細横丁の不思議(4)

 今回のこのシリーズ、いつもの地名紹介にしてはずいぶんボリュームがあるんじゃないの、と思われたかもしれませんね。その通りで、これには理由があるのです。
 二ヶ月ほど前の「仙台城下の町・丁名、通りの名の命名原則への疑問」という記事を憶えておられるでしょうか?
 あれは、この「細横丁」の成り立ちを調べている時に湧きおこった疑問だったのです。「細横丁」の成り立ちや態様からくるその名と、「仙台地名考」が唱える「仙台城下の小路と横丁の命名の原則」とがどうしても整合性がとれない、という焦燥が沸き起こって来たのです。

 と、いう事で、今回のシリーズの主題はこの記事の最終項「6):まだ残る疑問について」に在ります。これまでの回の「1)」~「4)」の項と、今回の「5)」は、その導入部、というか、前提部でした。






5):「細横丁」の別名、「兜巾小路」について
 「細横丁」には「兜巾小路(ときんこうじ)」という別名があるそうです。『そうです』と、伝聞の助動詞で書いたのは昭和以降の文献でしか見たことが無いからです。現在は、よほどの物知りの人しかこの異名をご存じでありませんし、ましてや、日常会話に出てくることもありません。
 たまにですが、観光案内などにこの「兜巾小路」の名が出てくることがあるのですが、どうやらその出典は三原良吉著「郷土史 仙臺みみぶくろ」(昭和57年11月初版)であるようです。それ以前の地誌には「兜巾小路」の名は見当たりません。「仙臺みみぶくろ」の39ページには『兜巾小路』の章が設けてあります。そこから一部引用してみます。
p39、冒頭
 『裁判所前の狐小路から北四番丁まで、いまは三十六㍍幅の街路と変わったが、大町から北五番丁につきあたるむかしの細横丁は、長さ一㌔に及ぶ仙台一狭くて長い名物横丁で、一名を兜巾小路と称した
と、細横丁の別名が「兜巾小路」であることを述べています。

 で、その名前の由来は、
p40、12行目~15行目
 『それは大町から北五番丁までの間に肴町立町元櫓丁元鍛冶丁定禅寺通櫓丁本材木町跡付丁北一番丁二番丁三番丁四番丁五番丁、の十二ヵ町を横切るので兜巾にたとえたもので、起源は勧進帳初演の天保十一年以前にあり、こんなしゃれた町名をつけたのは兜巾をよく知りぬいていた能役者か山伏以外には考えられない』
と、あります。
 「十二ヵ町」が何故「兜巾」に例えられるのか、という事についてはこの本の本文中にも書かれているのですが、私の方から簡単に説明します。
 まず、「兜巾」が何か、という事ですが…
 山伏が被る帽子というか、頭に載せている装束です。下の写真は、愛宕神社の烏天狗像なのですが、この烏天狗が頭に載せているのが「兜巾」です。
*愛宕神社の烏天狗像と「兜巾」
P1月愛宕山-01_13_2015-145.JPG
 「兜巾」は「頭巾」とも書かれるのですが、最初はその文字の通り「頭巾(ずきん)」でした。それが室町以降に、額に当てるだけの「ときん(兜巾/頭巾)」になります。
*「兜巾(頭巾)」と、その形の変遷
   笠間良彦編著「資料 日本歴史図鑑」柏書房刊より
P兜巾_0001 (1024x812).jpg
 最初は木製のお椀の様なもので、実際それで水を汲んだりしていたのですが、次第に絹布を黒漆で固めたものになり、現在は紙製の安価なものも出ています(以前テレビで見た日光修験の山伏の人の兜巾はボール紙製でした)
 で、上図を見てもらえば分かるように、この「兜巾」には十二本の襞が作ってあります。これは、仏教の教義の「十二因縁」に因んだものです。
 「十二因縁」とは、「無明(むみょう)」、「行(ぎょう)」、「識(しき)」、「名色(みょうしき)」、「六処(ろくしょ)」、「触(そく)」、「受(じゅ)」、「愛(あい)」、「取(しゅ)」、「有(う)」、「生(しょう)」、「老死(ろうし)」の事です。仏教の根本原理なので、生半可な説明は憚られるところなのですが、人々のこの世での苦しみや悲しみは、この十二のファクターの相互関連作用で起こるもので、この理を明らめる事が解脱につながる、とされています。
 正しい行を行い、解脱に近づこう、と努力を重ねる修験者は、この「十二因縁」を額に頂き修行を重ねているわけです。

