い~ちまい に~まい さんま~い・・・、の三枚目(後編)

 だいぶ間が空いてしまいましたが、前回の書き残しの続きです。今回は三田村鴛魚(えんぎょ)氏の公演記録から「皿屋敷」の元ネタではないか、とされたものを抜き出してみます。






三枚目:「皿屋敷」の元ネタについて(後編)
 三田村鴛魚氏は、「番町皿屋敷」、「播州皿屋敷」、似通った二つの戯曲があるのは、そこに二つの戯曲に共通の”事実”があっての事だろうか、という思いで論を進めています。



<国史講習会刊「足の向く儘」より>
   ①「お菊神社縁起」
 三田村氏は、姫路市の「お菊神社」に実際出向いて縁起を聞いてきたそうです。その内容が以下です。漢字仮名遣いは現在のものに改めましたが、原文をそのまま転記します。
 『明応七年(1498年)の春、天下大いに地震し、疫病が流行した。姫路の城主小寺伊勢守も疫病に罹って、生命も危うく見えた。その時に侍女のお菊は、当社十二所大明神へ主君の当病御平癒を祈願して、日々社頭の井戸で水行をした。今も枯れ残っている衣紋松は、お菊が水行の時に着衣を掛けた梢である。
 当社の霊験著しく流石の悪疫もついに平癒されたが、永正元年(1504年)二月伊勢守殿は卒去され、嫡子左京進則職が相続すると、家老の青山鐵山が新君を害して小寺家の所領を横奪する逆意を発し、密かに機会を狙っていた。お菊は青山の陰謀を漏れ聞いて、主君則職に諜報したので、枡井山の花見に託して城中を出で、僅かに忠義の家来数人を率いて家島へ落ち延びた。
 その後姫路重臣花房長門介は、我が家へ家島候の若殿苦爪(くづめ)五郎以下を導き、その加勢を以て奸臣青山修理亮時(元・入道鐵山)及び嫡子弾正正忠時秀を誅し、首尾よく姫路城を回復した。この時お菊の夫衣笠靭負介と、鐵山の三男青山小五郎が殊功を立てた。左京進の妹白妙姫は、忠臣を助けてすこぶる働かれた。しかし鐵山はお菊が諜報して左京進が落ちたことを知ったので、激怒のあまり、お菊を城中の井戸へ斬り込んだ。左京進は苦忠を悲しんで、お菊神社を先君の御信仰なされた十二所大明神の境内へ建立されたのが、今日まで奉祀されているものである』


 三田村氏はこの縁起について、よくできた話だが皿に関するくだりが出てこない、でありながら”件の皿”とされているものがあって、それもまたまがい物っぽい、と言っています。
 私もまた、この話が良くできているが故に後付けではないか、と思っています。ま、この話の元になるような、何らかの”事件”が室町・戦国期の姫路城に在ったのではないか、と言う推測は出来るのですが…



  ②尼ケ崎のお菊と「お菊虫」
 太田蜀山人の「石楠堂随筆」や津村淙庵の「譚海」に書かれている話だそうです。以下にその概略を記します。
 『元禄九年、尼ケ崎の城主青山氏の老臣に木田玄蕃と言う人があった。お菊はその木田玄蕃に仕える侍女であった。
 或る日、主人に配膳をした際、飯の中にが紛れ込んでいるのが見つかった。玄蕃は、我を殺そうと企んだのか、と大層怒り、菊を屋敷内の井戸へ投げ込んでしまった。
 お菊の母は、事の次第を聞きつけ、さっそく屋敷に出向き詫びようとするが、すでに娘は井戸に投げ込まれて命を落としていた。そして、それを知り、嘆き悲しむ母もその井戸に身を投げてしまう。
 それからは、木田家では怪異が続くようになる。
 人の口に戸は立てられず、この事はやがて城主も知ることになり、あまりにも無情な仕打ち、という事で木田家は改易となり、その空き屋敷はお菊等の祟りを恐れてしばらくの間廃屋であった。
 やがて、尼ケ崎城は城主が変わり、廃屋となった木田家の屋敷地には源正院と言うお寺が建てられる。仏の力によるものなのか、その後はお菊の祟りも収まった。ただ、この源正院の寺地には菊を植えても花が咲かなかった。また、寛政七年夏、旧木田邸の古井戸から女が裸体で縛られた様をした小虫が沢山這い出て、付近の木の葉や枝に付いて死ぬ、という珍事が起き、これを不思議に思った寺僧によって城主に献上された。後に人々はこの奇妙な虫をお菊虫と呼ぶようになる』


