南町通はちとややこしい(4)

 他の城下町でもそうなのでしょうが、仙台でも開府以来何度かの都市改造が行われています。細かく見れば十数度になるのですが、大きな括りで見れば、①「若林城下建設」、②「明治維新」、③「鉄道敷設(明治20年)」、③「市電開設(大正末~昭和初期)」、④「戦災復興事業(昭和20年~36年)」、⑤「都市再開発」(平成12年~)」という事になろうかと思います。今シリーズでは「南町通」の時代変遷を見てきましたので、その最後として、④「戦災復興事業」によって「南町通」がどの様に変貌したのかを書いてみます。

*ph1、2:「戦災復興事業」の目玉、「青葉通」
10月青葉通-10_12_2013-001 (1024x576).jpg
11月青葉通・一番丁-11_02_2018-002 (1024x768).jpg
 「青葉通」は、昭和22年初めに着工し、昭和25年末頃には大方出来上がったのですが、昭和30年ごろまでは中央分離帯や側道などの付帯工事が続きました。
 「戦災復興事業計画」時の名称は「仙台駅・川内線」でしたが、昭和22年に河北新報紙上で公募した愛称の第一位であった「青葉通」が採用され、以後この名で呼ばれるようになりました。


*ph3、4:昭和29年12月当時の「青葉通」
 歴史民俗資料館企画展「なつかし仙台4」図録より
昭和29年の青葉通_0001 (722x1024).jpg
 1枚目の写真は中央分離帯の工事をしているように見えます。側道の部分はまだ未舗装のようですね。この時代、青葉通りには低速車やバスの為の側道が設けられていました。
 2枚目の写真は東五番丁との交差点(現・中央1丁目交差点)の丸光デパートから撮った写真と思われます。丸光は、この前年の昭和28年10月にこの場所に地下1階、地上3階の鉄筋コンクリート造りの店舗を建てました。でも、この時代はまだ、その建物が東五番丁角まで広がっていません。
 青葉通と言えば、勾当台通と並んでケヤキ並木が有名なのですが、ケヤキの植樹は昭和25年末頃から始まったばかりで、写真に写っているケヤキの数も少なく、樹高もまだ低いです。それと、これは古い方ならご記憶もあるかと思うのですが、青葉通の東五番丁から駅前通の間には枝垂れ柳が植えられていました。現在はもう無いのですが、それがこの写真には写っています。
 <注:この項の内容については、八巻芳夫編「杜の都仙台市の街路樹」の記述を参考にしました。年代などがWikipediaなどの記述と異なっています>










5):戦災復興事業と「南町通」
 仙台市は、終戦の詔勅の一月ほど前、昭和20年7月10日未明に空襲に遭い、市街地のほとんどが焦土と化しました。その焼け野原からの復興計画が決定したのは昭和21年11月です。この「戦災復興事業計画」はその後数度にわたって追加・修正・変更がなされるのですが、以下に示す昭和22年の市街図・「復興 新仙台地図」と、昭和21年の地形図は、その当初計画時の姿を表しています。
*Map1:昭和22年の市街図
昭和22年復興図_0001 (1024x603).jpg
*Map2:昭和21年の地形図
PT昭和21年地形図_0001.jpg
 「戦災復興事業」の詳細についてはまた別の機会に致しまして、ここでは「南町通」と、それに接続するようになった二本の道路との関係についてお話ししたいと思います。