 と、いうことで、「細横丁」が十二の町々を通り抜けていることを、「兜巾」の十二の襞に例えて「兜巾小路」と名付けた、という事なのだそうです。

 「仙臺みみぶくろ」の作者、三原良吉氏は、この「兜巾」と「十二因縁」の謂くに随分とこだわりを持たれたようで、2ページ余りをその説明に使っています。その上で、
 『こんなしゃれた町名をつけたのは兜巾をよく知りぬいていた能役者か山伏以外には考えられない』
と、断じています。
 ま、それ以外にも学者さんや、物知りの文化人なども考えられるのですが、この説は私も概ね賛同できます。
 ただ、それを進めて、細横丁近くに在った笛の平岩流家元の平岩勘七屋敷の人々や、領内山伏の総触頭である良覚院、跡付丁の山伏の宿坊の自在庵の人々がその名付け元ではないか、という説、そしてそれらを基にしての「兜巾小路江戸時代成立説」に関しては、いささか牽強付会に思えます。
 そもそも、「細横丁」が江戸時代に十二の町々を貫いていたのか、という疑問もあります。「北一番丁」~「北五番丁」は「町」ではありませんからね。また、「定禅寺通櫓丁」という町名は明治以降に付けられた名称で、江戸時代は「北櫓丁」もしくは「今櫓丁」という名称で、武家地でしたし、「跡付丁」にしても、私はその成立は明治以降ではないか、と思っています。「十二町」という数の前提は崩れます。(交わる通りの数、とすれば、江戸時代でも12本です)
 武家地を「(町人)町」と同等に扱うのは明治以降でありますし、「兜巾小路」という名称は明治以降のもの、と考える方が自然のように思えます。この名称があまり普及していないこと等も考慮しますと、明治以降の文化人の間でのみ使われた、いわゆる”雅称”なのではないでしょうか。
 ただ、私のこの説も、根拠は弱いのですが…





6):まだ残る疑問について
 前項で「兜巾小路」の成立に関する疑問を書きましたが、「兜巾小路」にはもうひとつ疑問があります。それは、何故「-小路」なの?という疑問です。仙台城下では「小路」と「横丁」は区別されていたんじゃなかったでしたっけ?
 ・武家地を横切る通りは「○○小路」
 ・町人地を横切る通りは「○○横丁」

と、いうのが私の認識だったのですが…、どっちでもいいの?
 そもそも、この通り(細横丁)は「-横町」の基準にも、「-小路」の基準にも当てはまらないですよね。侍”丁”も、町人”町”も、両方とも横切っていますよね。

 このシリーズの第2回では「細横丁」の命名の謂れについて書きました。その謂れの出典の選択に際し、私は意図して「仙台地名考」を避けました。「仙台地名考」の『四 町名の呼称とその原則』に矛盾を感じたからであり、「細横丁」の名称の由来の記述そのものをそのまま引用するのがためらわれたからです。以下にその当該箇所を引用してみます。
 「仙台地名考」p49
 *( )は筆者の注記、アンダーラインも筆者
 『横丁の項(「四 町名の呼称とその原則」中の項目)において述べたように、仙台の城下町の町割りにおいては、大手に面して東西に通っている大町とか立町は縦町で、これに交叉して南北に走っている細横丁・本荒町や東番丁などは、原則としては横丁であった訳である』
 この文章のどこに違和感を感じたかですが、、、
 それは、「横町(よこまち)」と「横丁(よこちょう)」の混同です。
 確かに、江戸時代の城下町の町割りにおいて、大手門に繋がる道筋、「大手筋」に沿って作られた「町」は「縦町(たてまち)」であり、「立町(たてまち/たちまち)」あるいは、「大手町(おおてまち)」と名付けられることが多いです。そして、それに直交する道筋に造られた町並みは「横町(よこまち)」であり、町名としては、「横町(よこまち)」という名が付けられていることもあります。
 ただし、それは決して「横丁(よこちょう)」ではないのです。明治以降は、「横丁」から”町”が発生することがありましたが、江戸時代は「横丁」は「町」では無かったからです。江戸時代において、「○○横丁」というのは通りの名称でした。
 「仙台地名考」の作者も、薄々はこの事に気付いていたのでしょうね。なので、
 『細横丁・本荒町や東番丁などは、原則としては横丁であった訳である』
と、「細横丁」ばかりでなく、「本荒町や東番丁など」も「横丁」であって、その町名はあたかも原則から外れた例外であるかのように書いています。その伝で行けば、仙台城下の町名・丁名の半数以上は”原則から外れた例外”になってしまいます。不条理です。

 ここまでの所で、私が主張している事を箇条書きにしてみます。
 ①:「縦町」、「横町」というのは、城下町の町割りの事であり、町名の命名の基準とは原則切り離すべき。
 ②:「横町」は行政区画としての「町」であるが、「横丁」は「町」ではない。
 ③:「横丁」は、「町」の主軸の道路に直交する副次的な道路・通りの事。