 このお話は、悲劇の原因が「」ではなくて「」なのですが、比較的具体性があるお話で、播州、番町、いずれの「皿屋敷」でもその元ネタになりそうに思えます。また、事件が起こった年代も元禄で、他の「皿屋敷伝説」に比べれば戯曲が成立した年代に近い(「播州皿屋敷」の浄瑠璃の初演は寛保元年、この事件から46年目)です。
 三田村氏も、「姫路の伝説よりは幾分か真面目らしく聞かれる」と、述べています。ただ三田村氏は、「お菊の怪談とは離れない皿との関係が無いのは物足らない」とも、述べています。

 ところで、上記引用文の後段に「お菊虫」の話が出ていますが、『寛政七年夏』と、具体的な年代が述べられているように、この怪事は実際に起きた事です。寛政七年は西暦で1795年、播州皿屋敷の初演からは54年、番町皿屋敷の元となった馬場文耕の「皿屋敷弁疑録」からは37年ですので、世の人々の間には「お菊の怪談」の話は知れ渡っていました。したがって、この怪事は噂話となって世間に広く知れ渡ることになりました。多くの人が随筆や日記に書き記しています。
*竹原春泉「絵本百物語」に描かれる「お菊虫」
    -Wikipediaより
お菊虫「絵本百物語」竹原春泉.jpg
 私の本棚にある根岸肥前守鎮衛(やすもり)の随筆「耳嚢(みみぶくろ)」にも、『菊むしの事』、『於菊虫再談の事』という二項目が載っています。少し長くなりますが、以下に全文を引用してみます。
   菊むしの事
 『摂州岸和田の侍屋敷の井戸より、寛政七年の頃夥しく異虫出て飛廻りしを捕へ見れば、玉むし・こがね虫のやうなる形にて、巨細(きょさい)に虫眼鏡にて是をみれば、女の形にて手を後ろ手にして有りし由。素外といへる俳諧の宗匠行脚の時、ひとつ二つ懐にして江府(こうふ/江戸のことに来り知音者に見せけるを、予が許へ来る者も顕然と見たるよし語りぬ。津富といへる宗匠もひとつもらひて仕廻置(しまいおき)、翌寅(元文ママ、寛政八年は丙辰)の春人に見せるとて取出しけるに、蝶と化して飛行(とびゆき)しと也。右は元録(禄)の頃青山家厄(尼)が崎在城の時、右家士に喜多玄蕃と言ひて家録(禄)少なからず給わりし者の妻、甚(はなはだ)妬毒(ねたみ)深く、菊といへる女を玄蕃心をかけて召仕(めしつか)ひしを憤りて、食椀(めしわん)の中に密に針を入て右菊に配膳させしを、玄蕃食しかゝりて大に怒りければ、「菊が仕業なる」よし、彼妻讒言せし故、玄蕃なさけなくも菊を縛りて古井戸へ逆さまに打込殺しけるより、下女の母も聞て倶(とも)に古井戸の内へ入て死せし由。其後右玄蕃が家は絶だえに成りしとや。今は領主もかはりて年へけるが、去年は百ヶ年忌に当たりしが、菊が怨念の残りて異虫と変じけるや。播州皿屋敷といへる浄瑠璃など有りしが、右の事に本(もと)づき作りけるやと、彼物語りせし人の言ひぬ』


 前出の「尼ケ崎のお菊の話」がこの話の中でも出ていますね。アンダーラインを引いたところです。「尼ケ崎のお菊の話」→浄瑠璃「播州皿屋敷」→「お菊虫」の大量出現、という風に関連付けがされ、この噂話が出来上がったことが見て取れますね。

