細横丁の不思議(3)

 以下の2項は最初の回に入れる予定だったのですが、思った以上の分量になりそうだったのと、説明用の写真が足らなかったので撮り直しに行ったりしまして、今回になってしまいました。なので、このシリーズは1回分増えて、全4回となります。





3):「晩翠通」の範囲について

 「晩翠通」ですが、第1回目で述べましたように、これは昭和57年に「細横丁」に付けられた愛称です。で、この時にそれまで曖昧になっていた始点・終点も定義付けされました。したがって、その範囲も明確です。現在の「晩翠通」の範囲は以下の地図の赤紫色の太線です。
*「晩翠通」の位置と範囲
P晩翠通・現代_0001 (1024x979).jpg
 始点は「五橋通(いつつばしどおり)」との交点、「裁判所前交差点」です。
*「裁判所前交差点」
P6月晩翠通・裁判所前交差点-06_27_2020-098 (1024x768).jpg
*「裁判所前交差点」に在る「晩翠通」の案内標識
P6月晩翠通・裁判所前交差点-06_27_2020-089 (1024x768).jpg
 「晩翠通」がここからであることが分かります。

 で、終点は「北四番丁通り」との交差点です。
*「晩翠通」・「北四番丁通り」交差点
P6月晩翠通・北四番丁-06_27_2020-002 (1024x768).jpg
*同交差点近くの案内標識
P4月晩翠通-04_20_2014-001 (1024x576).jpg
 「晩翠通」がここまでであることが分かります。

 ちなみに、「晩翠通」の途中の案内標識は、以下の写真です。
*「晩翠通」・「北一番丁通り」交差点近くの案内標識
6月晩翠通・北一番丁-06_27_2020-014.JPG
 案内標識の形が違いますね。

 と、第1回目で「晩翠通」の正式名称が「仙台市道1159号・晩翠通線」であることをお話ししましたね。で、実はこの「仙台市道1159号・晩翠通線」と、愛称として呼ばれている方の「晩翠通」とでは、その範囲が違うのです。ま、我々一般人にとっては正式名称の「仙台市道1159号・晩翠通線」との違いなどはどうでもよい事なのですが、この後述べる「細横丁の範囲の変遷」に関わる話ですので、ちょっと心に留めておいて頂きたく思います。「仙台市道1159号・晩翠通線」の始点は、もう少し南の、「東北大学金属材料研究所前」、「柳町通り」との交差点になります。先の地図では、その始点は範囲外になっているのですが、その道筋を赤い枠線で記入しておきました。
 終点は「晩翠通」と同じで、北四番丁通りとの交差点です。
*「東北大学金属材料研究所前」交差点
11月片平-11_13_2011-008 (1024x576).jpg
 ここは、昔の町名・地名で言いますと、「柳町通」(「袋町」と呼ばれた時期もあった)から北へ延びる「狐小路」の始点です。この、”「仙台市道1159号・晩翠通線」に「狐小路」が含まれている”という事を心に留めて置いてください。







4):「細横丁」の範囲と、その変遷

 この様に、「晩翠通」は近年になって命名されたこともあって、その範囲は明確なのですが、「細横丁」は命名されてから長い年月が経っていますので、その範囲は時代によって違いがあります。

 先ずは、「細横丁」が出来た当初の姿なのですが…
*江戸時代、元禄期の「細横丁」の範囲
   復刻「五厘掛絵図」、(有)イーピー風の時編集部刊より部分コピー
P2細横丁・五厘掛絵図_0001 (964x1024).jpg
 始点は「大町筋」の「大町三丁目」で、終点は北五番丁でした。「細横丁」と「狐小路」は繋がっていませんでした。この姿は江戸期を通じて変化はありません。



 明治に入っても「細横丁」の道筋には大きな変化はありません。
*明治13年の市街図と、「細横丁」、「狐小路」の位置
   復刻「宮城県仙臺区全図」仙台市歴史民俗資料館版より
P明治13年「宮城県仙台区全図」_0001 (823x1024).jpg
 しかし、それ以外では大きな変化がありました。それは、江戸時代の「横丁」や「小路」、「通り」を中心に新たな「町」が出来た事です。ちょっと、この地図の南側を拡大して見てみましょう。
   ・上の地図の南橋の拡大
南明治13年「宮城県仙台区全図」_0001.jpg
 細横丁(赤紫色の線)の所に「同十」、「同十一」という文字が見えますね。これは、「細横丁」という通りの名を使った「細横丁十」、「細横丁十一」という、新しい「町(地番区域)」が出来たという事です。同様に、江戸時代は「良覚院丁」という武家地・武家地の通りの名であったものが、「良覚院丁一丁目」、「良覚院丁二丁目」という「町」になりましたし、「狐小路」という、武家地を通る通りの名を使った「狐小路」という新たな「町」も出来ました。

