い~ちまい に~まい さんま~い・・・、の三枚目(前編)

 前回お話ししました「番町皿屋敷」と「播州皿屋敷」、これらはいずれも創作された戯曲です。登場人物は架空のもので、詳しい時代考証は割愛しますが、ストーリーや舞台設定にも時代錯誤があります。
 しかしながら、筋立てには説得力があり、なんらかの”元ネタ”の存在を伺わせます。今回はその元ネタ探しをしてみたいと思います。


 下の写真は、仙台市博物館市史編纂室が平成15年7月31日に発行した「市史通信第10号」の表表紙です。
*市史通信第10号
仙台市史通信第10号_0001 (722x1024).jpg
 ここに『仙台異聞』と題しまして、仙台に残る怪異話が三つ採り上げられています。ひとつ目は私も少し前に採り上げた「化物横丁」の話で、二つ目はこれもだいぶ前に書きました「宮千代塚」の話、そして三つめがシリーズ1回目で採り上げた「化物屋敷」の話です。
 実は、こうした怪異話というのは各地に、特に古い城下町には類似の話が必ずと言ってよいほどあるものです。

 と、いうことで、前回お話ししました「番町皿屋敷」、「播州皿屋敷」と、第1回目の「化物屋敷」、これらに似た話(類話)をいくつか探し出して、それらの類似点、コアになるモチーフと言うものを引き出してみようと思います。

<余談>
 冒頭の「仙台市史通信」の挿絵になっていた歌川国芳の浮世絵ですが、向かって左の、刀の柄に手をかけた武士の横に『青山鉄山』と書かれているように読めます。なので、これはキャプションにある『番町皿屋敷の芝居』ではなく、「播州皿屋敷の浄瑠璃」の一場面、最後の敵討の場面ではないかと思われます。前回の「播州皿屋敷」の粗筋をご参照ください。







三枚目:「皿屋敷」の元ネタについて(前編)

 三田村鴛魚(みたむらえんぎょ)が大正10(1921)年に、「足の向く儘」と題して講演した国史講習会刊の資料と、民俗学者・中山太郎が著した「日本民俗学論考」が国立国会図書館アーカイブに在りましたので、それらから彼らが「皿屋敷」の元ネタとしているものを抜き出してみようと思います。


<日本民俗学論考より>
  ①「紅皿缺皿伝説(べにざらかけざらでんせつ)と「紅皿塚」
 今の新宿区新宿6丁目に「西向天神社(にしむきてんじんしゃ)」と言う神社が在り、その西向天神社に隣接する別当梅松山大聖院の境内に「紅皿の墓」と称する塚と、古い板碑(いたひ)が在ります。巷間には、この塚は太田道灌に山吹の一枝を差し出した少女、「紅皿」が尼になった後にここに葬られた墓、という風に伝わっており、板碑の近くの案内板にもそのように書かれているようです。
 太田道灌と山吹の一枝と言いますと、蓑を借りに立ち寄った賤家(しづがや)で山吹の花の一枝を出され、その意を解せなかったわが身の未熟さを知る、と言う逸話、「山吹伝説」の事ですね。恥ずかしそうに山吹の一枝を差し出した少女の名が「紅皿」で、後拾遺和歌集の『七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに無きぞ悲しき』と言う和歌にかけて、「蓑ひとつ無い貧しい暮らしで御心にそえないのが悲しゅうございます」という、奥ゆかしい断りだったのですね。
 で、この板碑の碑文ですが、その太田道灌の「山吹伝説」の元となった「紅皿缺皿伝説」について書かれたものだ、と中山氏は言っているのです。
 しからば、その「紅皿缺皿伝説」とはいかなるものか、ということについては、明治時代に大聖院から東京府へ出された「書上げ」が、小宮山楓軒が纏めた「参考余談」という書物の中にありますので、以下にその概略を書いてみます。
 『応仁の乱の後、細川家の家来の某が武蔵国豊島郡高田村に移り住むようになった。この人には亡き妻との間に一人、後添えの間にも一人娘があった。先妻との間に出来た娘は美人であったが、後妻との娘は醜女(しこめ)であった。土地の者どもはこの事を称し、姉を「紅」、妹を「缺(欠)」と噂し合っていた。継母はこれを妬み、なにかと紅皿につらく当たっていた。
 ある時、この土地の領主太田持資(もちすけ/道灌)が鷹狩りに出て雨に降られ、雨具を借りんとて彼の家を訪れた。応対に出た紅皿は、山吹の一枝を折り、持資に差し出して蓑のひとつだに無きことを詫びた。
 持資は、これにより歌道の道に入り、紅皿を召し出して妻となし、終生歌の友とし侍らしたということだ。
 文明十八(1487)年七月、持資が死して後、紅皿は尼となり大久保辺に庵を構え、その死後に庵跡に立てられたのが件の板碑である、という事だ』