 根岸肥前守は、この後この「お菊虫」の実物を見る事になります。その時の様子を書き記したのが『於菊虫(おきくむし)再談の事』という一文です。挿絵も付いていますし、短い文ですので、コピーをそのまま下に掲げます。
*『於菊虫再談の事』
   岩波文庫「耳嚢(中)」p171
お菊虫_0001.jpg

 後の人により、この「お菊虫」はジャコウアゲハの蛹(サナギ)ではないか、と推定されています。ジャコウアゲハは、成虫であればこの辺でも時折見かけるごく普通の蝶なのですが、食草の分布の変化や気候変動などの影響で、突然大量発生を起こすことがあるそうです。
*ジャコウアゲハの蛹、いわゆる「お菊虫」
   Wikipediaより
ジャコウアゲハ蛹-2.jpg
 (縛られた裸体の女性に見えますかねぇ??)
*同、成虫雌
ジャコウアゲハ♀.jpg

 前出の「お菊稲荷」では、戦前までこの「お菊虫」を土産物として売っていたのだそうです。前回採り上げた「日本民俗学考 紅皿塚から皿屋敷へ」の著者、中山太郎氏もそれを見たそうで、その注にもその事が書かれていました。





 だいぶ道草を食ってしまいました。三田村氏の公演の続きです。
   ③実録!「番町皿屋敷」ー向坂甚内の娘
 現代でもそうなのですが、世の中を騒がすような事件、猟奇的な事件が起こると、「実録! ○○事件のA to Z」とか、「実話! ○○事件の真相」とかサブタイトルされた記事が週刊誌を賑わしますね。実は、江戸時代もそうでした。勿論、週刊誌はその時代にはまだ無かったのですが、瓦版や「読本(よみほん)」といった刊行物がその役割を果たしていました。
 三田村氏はその出典を明らかにしていなかったのですが、おそらく上記のような瓦版か読本から採録したものと思われる以下の様な話を述べています。
   <旧漢字・旧仮名遣いを現代のものに直しました>
 『牛込御門内の天壽院御住居の跡を拝領した青山主膳という旗本は、火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため)を勤務中、大賊向坂甚内(こうさか じんない)を捕えて、慶安二年三月十ニ日に刑罪に行い、その娘菊を官没して召使って居たが、殊に麗はしいお菊の容色に主膳は何時か懸想(けそう)した。それを奥方が嫉妬して、兎角にお菊を責め虐げたが、折悪しくお菊が殿の秘蔵の皿を毀したのを機会に、奥方は好い口実を得て辣手(らつしゅ)を奮(ふる)った(「ひどい仕打ちをした」という事)。お菊は怺(こら)えかねて、庭中の古井戸に身を投げて死んでしまった。その後伝通院の了誉上人が怨霊を済度されるまでは、妖怪変化の祟りが絶えなかった』

 三田村氏も厳しく指摘しているのですが、このお話には事実誤認や時代錯誤が沢山あります。強調文字にした部分がそうです。
 まず、『天壽院』ですが、これは第二代将軍秀忠の娘、「天院千姫」の事を言っているものと思われます。千姫は、寛永三(1626)年に姫路城の本多家を離家した後、江戸城北之丸近くの「竹橋御殿」に移り、明暦3(1657)年の、いわゆる明歴の大火で竹橋御殿が焼失するまでそこに住んでいました。従いまして、『天壽院御住居の跡を拝領した』という事とは時代が合いませんし、第一、竹橋御殿と牛込御門内の「番町」とは1Km程の隔たりが在ります。
 次に、『青山主膳という旗本は、火附盗賊改を勤務中』という件ですが、江戸幕府の代々の役職・氏名を記した「定役加役代々記」と言う史料があるのですが、加役・火附盗賊改役の内に「青山何某」の名は見当たりません。第一、「火付盗賊改方」の役職が設けられていたのは明歴の大火後の寛文五(1665)年以降ですのでこれも時代が合いません。
 同じような時代錯誤は、この話のヒロインの『大賊向坂甚内の娘』にもあります。大賊向坂甚内を捕えて処刑した年月を、『慶安二年三月十ニ日』としているわけですが、これは誤りで、正しくは「慶長十八(1613)年八月十二日」です。慶安二(1649)年との間には36年の時代差があります。このお話の主要な筋立ての、「ヒロインは大賊向坂甚内の娘」と言う設定も現実味が失われます。
 甚だしいのは、『伝通院の了誉上人が怨霊を済度』という件(くだり)です。「了誉上人(りょうよしょうにん)」とは、南北朝から室町時代にかけて活躍した浄土宗の僧侶、「酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)」の事で、没年は 応永二十七(1420)年九月二十七日です。このお話の時代の二百数十年前に亡くなっています。ま、二百数十年前の了誉上人の偉霊が、人々の苦しむ姿を見てい出て、怨霊を鎮めた、という見方も出来なくはないですが、ちょっとねぇ…(笑)

