南町通はちとややこしい(3)

 前回は鉄道敷設と、それに伴って起きた仙台城下の変化、「南町通」の変化について書きました。江戸時代の「旧・南町通」が、鉄道線路が敷設されたことによって半分になった、と言うお話でしたね。
 今回は、その次に「南町通」に起きた変化について書いてみます。例によって「仙台市電」に関連した話です。


*ph1:仙台市電開通記念の絵ハガキ
   仙台市歴史民俗資料館特別展「仙台のまちと近代交通」図録より
T市電開通記念の絵ハガキ_0001 (1024x661).jpg
*ph2:昭和10年代の南町通と市電
   出典:同上
南町通の市電_0001 (1024x765).jpg
*ph3:新旧二種のカラーリング
   庄司喜隆写真集「杜の都の路面電車」より
杜の都の路面電車」庄司喜隆氏_0001 (1024x700).jpg
 「仙台市電」は、大正15年11月に開業しました。この時の路線は市内循環線の一部(仙台駅前~大町一丁目)と、長町線の一部(仙台駅前~荒町)でした。
 最初の写真(ph1)は、この時に出された記念絵葉書の1枚です。開業記念の「花電車」を写しています。町筋にも紅白の幕が掛けられ、開業を祝っています。
 この場所が何処かを、色々調べて見たのですが、良く分かりませんでした。ただ、ph2の写真に写っているビルの窓や庇の形がph1のものとよく似ているので、もしかすると一番丁角辺りなのかもしれません。
 ところで、市電の前を走る自転車、ブレていますね。市電よりも大分スピードが速いようです。実際、私の時代(昭和30~40年代)でも市電はノロかったです。市電と自転車や徒競走で競争して「勝った!」と喜ぶ悪ガキも沢山居ました。

 ph3の写真は、市電廃業時の昭和51年、「北二番丁車庫(現・仙台市交通局木町車庫)」で撮られたものです。私の記憶では、この初期カラーリングはもっとくすんだ小豆色、チョコレート色に近い色だったように思うのですが…










3):仙台市電と「南町通」
 「南町通」は、大正6年の大火の後にさらに拡幅されています。これが市電を通すために拡幅したのかどうか判断に迷うところなのですが、市電開設の為の諮問委員会が設置されたのが大正7年で、市議会での決議が大正12年ですので、南町通の拡幅と市電開設が無関係であった可能性の方が高いと思います。拡幅したのはそれだけ当時の南町通が繁栄していた、という事なのだと思います。
 ともあれ、この拡幅によって南町通には市電の軌道敷設がしやすくなっていました。以下の2枚の地図を使って、この市電の軌道敷設によってどのように南町通が変貌したのかを見てみようと思います。


*Map1:明治38年の地形図
TP2明治38年地形図_0001.jpg
*Map2:大正15年の市街図
TP大正15年市街図2_0001 (1024x663).jpg
 明治時代の「南町通」が仙台駅前~南町の区間であった事は、前回でお話ししました。その先、南町と本荒町(もとあらまち)との間には「加川横丁(かがわよこちょう)」という小道があったのですが、これは南町から本荒町に、少し北へオフセットして繋がっていました(Map1 の水色の線)。これが南町通に続くように真っ直ぐに直され、南町通と同等の道幅に拡幅されます。これが大正6年の大火の復興の時になされたのか、大正14年~15年の軌道敷設の時になされたのかが分からなかったのですが、大正15年の市街図(Map2)では道筋を変えたその跡を、不自然な三角形の空き地として見る事が出来ます。
*ph4:旧・「加川横丁」の現在の姿
7月南町通(加川横丁)-07_17_2020-049 (1024x768).jpg
 (画面下、右から左へ通る道は「国分町通」です)