 この内容は武蔵国風土記に書かれているものとも概略一致している、と小宮山氏は記しています。

 で、この「紅皿缺皿伝説」ですが、「皿屋敷」のお話とはほとんど共通性が無いですよね。怪談でもないです。かろうじて一致するのは「」ぐらいでしょうか。「皿屋敷」のお話が「武家屋敷の怪談話」というプロットに対し、こちらはよくある伝承話のパターンの「シンデレラ・ストーリー」や「継子いじめ」のプロットですね。中山氏も指摘していますが、「落窪物語」に酷似しています。
 このお話がどの様に「皿屋敷」の怪談と係わってくるのか、ということは、後の展開になるのですが、小宮山氏はこの「紅皿缺皿伝説」の類話として、この他にも紫波郡昔話の「糠福に米福」、津軽口碑集の「米嚢、栗嚢(こめぶくろ、くりぶくろ)」、紫波郡昔話の「糠袋朱皿(ぬかぶくろべにざら)」を挙げています。
 これらの類話は、グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」によく似たお話でして、姉妹が山に出かけて行って災難に遭い、それぞれの持ち物で対処するのだが、片方はうまく難を逃れ、片方はしくじる、という様な筋立てです。
 で、この東北の三つのお話は、いずれも「紅皿缺皿伝説」の類話であり、伝承の過程で段階的に変化していったもの、と中山氏は考えたのです。順番とすれば、「紅皿缺皿伝説」→「糠袋朱皿」→「米嚢、栗嚢」→「糠福に米福」です。「皿」というモチーフはこの過程で失われています。これらの伝承話の主題である「継子いじめ」や「シンデレラ・ストーリー」が、その土地に合ったモチーフで再編成される際に不要だったからでしょうね。
 (ちなみに、「皿」というモチーフが「袋」に変化した理由ですが、東北に多い「○○袋」という地名の影響によるものではないか、と中山氏は言っています。中山氏はこの袋の付く地名の由来をご存じなかったようなのですが、これらは川の蛇行が作る袋状の地形に因む地名です。仙台城下の「米ケ袋」が典型的な例ですね)

 以上ご紹介しましたように、「紅皿缺皿伝説」から始まる一連の伝承話は直接には「怪談 皿屋敷」には繋がりません。
 しかし、中山氏はこの一連の伝承話が「皿屋敷」伝説のプロトタイプと見たようです。そして、「紅皿缺皿伝説」と「皿屋敷伝説」を繋ぐ東北の伝承話として、中山氏は「九枚筵(くまいむしろ)」の地名由来譚を挙げています。


②「九枚筵伝説」
 宮城県亘理町の常磐線亘理駅の近くに、かつて「九枚筵」という小字がありました。そこに伝わる伝承話です。
「九枚筵伝説」
 この地に移り住んだ武士には前妻との間に一人の娘があった。継母はこの娘につらく当たり、何かにつけてこれを虐めていたが、或る時、搗き麦を十枚の筵に敷き並べて干すように命じた。
 庭に十枚の筵が敷き並べられたのを見た継母は、その内の1枚をそっと隠してしまう。
 夕刻になり、娘は干した搗き麦を取り入れようとすると、筵1枚分が足らない。いくら数え直しても足らなかった。日頃の継母の仕打ちを思い返してみるに、これは継母の仕業に違いない。それ程までに私を嫌うのか。またこれを理由にどれほど虐められるのか…
 世を儚なんだ娘は井戸に身を投げてしまった。
 その後、この井戸からは「1枚、2枚、、、」と筵の数を数える娘の声が聞こえるようになった、という事だ。
 この悲しい娘の不幸を不憫に思った村人により、この地は以後「九枚筵(くまいむしろ)」と呼ばれるようになった。


 このお話は怪談の「皿屋敷」によく似ていますね。「筵」を「皿」に置き換えれば、十枚の内の一枚が失われること、それを理由に井戸に身を投げること、化けて出て枚数を数えること、等がそのまんま「皿屋敷」のモチーフです。
 しかし、この話の主題は因縁話や仇討ち話ではありません。「紅皿缺皿伝説」や、その類話と同様に「継子いじめ」です。その事が、中山氏をして「紅皿缺皿伝説」と「皿屋敷伝説」を結ぶミッシングリングではないか、と言わしめている訳です。



③「皿」や「皿屋敷」というモチーフの元は?
 喜多村信節氏の『皿屋敷とは家居の無い更地(さらち)の意である』という説を紹介しています。
 つまり、更地となった武家屋敷が「更屋敷→皿屋敷」と呼ばれるようになり、そこに「皿」をモチーフとした因縁話が生まれる、という流れです。
 このシリーズの第1回目で探し出した「化物屋敷」が、寛文絵図では空き屋敷であったものが延宝・天和絵図では更地になっていたことを思い起こしてください。あの「化物屋敷」の怪談も、あの空き屋敷が更地になった事で「更屋敷→皿屋敷」と呼ばれるようになり、さらにそのすぐ側が足軽や小者達がたむろする「下馬」であった事で「怪談 皿屋敷」によく似た噂話が生まれたのだと思われます。
 (リアルET先生が見つけ出した仙台市太白区大野田の皿屋敷という地名も、「更屋敷」から来たものなのかもしれません。近くには「屋敷」がつく地名が幾つかありますので、そうした一連の命名の可能性があります)