 と、いう事で、このお話はまるっきりのヨタ話、良く言えば「創作」です。恐らくは戯曲の「皿屋敷」、或いはこの後に述べる「江戸砂子」や「当世智恵鑑」の話に尾鰭を付けたものでしょう。





   ④享保十七年版「江戸砂子」の皿屋敷
 「江戸砂子」と言う書物は、江戸の町の地名と、その由来を記した地誌なのですが、その中に地名としての「皿屋敷」についての記述があります。旧漢字・仮名を現代のものに直し、読点を改めただけで、出来るだけ原文に近い形で、以下に記します。
 『皿屋敷、
 牛込御門内。昔物語にいう、下女あやまって皿をひとつ、井におとす。その科(とが)により殺害せられたり。その念此処の井に残りて、夜毎にかの女の声して、ひとつより九つまで、十を言わで泣き叫ぶ。声のみありてかたちなしとなり。よって皿屋敷とよびつたえたり。牛込御門台のかたわらにやしろあり。俗に皿明神というぞ。かの女の霊をまつりたりという。それよりその事(夜毎皿の数を数える声が聞こえる、という事)なしとなり。ここは稲荷の社なり』

 この「皿明神社」は、史跡「牛込見附跡」の斜め向かい、日本歯科大学病院の敷地内にあったと思うのですが、何分にも私が見たのはン十年前のただ一度きりですので、記憶が定かではありません。小さな祠でした。





   ⑤「当世智恵鑑」の皿屋敷
 「当世智恵鑑」は、正徳二(1712)年頃に書かれた浮世草子です。作者は、「都の錦」、「梅園堂」、「雲休堂」等々、多くの号を持つ宍戸与一光風と言う浪人です。この作者も、江戸中・後期の文人によくありがちな”変人”で、多くの逸話を残しているのですが、それはまた別の機会にして、その浮世草子に書かれた「牛込の皿屋敷」を以下に引用してみます。
 『昔江戸牛込に(住まいせる)服部氏の妻は勝れて妬み深き女なり。ある時夫在番に至りて久しく留守なる内、手をかけし女あやまりて南京の皿をひとつ取り落とし打ち破りける。十の内ひとつ欠けては疵となり、客来に用いられず。さらば弁(訓読:つぐな)えよ、とても昔渡りなれば此の手に揃いたるは求めがたし。妻の心に、皿についてはさのみ腹立ちもなけれど、内々夫の目かけぶりを述懐に思い、この過ちを幸いと咎にしかけ、女を捉えて一間なる所に押し込め、食い止め(食事を与えないこと)をして干殺さんと巧(企)みける。かくて五日に及べども死せざりければ、彼が生らん内は憗(なまじい)に焔(ほむら)の種なればとて、ついに手づから首を締め殺し、中間(ちゅうげん)に袖の下をとらせ、密かに言いつけて亡骸を棺に入れ、野へ出させけるが、如何にしたりけん、路の程にて彼の女蘇生(ヨミガエリ)、棺を動かし、中より声を掲げて言いけるは、各々よく聞き給え、我着物の中に二百両隠し置きぬ。
 (ちょっと口を挿みます。我慢できなかったので、、、
  時代によって若干異なるのですが、小判1枚の重さはおおよそ17g、二百両だと3.4Kgにもなります。”カサ”にしても、二十五両の包金で八つ、男が両手で抱えたとしてももてあまします。それを女性が普段から懐や袂に入れていたというのは…、ちょっと信じがたいです)