 まず、「南町通」なのですが、前回お話ししましたように、昭和初期から終戦時までは「多門通」と呼ばれていました。この呼称は戦後すぐに「南町通」に戻されるのですが、市の正式名称にはしばらくの間残ります。Map1の「多門通線」と、「常磐丁・多聞通線」と言うのがそれです。(正しくは、この二つは一本の「多聞通・常磐丁線」)
 で、この正式名称の「多聞通・常磐丁線」ですが、前回お話ししました「多聞通」、つまり、市民の愛称としての「多聞通」とは区間が異なっていたのです。市民の愛称としての「多聞通」は、前回お話ししましたように、仙台駅前から大町頭まででした。ですが、市の管理する「多聞通・常磐丁線」は、駅前(裏五番丁角としている)から支倉通(現在の市バス木町車庫の二本南、「ホテル・グリーンライン」が在る角)の区間でした。ま、これは管理上の問題と言うか、市電を通すために駅前から南町、片平丁、大町、元柳町、元常磐丁の各町を繋ぐ道路を一括して整備したのでそうなったのだと思います。
 ただ、市の方でも「多聞通」と「常磐丁線」を分けて考えていたようでして、「戦災復興事業」では「常磐丁線」の方だけを拡幅工事しています。「多聞通」、この場合は駅前~狐小路の区間の昔の「南町通」なのですが、ここは市電を通す際に12間幅(約22m幅)になっていたのですが、此処はほとんど手を入れていません。上の地図(Map1)でも色が入っていませんね。
 で、その先の「常磐丁線」の方は27m幅に拡幅工事がなされます。Map1で黄色い色が入っていることをお確かめください。これが何故か、という事については、後にお話しする「環状線構想」に関連してきます。


 ここで勘の良い方は気付かれたかもしれないですね。この「常磐丁線(狐小路・常磐丁線)」と、その南東に繋がる「狐小路・連坊小路線」は、もしかすると1本の道なんじゃないの? と、
 私などもその口なのですが、当時の市民の多くもそう考えたようです。ですので、次はこの「狐小路・連坊小路線」と南町通の関係についてお話しします。

 「狐小路・連坊小路線」とは、現在言い慣わしている「五橋通(いつつばしどおり)」の事です。
 「戦災復興事業」で拡幅・延長される前の「五橋通」は、「上染師町(かみそめしまち)」から「清水小路(しずこうじ)」までの、どうってことない”横丁”みたいな通りでした。江戸時代は町場である「北目町」や「上染師町」等と、寺社地である「連坊小路」を結ぶ道であったでしょう。明治~昭和前期は、それに加えて、市東部と「東北帝国大学」を結ぶ道でもあったと思われます。つまり、限られた目的の為の道だったのです。
*Map3:大正15年の市街図に描かれた「五橋通」
TP大正15年、五橋通_0001 (1024x655).jpg
 上の地図(Map3)の赤紫色のマーキングが戦前の「五橋通」です。で、赤丸の所には、明治の初め位まで「五橋通」の由来となった「五つの橋」が在りました。
   ・明治元年の「現状仙台城市之図」に見る「五橋」
明治元年、五橋通_0001 (1024x655).jpg
   ・「仙台地名考」に掲載の「五橋交差点之略図」
仙台地名考の五橋略図_0001.jpg
*ph5:現在の清水小路・五橋通交差点(五橋駅前交差点)
10月清水小路-10_31_2013-001 (1024x576).jpg
 (注:仙台市民の認識では、「五橋通」の終点は此処になるのですが、仙台市の定義では東七番丁通りとの交差点です)

 「戦災復興事業」の「狐小路・連坊小路線」は、この古い「五橋通」に被せるように、東七番丁通り~東二番丁通を幅員30mで通されました。

 話がちょっとそれてしまうのですが、私の子供時代、連坊小路の東八番丁通りとの交差点を少し入った所に親戚の家が在りました。何度かその家に行ったことがあったのですが、ph5の「五橋駅前交差点」(当時はここが「五橋交差点」だったと記憶しています)から連坊小路に入ってしばらくして、東七番丁通りから急に道が細くなっていました。子供心にもそれは不思議な光景だったのですが、当時はその角に在った専売公社や郵政局の為に道を広くしているのかなあ、等と思っていました。
*ph6:清水小路と東七番丁の間
    2015年4月撮影

4月連坊小路-04_18_2015-003 (1024x683).jpg
*ph7:東七番丁通り角
   2015年4月撮影

4月連坊小路-04_18_2015-008 (1024x683).jpg
 現在「連坊小路」は、地下鉄東西線に絡む都市計画道路の整備によって薬師堂の先まで拡幅・整備され、この”急に狭くなる”境目は分からなくなっています。
 後に話します「戦災復興事業」のコンセプトから言えば、「狐小路・連坊小路線」は東七番丁通りまで拡幅する必要性は無いのですが、、、
 市の管轄する「狐小路・連坊小路線」と「連坊小路」の境目が東七番丁通りだった所為なのか、それとも幻の「大仙台駅構想」と関係するものなのか、、、私にはわかりません。

