地利用を、その住民の階層ごとに色分けしたものです。宮町の門前町が形成されている事と、東八番丁~東九番の足軽屋敷が形成されている事を鑑みますと、概ね江戸中期以降、幕末以前の姿かと思います。
 この図でピンク色の所が「町屋敷」、くすんだ紫色の所が「職人屋敷」です。これら二つの所がいわゆる「町」でして、それら以外が武家屋敷地と寺社地になります。武家屋敷地と寺社地の割合が極めて大きい事に気付かれると思います。
 かなり大雑把な数字なのですが、この時代の仙台城下の武家屋敷地+寺社地の割合は概ね9割だったと言われています。

 ただですね、この事をして仙台城下が他の大名領の城下町に比べて極端に特異かというと、そうではありません。仙台城下が他の城下町に比べて幾分度が過ぎているとは言えるのですが、近世の城下町においては武家地や寺社地の割合が大きい、という事は普通でした。下に近世の城下町の代表である江戸城下の「大絵図」を、人文社の「江戸東京散歩」から引用してみます。
*図2:「御江戸大絵図」天保十四年発刊
御江戸大絵図天保十四年_0001 (1024x907).jpg
 天保十四年ですので江戸時代後期になります。上の図1とほぼ同じ時代と見てもらってもさほど支障はありません。
 この図でオレンジ色に塗られた所は寺社地で、白抜きの所は武家地、薄墨色の所が町人地です。
 他国からも多くの人が集まり、経済活動が活発になり、近世の城下「町」が発達した、と言われる江戸城下においても、これだけ広い武家地や寺社地がまだ残っていたのです。これも大雑把な数字なのですが、この時代の江戸城下の武家地+寺社地の割合は概ね8割だったと言われています。




 さて、それではこのように武家屋敷地や寺社地が多い城下町というのは景観上どのような特徴が見られたのでしょう。
 それは、一言で言えば、緑が多い、という事になります。寺社地に緑が多いという事は当然のこととしまして、武家屋敷地に緑が多い事の説明をちょっとしてみます。
 城下町では、基本的に武家屋敷地は町人地に比べて広く割り当てられています。これは仙台城下の場合なのですが、町人地は6間×25間、約150坪が1単位(「一軒前」と言います)として割り振られています。それに対しまして武家屋敷地は、士分の侍の場合は最低でも12間×25間、つまり、倍の約300坪です。1000石取り以上の上級武士ですとその屋敷地の大きさは格段に大きくなり、1200坪以上が規定で、8千坪、1万坪という大名屋敷並みの広大な屋敷地も少なからず在りました。
 で、こうした屋敷地における建蔽率(けんぺいりつ/敷地面積に対する建築面積)なのですが、町屋敷のそれに比べれば極めて小さいのです。つまり、庭が広いという事です。
 家格や役職によって屋敷の広さに若干の大小はあるのですが、建蔽率は概ね30%程度で、通路や露地を除いた庭の割合は40~50パーセントはあったようです。
 これに比しまして、町屋敷の建蔽率は非常に高く、50~80%はあったようです。なので、庭はほとんど作られていないか、在っても20坪前後の広さではなかったかと思います。



 下に仙台市史の通史編4から、大町一丁目の一軒前町屋敷と、穀町の半軒前町屋敷の間取り図を引用してみます。
*図3:大町一丁目の一軒前町屋敷
一軒前の町屋_0001.jpg
 敷地は6間×25間の約150坪です。敷地の大半が店舗と住居、蔵で占められていますね。庭は一応あるのですが、通路、もしくは荷造り場と兼用です。ですので、庭木が植えられるスペースはほんのわずかでしょう。スギやヒノキ、ケヤキ等の高木を植えることは不可能だったでしょう。せいぜいモミジとかツツジ、ツバキ等の小高木か低木程度ではなかったかと思います。

*図4:穀町の半軒前町屋敷
半軒前の町屋_0001.jpg
 「半軒前」とは、「一軒前」の間口6間の半分の敷地、という事でして、間口3間×25間、約75坪の敷地という事です。