自らを助けたまわば、この金を参らすべし、暫く御したまえ、と言われ、男はこれを聞きて喜び、さらばとて棺を開きければ、やがて金子を取り出し與えける。棺を担ぎし男は四人なり、面々五十両を分けて懐に収め、傍らへ寄りて私言いけるは、この女不便なれば、いかにも助けたく思えども、後日に主人の帰り聞かん時は我々が身安穏なるまじき。と、いずれも後の祟りを気遣い、額を合わせてうなづき、情けなくも又締め殺して野葬にしけり。日数四五日移りて、服部氏の妻、喉腫塞がりて、湯水も通らず悩みける有様。目も当てられぬ風情なり。江戸に隠れ無き名医を招き、療治さまざま尽くせども更に験なし。ある日医者見舞て脈を伺いける所へ椽の障子を開けて、その様怪しからぬ青女房一人、しおしおとしてい出来たり。医者に対して申しけるは、我もとこの家の仕女なりしが、一旦主人に思い染められ寵愛にあずかりし事を、それなる女深く嫉み、ついに締め殺されむなしくなりて、又蘇生しを四人の奴に重ねて命を絶たれしその怨霊なり。右四人の内、一人は川に沈めて殺しぬ。一人は首に瘡(かさ)を生じて三日の間に命を奪い、残る二人も頓死させぬ。今は始めに我が首を締めしその女を殺すべき時至りて、この様に喉を塞ぐなれば、いか程医術を盡(つく)されても詮なきことなり。早く帰りたまえ、と言うに怕(おそ)れて、医者逸足(いっそく/足の速い事)を出して迯行(のがれゆき)ぬ。その後にて本妻悶絶して、一日一夜あがき死にぞしける。報いの程こそ恐ろしけれ』


 なんとまあ、微に入り細に入り具体的ですね。それにしてもすさまじい怨念です。
 三田村氏は、「井戸へ陥ったことが足りないだけで、あたかも皿屋敷の怪談である」と、すべてが、とは言わないが、この話が「怪談 皿屋敷」の元ネタではないか、と見ているようです。
 私も、少なくとも「皿屋舗辨疑録(番町皿屋敷)」の元ネタはこれなのでは、という思いです。三田村氏が言うように、縊り殺されるか、井戸に身を投げて自死するか、という点を除けば、両者は極似していますし、年代的にも、「皿屋舗辨疑録」が宝暦八(1758)年で、「当世智恵鑑」は正徳二(1712)年です。年代が近く、しかも「当世智恵鑑」の方が先です。
 ただですね、これをして「当世智恵鑑」がすべての、いわゆる「皿屋敷伝説」の始原である、とは言えないと思います。「当世智恵鑑」の話にも多分に”作話”、つまり創作性が感じられますし、始原の話としては筋立てが出来すぎていますし、複雑です。
 この事は、ここではこの指摘だけに留めて置きまして、考察は最終回でじっくりしてみようと思います。





   ⑥その他の「皿屋敷」の類話
 三田村氏は、「皿屋敷」のその他の類話として以下の三つも挙げています。いずれも江戸城下のものです。
   ・加藤家の話
 加藤左馬之介嘉明が、家法の南京皿を割ってしまった家臣に対して寛容を示した、と言う話。
     -出典や時代が不明です

   ・岡田家の話
 安永の頃、小石川御薬園奉行岡田左門の家来が、家法の皿を割ってしまったことを咎に折檻され、その意趣返しに放火をした事件。
     -これも出典が不明です。安永年間ですので、あるいは「耳袋」あたりに載っているかもしれません