*ph5:「本荒町通り」
6月南町通・本荒町通-06_27_2020-114 (1024x768).jpg
*ph6:旧・「加川横丁」と「本荒町通り」
7月南町通(加川横丁)-07_17_2020-050 (1024x768).jpg
 (ph5の写真奥に延びている細道が「本荒町通り」です。この呼び名は仙台市が定めた「仙台市道路愛称名」には入っていないのですが、「歴史的町名を道路の通称として活用する路線」には入っています)
 (ph6の「本荒町通り」は、画面右から左、ワイシャツ姿の人の後ろを通っています)
 (「本荒町」と言う町は、「大町」と「柳町」に挟まれた狭い所で、江戸時代は中級武士の武家屋敷地でした。戦後は、新たに造られた「青葉通」と、拡幅延長された「五橋通」によってその半数以上が消滅し、現在は残った所が青葉区一番町2丁目と一番町1丁目に組み入れられています)



 「加川横丁」の西には「狐小路」(町名)の横丁が繋がっていました。これらは、「本荒町通り」との交点の所でクランク状になっていたのですが、市電の軌道が敷かれる時には直線に直されていました。Map1,Map2の黄緑色の線です。
 この「加川横丁」と「狐小路」は、それまでの「南町通」と幅員を合わせ、直線化されて一体化されます。
*ph7:昭和初期の「南町通」(本荒町付近から「控訴院」を望む)
   仙台市歴史民俗資料館特別展「昭和の仙台」図録より
昭和初期の控訴院前_0001 (1024x646).jpg

*ph8、9:新・「南町通」と「狐小路」の交差点
7月南町通・太夫小路~狐小路-07_17_2020-057 (1024x768).jpg
6月狐小路-06_27_2020-109 (1024x768).jpg
*ph10:「狐小路/南町通」の辻標
6月狐小路-06_27_2020-105 (1024x768).jpg
 ph8の正面に見えるクリーム色の建物が裁判所(仙台高等・地方・簡易)です。で、その前を通る通りが、江戸時代から続く「狐小路」です。その「狐小路」にやや斜めに突き当たる通り、ph8の写真で言えば右下から画面中央に延びる通りが、明治・大正時代の町としての「狐小路」を横切っていた横丁です。これが「加川横丁」と共に拡幅・直線化され、新しい「南町通」に組み入れられました。それが、ph9,pha10に写っている辻標の「南町通」な訳です。

 ちょっと辻標がある位置から後ろを振り返ってみましょう。
*ph11:「狐小路」から見る「南町通」
7月南町通・太夫小路~狐小路-07_17_2020-061 (1024x768).jpg
 駅前まで見通せるほど真っ直ぐな道ですね。だから、当時の市民はこの新しくなった南町通を一本の「南町通」と認識したわけです。これが、今も残る「南町通は駅前から裁判所前(良覚院丁角)まで」という認識に繋がっているわけです。

 勘の良い方は気付かれたかもしれません。この辻標の前の道はph11の写真奥の「南町通」の半分以下の道幅ですよね。
 実は、「電車道」は、この辻標の前を通っていないのです。ph11の写真中央の横断歩道の辺りから右へ曲がり、この公園(私達は「三角公園」あるいは「裁判所前の三角公園」と呼んでいます。正確な名称は知りません)の北半分の所を横切って、裁判所の横を通り、良覚院丁公園の少し先で「片平丁」に合流しています。Map2の大正15年の市街図でも確かめてください。
 ちなみですが、この公園の辺りには「狐小路電停」が在りました。戦前と戦後では、個々のカーブの角度が異なります。戦前の方が急角度でした。この「三角公園」とこの「南町通の盲腸」については、次回にもまた出てきます。