   余計なことですが…
 この図の間口が『19尺』、奥行きが『25間5尺3寸』と書かれていることを不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。これは仙台城下固有の事情と言いますか、江戸時代初期の測量尺と建築尺の違いが起こしている混乱です。
 仙台城下の町割りでは1間=6尺3寸の太閤竿が使われました。建物を建てる場合、また現在の度量衡では1間=6尺です。なので、太閤竿の3間は、3間×6.3尺=18.9尺、太閤竿の25間は、25間×6.3尺=157.5尺→26間1尺5寸となります。奥行きが規定よりも2尺2寸ほど短いのは土地の制約(開府初期にはこの地は武家地だった)によるものと思います。


 こうした半軒前の町屋敷は、仙台城下では荒町~河原町の第二次城下拡張期に出来上がった町場に多く見られます。荒町などは現在でもウナギの寝床の様に細長い地割が並んでいます。この時代は需要に対して割り当てる町場が少なくなっていたのでしょうかね。
 
 この図では敷地の三分の一程が商家で、三分の一を貸家に、残り三分の一が空き地になっているようです。この例が特殊なのか、城下の中心部に近い町場ではこうした空き地はほとんど見受けられません。大抵の場合、商家の裏の空きスペースは商品倉庫や作業スペース、もしくは住み込み従業員の為の”長屋”に割り振られています。
 ところで、江戸の町の場合、こうした商家の裏に空きスペースがあるような場合、大抵は賃貸の「棟割長屋」が建てられます。しかし、仙台城下の場合はそうした棟割長屋があったという記録は見いだせず、この図の「貸家」もおそらくは戸建ての貸家ではなかったかと思います。ちなみに、こうした商店の裏の貸家というのは私の子供時代にもまだありまして、河原町の私の知人宅もそうでした。戸建てが二棟建っていました。
 で、こうした半軒前の町屋敷地の庭ですが、ほとんど作れなかったと思います。マサキなどの低木と草花がちょっと植えられているだけだったでしょう。



 同じ資料に中級武士の屋敷の間取り図も載っていました。ついでですので、こちらも見てみましょう。ただ、この図は当主が記憶をたどりに書いた図でして、実測図ではありません。従って面積なども比例していませんし、敷地の形や広さも不正確です。
*図5:橋本家仙台屋敷間取り図
橋本家の屋敷_0001.jpg
 正確な建蔽率が出せませんでしたので、とりあえず『庭』と書かれている所だけを緑色に塗ってみました。結構な広さの庭がありますね。この他にも、塀際の空き地にはスギやヒノキ、栃木やオニグルミ等の高木が植えられていたでしょうから、まるで森の様になっていたと思います。
 ちなみに、この橋本家ですが、現在の瀬峰町に八百石余りの知行地を持つ「平士」でして、仙台屋敷は現在の一番町2丁目、裁判所前の旧「袋町」に在りました。
*図6:安政改革仙府絵図に見る橋本家屋敷
橋本家の場所_0001.jpg
 禄高や家格からすれば「中級武士」階級なのですが、歴代当主が武頭(ぶがしら)や町奉行等の要職を務めたこともあり、門構えや屋敷構えは上級武士に近い格式があり、敷地面積は中級武士のそれでありながら屋敷は大きいです。それでもこれだけの広さの庭があるのですね。

 もうひとつ、中級武士の屋敷地がどの様な景観だったかを知る史料も仙台市史通史編4にありました。明治中期に描かれた油絵です。
*図7:湯目家屋敷図
中級武士の屋敷_0001.jpg
 この絵の湯目家の屋敷は清水小路(しずこうじ)の「五橋(いつつばし)」の辻に面したところに在りました。
*図8:安政改革仙府絵図に見る湯目家屋敷
湯目家の場所_0001.jpg
 湯目家は知行五百石の番士で、中級武士の中くらいの家格です。「仙台惣屋敷定(せんだいそうやしきさだめ)」に拠れば、知行五百石の侍の屋敷地の広さは750坪か900坪です。中級武士でもこれくらいの家格の屋敷地ではスギやヒノキなどの大木を育てられるだけの広さがあり、一見すると森と見間違う様な景観だったのですね。

 (ちなみにですが、この絵は明治中期に描かれていまして、すでに掘割や、それに架かっていた「五橋」が見られなくなっています。また、手前の空き地は畑などではなく更地のようです。ここには長沼家の武家屋敷があったはずなのですが、すでに取り壊されていたのでしょうか)