 話を戻します。下の写真は現在の「五橋交差点」です。
*ph8:「五橋交差点」
1月五橋-01_09_2015-001 (1024x576).jpg
 画面の右から左に続く大通りが現在の「東二番丁通」です。(昭和51年までは、東二番丁通はこの交差点まで)藩政時代からの「五橋通」は、画面の奥、「上染師町」からこの交差点を通り、ph5の「五橋」までの通りでした。上の写真(ph8)の、3階建て、4階建ての小さなビルがある辺りが「上染師町」です。
*ph9,ph10:五橋通・上染師町角
1月五橋-01_09_2015-002 (1024x576).jpg1月五橋-01_09_2015-003 (1024x576).jpg
 「狐小路・連坊小路線」は、この角で右折し、藩政時代の「上染師町」、「北目町」の通りを北上します。Map1の「復興 新仙台地図」では、東二番丁角(現・「五橋交差点」)以降は幅員27mの計画として描かれていますが、実際は、南町通までの区間は幅員20mの規格であったようです。
*ph11:「北目町」を通る「狐小路・連坊小路線」
1月北目町華僑会館-01_09_2015-001 (1024x576).jpg
 藩政時代の道路を利用した「狐小路・連坊小路線」はこの「北目町」の「北目町通」角までで、
*ph12:「狐小路・連坊小路線」・「北目町通」角
P8月北目町-08_31_2015-004 (1024x576).jpg
この先は戦前の町々を潰しながら「南町通」との交点まで続きます。昭和3年の地形図にその様子を描いてみました。以下の地図(Map4)です。
*Map4:「狐小路・連坊小路線」の経路と、失われた町々
T2PT昭和3年地形図_0001.jpg
 薄い黄色の線が、町々を潰して新たに引かれた「狐小路・連坊小路線」(新・五橋通)です。そして、この時に失われた町々は、「道場小路」、「伊勢屋横丁」、「本荒町」、「狐小路」の4ヶ町でした。ただ、「狐小路」は通りの名前の方は残りました。

 さて、何故このように強引ともとれるような事をして新しい道を通したのか、という事なのですが、、、
 実は、終戦をはさんで、戦前と戦後では都市計画・都市道路に関しての考え方が異なったのです。
 明治~昭和前期の都市道路(幹線道路・目抜き通り)は、官公庁や軍事施設、金融街や生産拠点といった点と点を結ぶ線であり、その目抜き通りのロードサイドに商業施設が集まる、という構造でした。「南町通」が仙台駅と南町・国分町、「南町通」・「片平丁」が仙台駅と第二師団を結ぶ「目抜き通り」として整備された、と言うのがその例です。
 しかし、「戦災復興事業」として計画された25本の都市道路はそれとは異なる思想で計画されたものなのです。
 たぶん、戦前から欧米の都市構造を勉強していた人々もいたのでしょう。特にアメリカの主要都市の構造を真似、都市を主要道路でブロック状に区画し、区画されたゾーン毎に役割を持たせる、という思想に変わりました。線から面への変革です。
 で、この「狐小路・連坊小路線」(五橋通)ですが、これは仙台の市街地を囲む「環状道路」のひとつとして計画された路線なのです。当時の計画図に書かれた名前でこの「環状道路」を書いてみます。カッコ内は現在の呼び名です。
 「狐小路・連坊小路線(五橋通)」・「常磐丁・多聞通線(西公園通)」・「北四番丁線(北四番丁通)」・「長町・堤町線(愛宕・上杉通)」・「清水小路(愛宕・上杉通)」・「五橋線(五橋通)」
 これは、今でもその目論見通りに、市街地の「環状線」として機能しています。