 ③について少し補足します。「丁」という漢字は、古代の釘の形を象ったものでした。「釘」という漢字の旁にも「丁」が使われていますね。そして、その生まれた当初は、「釘の頭」ということから、(頭数としての)人という意味がありました。しかし、時代が経つにつれてその字義は薄れて行き、本来の字義は「馬丁」や「園丁」といった漢字ぐらいにしか残らなくなり、むしろその音の「チョウ・テイ」を用いた熟語が増えて行きます。「横丁」は、その「音を充てた熟語」です。
 では、元の漢字は何であったか、ですが、、、「町」だったのです。
 ですが、本邦では、特に江戸時代は、「町(まち)」は行政区画でして、「道路・通り」としての「よこちょう」に「町」の漢字を使うのは誤解の素で不都合でした。なので、同じ音で、「町」の略字としても使われていた「丁」を用いて「横丁」としました。
 それに、「町」という漢字を字解しますと、「田」と「丁」になりますね。「田」は区画された田圃で、「丁」はそのあぜ道を象ったものなのです。「町(ちょう)」は古くは田圃の一区画を意味する漢字で、それが後に「人々の住む一区画」の意味に変化したのです。
 で、「町」という字を分解して、「あぜ道」の意味を持っていた「丁」だけを取り出し、「よこちょう」にこれを充てて「横丁」とすると、そのイメージによく合った字となるわけです。
 と、いうことで、「よこちょう」には「丁」の字が充てられているわけです。


 このように、「町」と「丁」を分離しますと、仙台城下の命名規則の矛盾が解けて行きます。「細横丁」は、「-横丁」でも「-小路」でも、どちらでも良かったのです。「細横丁」は、「町」の主要通り(表通り)でも、武家地の主要通り(表通り)でもない、副次的な通り、「横丁」・「小路」だからです。別に、町人町だから「-横丁」、武家地だから「-小路」という、絶対的な区分というものも無かったのだと思います。
 まあ、こうした副次的な道路に関しては、上記の小文字で書いた部分の理由があって、優先的に「-横丁」の方が付けられるのでしょうが、武家地だけに留まるものであれば、「-小路」となるのかもしれません。その辺はまだ精査が足らないので断定はできませんが…

 郷土愛からくるものなのでしょう、仙台城下を特別なものと思いがちです。しかし、仙台城下も基本的な所では他の城下町と大差はないはずです。その基本的な共通事項に立脚した視点を持てば、『・武家地を横切る通りは「○○小路」、・町人地を横切る通りは「○○横丁」』とか、『町人町は「○○町」、侍町は「○○丁」』等と言う、仙台城下特有の「町名の呼称とその原則」というものも怪しく思えてきます。仙台城下だけがそのような厳密な規則に基づいて”町名”を決めたように思えません。だいいち、侍町の、例えば「東一番丁」等というものは「町名」なのでしょうか?
 わたしは、こうした侍町、いや武家地の「○○丁」というのも「通りの名」だと思い始めています。そのように考えると、やけに細長い「○○〇丁」に対する疑問や、境界が不鮮明な”侍町”の謎も解けるからです。そして、武家地の表通り(表門が面している通り)が「○○丁」で、それに直交する副次的な裏通りが「○○小路」である、とすれば、他の城下町の町割りや命名規則との違いも少なくなります。


 ただ、この私の説は、まだ仮説の段階で、裏付けが不足しています。なにせ、「仙台地名考」は郷土誌としては権威のある重いものですので、十分な裏付け史料を基に精査を重ねないと、大方の批判には耐えられません。私の勉強はまだまだ続きそうです。



   <このシリーズ完>

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この記事へのコメント

2020年07月12日 11:13
おはようございます。
大作お疲れさまでした。
私の理解力は追いついていないと思いますが・・・。
兜巾は初めて知りましたが,その理由を理解できた人はいたんでしょうか。
素朴な疑問ですが,あきあかねさんが調べている町名や通りの名前は仙台独自のものなのか江戸なんかと共通するんでしょうか。想像するに,それが藩の個性というものなんでしょうかね。


2020年07月13日 09:14
ET先生、おはようございます。

 本文にも書きましたが、「兜巾小路」という呼び名そのものも、それ程メジャーな呼び名ではなかったように思います。「兜巾」と「十二因縁」という言葉については、昭和の初め位まででしたら、ある程度の年齢の方でしたらご存知の方も多かったと思います。当時は寄席や高座、読み本などでそういった知識というか、言葉を聞くことができましたので。しかし、兜巾の襞と十二因縁を結びつけた知識などは、かなりディープな知識ですので、だいぶ限られた人々になると思います。