 中級武士でも、敷地が500坪以下、300坪くらいまでの侍でも、大木の本数はずっと少なくなりますが多くの樹木を植えていたようです。多くは栗や胡桃、柿などの有用植物で、家計の助けにしたり、いざと言う時の備えとしたようです。同じ仙台市史に載っていたのですが、知行百八十五石の大番士、浜田縫殿助景長が書いた「なみだ乃たね」と言う手記に、屋敷地に植林した記録がありました。それに拠りますと、510坪ほどの敷地に、『夏桃1本,きざわし柿2本,とやま柿10本,夏梨1本を植えた』と書いています。やはり、身分、禄高が低い侍になってきますと、有用植物でも直接食用に出来る植物を植えるようですね。
 
 これが下級武士や足軽たちになりますと、屋敷地の空き地は畑として利用されることが多くなり、木々はだいぶ減ってきまして、遠目では百姓地と区別がつきにくくなります。




 さて、だいぶ細かく仙台城下の景観について書いてきましたが、仙台城下は森のような景観だった、ということがイメージできたでしょうか?
 もう少しお手助けしましょうか。ちょっと頑張って塗り絵をしてみました。三日ほどかかりました(笑)。
 斎藤報恩会が所蔵する「仙臺城下絵図」と言う物があります。文久二(1862)年に描かれたものです。この絵の木々に緑色を塗ってみました。
*文久二年「仙臺城下絵図」
P3文久2年仙台城下絵図(斎藤報恩会寄贈資料)_0001 (1024x668).jpg
 いかがでしょう?
 今では考えられないくらい緑の多い街ですよね。これが「杜の都仙台」の原風景だったのです。




 こうした風景も、明治以降徐々に薄れて行きます。明治維新で武士階級が衰退し、寺は庇護を失って廃寺になるものが増えて行きました。そうやって出来た広大な武家屋敷やお寺の跡地には、官公庁や軍の施設、学校などの公共施設が建って、「屋敷杜」や「鎮守の森」は徐々に失われて行きます。没落した中級・下級武士の屋敷地も分割されて売られ、一般庶民の住宅地になりました。鉄道や路面電車の敷設も屋敷杜が減る原因の一因でした。鉄道や路面電車の敷設は道路の拡張や新設を伴っていたからです。
 しかしながら、戦前まではそれでも緑が多い方でした。戦前までは住宅地の敷地面積が広かったからです。分割されて売られたとはいえ、一筆150~300坪ほどの広さがあったからです。大木の林はムリとしても、小高木の庭木を数本程度植えることは可能でした。
 こういうことがあったからなのでしょうね、「松島大観」に『森の都と通称せらるる仙台の市街は…』と書かれたのは…
 失われつつある、懐かしい景観に対する誇りと愛情から「杜(森)の都」と言う言葉を生み出したのでしょう。

 徐々に失われつつあった「杜の都」の景観ですが、これが絶望的なまでに破壊されるのは昭和20年7月10日の事です。この日未明、仙台空襲がありまして、仙台の市街地は一夜にして焼け野原となります。「杜の都仙台」と言う言葉が前面に出てくるのは、この戦災からの復興の時になります

 その事に付きましては次回、という事で…





<<付録>>
 文中に引用した町屋敷と武家屋敷の場所

P土地利用図_0001.jpg
・A:一軒前町屋敷/大町一丁目、中井家仙台本店
・B:半間前町屋敷/穀町今野家
・C:中級武士の屋敷/袋町橋本家
・D:中級武士の屋敷/清水小路湯目家

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この記事へのコメント

2021年04月02日 16:37
こんにちは!
何時もの事ですが・・
緻密に調べ上げての力作に本当に
驚いています。
>木々に緑色を塗ってみました。

濃淡もキチンとされて、素晴らしい作品に
仕上げっています。(*^-^*)
2021年04月03日 08:47
みなとさん、おはようございます。

 
 あの塗り絵ですが、時間はかかりましたが、結構楽しみながら作っていました(笑)。お褒めいただき、かえって恐縮しています。

 コメント、ありがとうございました。