   ・樋口家の話
 天明四年、四谷新屋敷、御勘定役樋口岩之丞が家来を叱責して井戸へ落とした件。
     -これも出典が不明です

 出典を確かめたわけではありませんので確約はできませんが、これらの事件は事実だったのではないかと思います。ただですね、時代が不明な最初の一件を除けば、他の二件はいずれも「皿屋舗辨疑録」や「当世智恵鑑」よりも後の時代です。「皿屋敷伝説」の元ネタにはなり得ないですね。





   ⑦幽霊が皿の数を数える、という事
 井戸の中からお菊の幽霊が皿の数を九枚まで数える声が聞こえてくる、というのは「怪談 皿屋敷」の重要なファクターです。この事につきましては、前回ご紹介しました民俗学者・中山太郎氏も土佐の「手々甲」という手遊びにその起源があるのではないか、という指摘をしています。
 三田村氏も、喜多村篤庭の『もとは小児の戯にいふ皿数への化物より出たることと聞ゆ』という言を紹介し、この説に賛同しています。
 で、この「手々甲」という遊びがいかなるものか、という事については、三田村氏は「嬉遊笑覧」の、『小児集まり互いに手を組み合わせ、手の甲を打ち眺め、向かい河原でかわらけ焼けば、五皿六皿七皿八皿、八皿めにおくれて、づでんどっさり、それこそ鬼よ、蓑着て傘きて来るものが鬼よと、これを言いつつ、手の甲を打つなり、その終にあたる者を鬼と定む、これいずくにてもする鬼定めなり』と言う記述を引いて説明しています。
 (筆者注:「ずいずいずっころばし」と同様の仕方の”鬼定め”ではないかと思います)

 で、三田村氏はさらに続け、こうした付会が何故に起きたのか、と疑問を投げかけ、その答えを、天下泰平の世となった万治・寛文年代には、武芸の腕を持て余し、泰平無事を残念がり、妙に勇気立てするあまり、百物語など怪談話をして強がりをする輩が増えたから、と言っています。
 ま、そう言う風潮も在ったのですが、私はまた別の見方、大衆の視点からの解釈を、次の回でしたいと思っています。






 と、ここまで書き進めてきまして、皆様の頭はだいぶこんがらかって来たのではないかと思います。無理からぬことです。時代も背景も異なる「類話」を多数羅列してしまいましたからね。次回はそれを整理しまして、私の解釈、私が思う「皿屋敷伝説」・「怪談 皿屋敷」の成立過程について書いてみようと思っています。

 なお、次回のアップも大分遅れそうです。実を言いますと、年に一度くらいの頻度で回ってくる研究発表が今月中旬に控えているからです。次回作のアップはその後になりそうです。

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この記事へのコメント

2020年11月02日 09:42
お早うございます(#^.^#)
力作を本当に!有難う御座いました(._.)

またまた、、、今月中旬に、研究発表があるのですね。
ご成功をお祈りしています。
2020年11月03日 08:09
おはようございます。
お疲れ様です。確かに頭がこんがらがってしましますが(笑),今回いちばんインパクトがあったのはお菊とお菊虫の話です。虫にはいわれがあるものが多いですが,大体は不幸な話ですよね。多分こういうことを研究している人もいるのでしょう。
研究発表お疲れ様です!



2020年11月03日 09:36
みなとさん、おはようございます。

 返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。
 今回の研究発表、テーマが決まるのが遅くなってしまい、原稿をまとめる時間があまりありません。今、四苦八苦しています。うまく行くかなあ…
2020年11月03日 09:51
ET先生、おはようございます。

 ええ、私もこの類話の示し方について悩んだのですが、結局羅列してしまいました。概ね時系列にはなっているのですが…
 ま、これには訳がありまして、この方が結論をまとめやすいと判断したからです。次回の結論は、この類話を参照する形で話が進みます。

 なるほど、確かに昆虫にまつわる物語には不幸な結末のものも多いですね。先生にそう言われて、今思い出したのはカイコとオシラ様の話ですが…、これも何時か書いてみようかな。どっかに「オシラ祭文」をメモったものがあったと思いますので。