 「狐小路」の先、「良覚院丁」・「片平丁」角までの区間なのですが、これは裁判所の敷地に新しい道を作る事で行われました。この新しい道は「片平新道(かたひらしんみち)」(Map2参照)と名付けられます。上の地図のオレンジ色の線です。これにより、「南町通」は「片平丁」に繋がりました。
 「片平丁」は、古くは田町から北一番丁まで、広瀬川左岸沿いに細長く続く上級武士の屋敷地でした。明治になると、「大町頭(おおまちがしら)」より北は「常磐町」、「元柳町」等の「町」となるのですが、大町頭より南は東北帝国大学等の公有地でしたので、「片平丁」のままでした。この残っていた「片平丁」の北側三分の一程の所に新しい「電車道」が繋がったのです。
 この北側の三分の一の「片平丁」は、市電の軌道を敷くために拡幅されましたので、それより南側の「片平丁」とは趣が異なりました。
*ph12:「片平新道」が「片平丁」に繋がった所
7月南町通(元片平丁)-07_17_2020-074 (1024x768).jpg
 画面左手へ延びる道が、古くからある「片平丁」です。現在「歴史的町名を道路の通称として活用する路線」の定義では、「《片平丁》通り」はここから電気通信研究所の南角、「南六軒丁通」との合流点までになっています。この様になったのにはもう一つ、戦後のエピックが関係してくるのですが、、、
 ま、ともあれ、大正末~昭和初期の時点では、片平丁のこの新しい電車道も「片平丁」と呼ばれていました。



 と、いうことで、大正末の市電開設で「南町通」の区間は「仙台駅前~裁判所前(狐小路角)」となりました。ただ、こういった広い道が新たに出来ましたので、市民の中には「仙台駅前~良覚院丁・片平丁角」、あるいは「仙台駅前~大町頭」という意識も生まれつつありました。現在の、南町通の定義が複数ある、という「ややこしい事」の萌芽がこの頃に芽生えたのです。





4):多門通(たもんどおり)??
 これも南町通の定義が混乱する要因になった、と私は思っているのですが…
 「南町通」が「多門通」と言う名称に変更になっていた時期があるのです。それも公式に…

 時代は昭和初期の「満州事変」の頃です。
 明治38(1905)年11月、日露戦争の戦後処理を定めた「ポーツマス条約」が結ばれるのですが、これに拠って日本は東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権などを獲得します。この鉄道路線は後に「満州鉄道」と呼ばれるようになりました。そして、この鉄道の守備を担ったのが「関東軍」でした。
 仙台城二之丸跡に師団司令部を置いた「帝国陸軍第二師団」は、昭和6(1931)年、満州守備隊として満州に移駐します。この出征で多門二郎師団長麾下の本部要員が行軍したのが、師団本部→大町頭→芭蕉の辻→南町→南町通→仙台駅の道順でした。
*ph13:「満州事変」戦死者慰霊祭の様子
   仙台歴史民俗資料館特別展「なつかしの仙台4」図録より
昭和6年「満州事変戦死者追悼慰霊祭」_0001 (722x1024).jpg
 第二師団は、満州の地で「満州事変(盧溝橋事件等)」に参戦し、昭和8(1933)年1月7日に仙台に凱旋します。
 その前年、東北帝国大学の職員あたりから、その武勲に報いるため、南町通を師団長の苗字に因んだ「多門通」と改め、凱旋祝賀を行うべきだ、と言った話が出てきます。多門師団長本人は固辞するのですが、市議会でもこの案が決議され、昭和8年に南町通は「多門通」と正式に改められます。そして、この時の区間は「仙台駅前~大町頭」でした。
*Map3:昭和16年の市街図に現れる「多門通」
P昭和16年「多門通」_0001 (1024x363).jpg
*ph14:「多門通」と言う名称であった頃の南町通(昭和初期)
   仙台市歴史民俗資料館特別展「仙台のまちと近代交通」図録より
昭和初期の多門通_0001 (1024x795).jpg

 この「多門通」と言う名称は、終戦後には「南町通」に戻されます。「一億総懺悔」の年代でしたからね。でも、昭和30年代、40年代頃でも「多門通」と呼ぶ年寄は居ました。
 ともあれ、この事により、「南町通は仙台駅前から大町頭まで」という認識が一般化します。

 余談ですが、「南町通」にはもうひとつ別名が在りました。「メープル・ストリート」と言う名です。昭和32年まで駐留していた進駐軍兵士が使っていた名称です。
*駐留軍兵士向けの仙台市街図
   歴史民俗資料館特別展「なつかし仙台2」図録より
P進駐軍が使用した地図_0001 (672x1024).jpg
 ただ、この名称を仙台人が使う事はめったにありませんでした。