 仙台城下の町名・地名の、他の城下町のそれとの共通性と独自性ですが、まるっきり同名というものと、同じような謂いで、というものも含めますと、共通性の方が大きいです。「近世の城下町」という事では共通していますからね。「職業別の集住」という事からくる「職業の名に因んだ町名」ですとか、「町割りに因んだ町名」、「城下町の立地条件」からくる「地形に因んだ町名」、「位置や町の形からくる町名」等などが共通する町名・地名になります。同名のものも多くなります。
 ある程度独自性が出ている町名・地名としては、「人名に因む町名・地名」や、「建造物に因む町名・地名」等が挙げられかと思います。これは他の城下町でも、別名ではありますが、同じような謂いで命名された町名・地名があります。
 仙台領独自の地名、となりますと、むしろ城下の外にその例が見られるようになります。「館(たて)・○○館」とか「要害(ようがい)」という様な地名です。これは仙台藩が「地方知行制」を敷いていたために出来た地名です。江戸期を通じて完全な「地方知行制」を敷いていた大名領はごく少数で、知行地に在郷屋敷(館・要害)を持ち、城下との間で参勤交代をしていたのは仙台領伊達家くらいでした。

 この欄では書ききれない内容ですので、この件、いつか記事にしてみようと思いますが、よろしいでしょうか?
れきお
2020年07月16日 12:42
こんにちは。
細横丁の事良くわかりました。自分は南の起点は大町だとずっと思ってました。
細横丁だけではなく東一番町も、実は子供の頃まで中央通りとの交差点が南の起点だと思ってました。
大町~中央通りから南方向(青葉通りから南町通り~柳町あたり)が、北方向の広瀬通~定禅寺通あたりと比べて、大学があったり裁判所があるせいなのか、落ち着いた佇まいというか、静かというか、何となく空気感が違っているように思えるのです。
因みにこの坂、結構な高低差があると思うのですが、江戸時代この辺の商家の建物は、どんな造りになってたのでしょうか。
あと、青葉通りが出来る前の戦前まで、この界隈がどんな佇まいだったのかも知りたいところです。

横丁についてですが、横丁というと「文横」とか「いろは横丁」が先ず頭に浮かんでしまいます(苦笑)。
2020年07月19日 09:41
れきおさん、おはようございます。返事が遅れまして申し訳ありません。

 中央通りを境にして北と南では雰囲気が違う、というのは良く分かります。私もそのように思います。
 れきおさんがおっしゃるように、一番町1丁目、2丁目は東北大学片平キャンパスの学生さんの町でしたので、本屋さんや学生向けの安価な飲み屋さんなどが集まっていました。今は、そう言った店もだいぶ少なくなりましたが、まだその雰囲気はありますね。

 「この坂」というのは中央通りから青葉通りにかけての下り勾配の事でしょうか?
あれは上町段丘崖なのですが、丁度その段丘崖が藤崎デパートの内を通っていますね。藤崎デパートの1階に不自然な段差があります。
 この段差を江戸時代の商家がどの様にさばいていたのか、という事は私の手元に資料がないので分かりません。機会がありましたら調べておこうと思います。
れきお
2020年07月19日 11:06
おはようございます。
お忙しい中返信ありがとうございました。
説明不足ですみませんでした。「この坂」はご指摘通り、中央通りから南方向にある坂です。
青葉通りの細横丁~藤崎前にかけても結構な坂になっていて、この付近かなり複雑な地形なのかと思います。

以前、終戦直後、南町通りと東一番町の交差点から北方向を写した写真を見たことがあります。
その写真には、現在青葉通りがある付近にに、立ち退く直前の建物が写っています。
また、同じく終戦直後、仙台駅を背にして名掛町の入口を写した写真も見たことがあって、青葉通りが出来る前の建物等の姿を垣間見る事が出来るのですが、名掛町~新伝馬町~大町と南町通りの間に未だ青葉通りが無かった頃の東五番丁~東一番丁の各通りの様子(特に青葉通りによって消滅した場所)を写した写真がないか探してます。
大正時代の地図を見ると、〇〇私邸があったり、教会があったりします。
2020年07月20日 08:12
れきおさん、おはようございます。

 お探しの写真、肴町の仙台市戦災復興記念館にあるかもしれませんよ。展示品の中に無くとも収蔵品の中にあるかもしれませんので、学芸員の方に相談して見られてはいかがでしょうか?
れきお
2020年07月20日 09:24
おはようございます。
貴重な情報ありがとうございます。
戦災復興記念館ですね、行ってみます。