 ともあれ、この4ヶ町を潰して新たに通された「狐小路・連坊小路線」は、狐小路の中ほど、現在の裁判所正門前で「多聞通・常磐丁線」(南町通)に繋がりました。
 で、この接続点ですが、とても複雑なことになってしまったのです。ちょっと下の図(Fig1)を見ていただきましょう。
*Fig1:裁判所前付近の拡大図
     明治21年の地形図を利用
PP2PT昭和21年地形図_0001.jpg
 この図の右側、つまり東から時計回りに、それぞれの通りの名を書いてみます。
 「多聞通(南町通)」、「本荒町(通り)」、「狐小路・連坊小路線(五橋通)」、「狐小路」、「片平新道(片平丁)」、「狐小路」
 以上、6本の通りがこの「裁判所前交差点」に接続しています。しかも、これらは一点に集約しているのではなく、少しづつずれながら接続しています。その結果、この交差点はには三角形の広場(空き地)が三つ、直列に連なる不思議な光景になっています。
*Fig2:グーグルマップの空中写真
Pグーグルマップ_0001 (1024x636).jpg
*ph13:南町通、本荒町通り、五橋通がつくる三角地帯
PP7月南町通(加川横丁)-07_17_2020-051 (1024x768).jpg
*ph14:南町通、五橋通、狐小路がつくる「三角公園」
P6月狐小路-06_27_2020-103 (1024x768).jpg
*ph15:南町通、片平新道、狐小路、現在の晩翠通がつくる三角地帯
2P6月晩翠通・裁判所前交差点-06_27_2020-094 (1024x768).jpg
 何でこのような姿になってしまったか、ということなのですが、、、
 環状線道路である「狐小路・連坊小路線」・「五橋通」の延伸が第一義でしょう。本来は四角形や円形で都市環状線を構成したかったわけですが、市街地の南西角には旧・東北帝大などの重要施設が焼け残っていましたし、焦土となっていた上記町々に直線道路を通す方が経費も少なくて済みますし、楽だったのだと思います。
 もうひとつは、この裁判所前を通る市電の路線のクランクを出来るだけ直線に近くしたかったからだと思います。
 ただ、南北・東西の直線道路で構成されていた旧・城下町に斜めの道路を通すとなると、そこはそれ、接続点や交差点に無理が生じる訳です。それがこの三角地帯という事なのだと思います。


 で、ですね、この複雑な交差点はもうひとつ、市民の意識にも影響を与えています。つまり、ここを通りの区切りとして捉えてしまう、という事です。
 ただ、その区切り方はひとによってまちまちになります。公・民関わらずです。なにせ、時代背景の違う6本もの通りが交わっていますからね。
 例えば「五橋通」ですが、公式には「五橋通」=「狐小路・連坊小路線」は東七番丁角からこの交差点の狐小路との交点までです。しかし、一般市民の多くは、この「狐小路・連坊小路線」と、新たに拡幅された「片平新道」+「片平丁」を一本の通りと捉え、「旧・五橋交差点(現・五橋駅前交差点)」から「大町頭」までが戦後の「五橋通」という認識でいます。私もそういう認識でいました。
 「南町通」についても同様です。先ほどもお話ししましたように、市の公式な名称であった「多聞通・常磐丁線」の区間は駅前広場である裏五番丁角から支倉通角まででした。ですが、一般市民の間では「南町通」の終点はこの交差点まで、と言う方が多数です。また、第1回目でもお話ししましたように、案内標識ではこの交差点を通り過ぎた「藤坂」坂上が終点になっています。”区切り”の捉え方がまちまちな為に起きている”混乱”です。




 第2回から第4回にかけて、「南町通」とそれに関係する通りの時代変遷をお話してきました。時代を経るに従って「南町通」の定義が複雑なってきて、第4回に至っては、何が何だか分からなくなってきたのではないかと思います。なので、次回はその整理をして、現状はどうなのか、という事についてお話ししようと思います。次回が今シリーズの最終回になります。





Note:
 今回の記事を書くにあたっては、以下の本が大変役に立ちました。少しご紹介しておこうと思います。
   「杜の都仙台市の街路樹」
      編著 八巻芳夫