 次回は、戦後の「戦災復興事業」によって「南町通」がどの様に変わったか、という事と、このシリーズのまとめを書く予定でいます。

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この記事へのコメント

2020年08月06日 21:04
こんばんは。今回も力作ですね。
最初の写真(ph1)ですが,拡大して見ると「塚本硝子商店」のような文字が見えます。他には「洋燈」または「洋食」か。大町に塚本商店という店が明治22年にできたそうですが,関係は私にはわかりません。
多門通,初めて聞きました。それにしても,どうしてメイプル・ストリートなんでしょう?

2020年08月07日 09:59
ET先生、おはようございます。

 はい、この看板は私も最初に気付いて調べて見たのですが、「塚本硝子商店」あるいは「塚本砂子商店」に該当する店は見つかりませんでした。看板の横に書かれている文字は『洋燈(ランプ)』と『食器』だと思います。西洋雑貨の店なのでしょうね。
 私の所には昭和4年と昭和8年の職業別明細地図と、仙台の大正~昭和初期の商店・企業を調べた資料(歴史民俗資料館の調査報告書)があるのですが、いずれにも見当たりませんでした。
 ちなみに、創業明治22年の大町の「塚本商店」というのは、大町五丁目の「塚本呉服卸店」ですね。創業当時は太物商でした。一族は近江商人の流れを汲む人たちです。創業者は塚本仲右衛門と言い、ワコールの創業者の塚本幸一の叔父にあたります。さらにちなみにですが、塚本幸一は大正9年に仙台の花壇川前町で生まれています。

 何故「メープル・ストリート」と名付けたか、と言う御質問でしたが、たぶんこうだろう、と言う推測なのですが…
 進駐軍が仙台に駐留するようになりまして、日本語の地名は発音しにくく、憶えにくいので、馴染みのある英語名に直した、と言うのがまず初めに在ります。
 で、南北の通りを「Avenue」とし、ベースに近い所からアルファベット順に、身近な地名(Ex.Brookln Ave./現・西公園通)を充て、同様に東西の通りは「Street」として、北から順に樹木の名前を充てていったのだと思います。ちなみに、東西の通りの最初は北六番丁通りで、「Ash(トネリコ) St.」と名付けられています。
 ニューヨークあたりをモデルにしたのかなあ?
 
2020年08月08日 08:18
おはようございます。
丁寧な説明ありがとうございます。関心を持ったので調べてみたら,Wikipediaの「仙台中心部」に「占領下の名称」という項目がありました。
東西道は Street,南北道は Avenueで統一され,ニューヨーク市のマンハッタンと同様であり,東西道には樹木の名称,南北道にはアメリカ合衆国の都市名が付された,とあります。
北一番丁 Dogwood Street
大町 Hickory Street
南町通 Maple Street
木町通 Chicago Avenue
通町 El Paso Avenue
東二番丁 Fargo Avenue
とあります。
おもしろいです。
2020年08月08日 08:55
ET先生、おはようございます。

 やはりマンハッタン島をモデルにしていたのですね。南北の通りを「アベニュー」、東西の通りを「ストリート」としているのでそうじゃないかなあ、と思ったのです。
 でも、この規則、一ヶ所だけ例外が在ります。「キャンプ・センダイ」の下の南北の通り(現在の国際センター前の通りです)の名前が「AUSTIN ST.」と、「ストリート」になっています。これが何故なのかが分かりません。私の想像では、アメリカ人にとっては「street」よりも「Avenue」の方が大通りのイメージなのかなあ、というところです。キャンプ下のの通りは、当時は細道でしたからね。

 この地図、今回紹介したのは、「map of SENDAI」という、四つ折り1葉の地図の内側でした。表側にも結構面白い記述がありますので、このシリーズが終わった後にでもご紹介してみようと思います。