 以下の二項目は三田村鴛魚氏の公演でも述べられている話ですので、詳述はそちらに譲ることとし、ここでは簡単な説明に留めます。
④「皿の数を数える」、というモチーフについて
 土佐の方に「手々甲」という手遊びがあるのだそうです。鬼決めをする手遊びの様なのですが、歌詞に皿を数えるフレーズがあります。



⑤牛込御門内の皿屋敷
 これは前回書きました馬場文耕の『皿屋舗辨疑録(さらやしきべんぎろく)』の元ネタだと思われます。しかし、屋敷の主の名前や粗筋が異なります。正保年間(1644年~1648年)の事件とされています。


⑥伊予松山の「お瀧」の話
 幡多(はた)郡誌に載る話だそうです。
 伊予松山藩士の山瀬新次郎は主家を浪人し、妻「お瀧」と共にこの地に移り住みました。家計を助けるためにお瀧は土地の名主の家に奉公に出たのですが、名主の愛妾の情夫である「青山鐵三郎」がお瀧に恋慕します。夫がいる身でありますのでお瀧は袖にしていました。
 青山はその事に憤り、お瀧が名主から預かっていた家宝の十枚一組の皿の内の一枚を隠します。名主はその詮議を青山に命じ、お瀧は青山の責め問いを受けます。厳しい折檻に耐え兼ね、ついにお瀧は近くの滝に身を投げて命を落としてしまいます。
 お瀧の怨念はこの地に残り、滝からは皿の数を数えるお瀧の声が聞こえるようになった、という事です。


 西国の話ですので「播州皿屋敷」の元ネタなのかな、と思ったのですが、話の筋は「番町皿屋敷」に近いですね。
 中山氏の言う「幡多郡誌」は恐らく大正14年発刊のものかと思います。なので、この話が「皿屋舗辨疑録」の前なのか後なのかが分かりません。したがって、この話を戯曲「皿屋敷」の元ネタとするにはためらいがあります。後世の付会とも考えられます。


⑦播州姫路の「お菊稲荷」と「お菊井戸」
 「お菊稲荷」は、正しくは「お菊神社」と言うようです。
 兵庫県姫路市の山陽姫路駅の近くに「十二所神社」という、由緒ある古い神社が在ります。その境内にお菊の霊を鎮めるために祀ったという「お菊神社」が在ります。
 また、姫路城内にはお菊が身を投げたと言う「お菊井戸」が在ります。
 浄瑠璃「播州皿屋敷」でお菊の霊が十二所神社に祀られた、とあることから、この浄瑠璃上演の寛保元(1741)年以前に「お菊神社」が建てられた(「播州皿屋敷」の元ネタの根拠)、とされるのですが、私はそのように見るにはまだ根拠が薄いと思っています。元は別の祭神であった神社に浄瑠璃を基に「お菊神社」の名が付会された、とも考えられるからです。




 以上が民俗学者・中山太郎が著した「日本民俗学論考」から読み取った「皿屋敷伝説」の元ネタに関する記述なのですが、氏はいくつかの伝承話が組み合わさり、また伝承が繰り返されることによって、今知るような「皿屋敷伝説」となった、と見ているようです。氏はその時期を明確には記していませんが、室町時代から江戸時代初期にそのような変遷があった、と見ているように読み取れます。

 これに対しまして、三田村鴛魚氏はもっと直截的な元ネタがあった、と見ているようです。もうすでに大部の紙数を費やしましたし、さらに長くもなりそうですので、これについては次回に回したいと思います。

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この記事へのコメント

リアルET
2020年10月03日 20:38
こんばんは。
最近何かと忙しくて,土曜日を利用して読ませていただきました。自分の記事は書き溜めておいたものを切り崩したりしています。
亘理町の九枚莚の話初めて聞きました。そしてちょっと怖かったです。百枚田とか千枚田という地名にはほのぼのとしたいわくがあったりしますが,これは怖い。お瀧の話もそうです。
私の記事へのリンクありがとうございます。あーやはり,アクセスカウンターが欲しいなあ。

2020年10月04日 08:46
ET先生、おはようございます。

 私の方も何かと身辺が忙しく、ブログの更新が思うようにいっていません。予定では昨日今日あたりに次回作を、と思っていたのですが、まだほとんどはかどっていなくて、4~5日は遅れそうです。

 「九枚莚」の話ですが、私は学生時代にこの話を聞いていました。宮城県の民話集か何かで読んだのだと思うのですが、何分古い話ですのでほとんど忘れていました。先生の「皿屋敷」の記事で、「化物屋敷」とこの「九枚莚」を思い出し、このシリーズを書き起こすきっかけとなりました。ありがとうございました。