表紙_0001 (731x1024).jpg
 発刊元についての記載はないのですが、仙台市が発刊した物ではないかと思います。編著協力に仙台市緑地課や公園課の人々の名がありますし、掲載写真やイラストも仙台市観光課や広報課、緑地課、公園課の人々の手になるものです。非売品ですが、私は古書店で300円で手に入れました。
 この本の主題は仙台市の街路樹についての事なのですが、編著者の八巻氏は土木工学を修め、仙台市の戦災復興事業に携わった人です。なので、この本にも、多くは無いのですが、戦災復興事業の話が出てきます。
 「戦災復興事業」に関しては、仙台市史を含め、多くの資料があるのですが、この本はその当事者が書いた一次史料ですので、その記述は信頼がおけるものと判断し、今回の記事の記述の多くをこの本に拠っています。

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この記事へのコメント

2020年08月15日 21:22
こんばんは。
今回も力作,お疲れ様です。
一番惹かれたのは,仙台の「環状線構想」という言葉と「内環状線」という言葉。「北環状線」という言葉は聞きますが,仙台全体の環状線は存在するのでしょうか? 高速道路は環状につながりましたが,文章中の「内環状線」という考えは私にはありませんでした。まあ,私はカーナビの言うとおりにしか運転しないので,知識が欠けているのですが。

2020年08月16日 09:15
ET先生、おはようございます。

 『仙台全体の環状線は存在するのでしょうか?』と言うお尋ねでしたが、これはあります。ただ、都市計画上の呼称ですので、一般人の口に上ることは稀です。

 以前私のブログの記事で「仙台市の遠謀」、「続・仙台市の遠謀」で採り上げた「3環状12放射状線」をご記憶でしょうか?
 これは昭和41年に最初の計画が策定されたのですが、その構想は昭和2,3年ごろから練られていました。
 ただ、戦前と戦後では都市計画そのものが異なりますし、昭和30年代のモータリゼーションや、昭和30年~昭和50年代の新興団地(ベッドタウン)の増加で、都市計画道路のコンセプトが変わってきています。昭和41年の「3環状12放射状線」は、そう言った時代の流れを踏まえて策定された都市計画道路の構想です。
 
 で、今回採り上げた「五橋通」の拡幅・延伸ですが、そうした「環状線・放射状線」という都市計画道路のごく初期段階のものです。「五橋通」・「西公園通」・「北四番丁通」・「愛宕上杉通」という、旧。市街地を周回する「環状線」は、出来た当初は単に「環状線」と呼ばれていたようなのですが、私が免許を取った昭和60年前後の頃は「市内環状線」とか「内環状線」とか呼ばれるようになっていました。
 ただ、「内環状線」と言う名称は、現在は「3環状12放射状線」の別の路線群を指す名称ですので、紛らわしいですね。本文を訂正しておきます。

 「3環状12放射状線」については、この欄では書ききれませんので、私の過去の記事の「続・仙台市の遠謀」をご覧ください。
れきお
2020年08月16日 14:50
こんにちは。
以前裁判所と、その門の前を北西方向に向かってカーブしながら市電が走る戦前の絵葉書を見たことがあります。
その市電は、明らかに現在の三角公園の中を通っており、付近に電停もあったとのことなので、改めてこの辺りを訪れたいと思ってます。
片平新丁についてですが、大正元年の地図には片平新丁がありますが、昭和3年の地図には、この片平新丁のすぐ北側に、狐小路と片平町、良覚院丁間の東西を結ぶ道路が新たに出来ていて、市電はこの道路を通っていたようです。
南町通りは、よく子供の頃仙台駅から市電に乗ったり、歩いたりしてました。
駅前から東二番丁までは、金物や駄菓子やおもちゃを扱う問屋が建ち並んでいた記憶があります。
2020年08月17日 08:39
れきおさん、おはようございます。

 私は南町通で買い物をした思い出はあまりありません。辛うじてサイカワぐらいでしょうか。ほとんどが一番町までか、西公園(仙台市図書館で時折デートしていました(笑))までの電車の中から眺めるだけでした。
 おもちゃの問屋と言うのは気付かなかったのですが、金物屋というと、「若生金物」でしょうかね。国分町通角に在ったと記憶しています。