 これがどういうことなのか、という事を歴史的背景から説明しなければなりません。
 江戸時代、国土のすべてが公有地だった、という事を以前にもお話したことがありました。つまり、江戸時代までは土地の「私有権」は無かったのです。
 明治政府は、明治6(1873)年に「地租改正(ちそかいせい)」を行い、土地の私的所有権を認める代わりに、その私有地に対しても課税するようになります(以降の説明との間に、「貢租」と「地租」の違い、「地価」の概念の導入などの説明が必要なのですが、煩雑になりますので割愛します)。この時必要になったのが、「誰が何処のどの範囲の土地を所有しているのか」という事で、そのために導入されたのが「地番」です。
 「地番」は、「市」、「区」、「町」、「村」、「字」もしくはそれに準ずる地域からなる「地番区域」(市・町・村制が敷かれるのは明治22年で、それ以前は市制と町村制は別々に敷かれていた)内の、個々人の登記単位にふられた番号の事です。
 で、この「地番」の制度は住居表示・住所にも流用されました。そして、この仕組みは昭和37年の「住居表示に関する法律」によって住居表示が「地番」と分離され、「街区制」になるまで続きました。

 この「地番」の仕組みですが、個々の土地・建物に番号が振られたことによって一見便利になったように見えます。江戸時代は町名までは分かっても、その町内の特定の家を示すものは何もなかったですからね。表札も、医者や産婆、家内職の人ぐらいしか挙げていませんでした。町内の人と思しき人に訪ね歩いて、目的の家にたどり着く、というのが常でした。番号(地番)で個々の家が特定できるのは便利でした。

 しかしですね、この「地番制度」には不便というか、混乱させられる点も多々ありました。そのひとつが、「通りの名と町の名(地番区域)の混同」です。
 先ほど、『江戸時代の「横丁」や「小路」、「通り」を中心に新たな「町」が出来た』という事を申し上げました。明治政府は、私有地に課税するにあたって、西洋的な「街区制」を導入するのではなく、自然発生的な「地番制」を採りました。これは「地租改正」を急いだ(世界に植民地化の嵐が吹きすさぶ中、列強諸国の圧力を跳ね返すために富国強兵を急ぐ必要があって、税制の改革は喫緊の課題だった)、という事もあるのですが、江戸時代の行政単位の「町」の改廃は住民の根強い反発があって困難だと判断したためだと思われます。

 この「通りの名と町の名の混同」という点に留意しながら、細横丁の南端、狐小路周辺の、町と通りの変遷を見て行こうと思います。大きな変化が現れるのは大正末のことです。そうです、仙台市電(循環線)の敷設がその大きな契機でした。
*大正15年の「狐小路」周辺
   復刻「地番入 仙臺市全図」仙台市歴史民俗資料館版より
南大正15年_0001.jpg
 仙台市電の市内循環線、市街地南側は「南町通」を拡幅・延伸する形で行われました。
 藩政時代の「南町通」は、武家地を通り抜ける道幅1間余の細道で、東端は榴岡天神下、西端は南町でした。これが、明治20年の仙台駅開設で仙台駅南口と南町の間の道幅が9間となり、郵便・電信・電話などの官公庁、金融機関、企業の支店等が建ち並ぶメインストリートになっていました。現在の青葉通のような役割だったのです。
 大正末・昭和初頭の市電の敷設に伴い、この南町通はさらに12間幅に拡幅され、「加川横丁(通りの名)」、「狐小路(町の名)」と繋ぎ、「上等裁判所」の横に新しい道を切り開き、片平丁へと繋がりました。
 これにより、明治期に新たに出来た「南町通一丁目~五丁目」の町は無くなり、裁判所横に出来た新しい道沿いには「片平新町」という新たな町が生まれます。
 また、町としてあった「狐小路」は消滅、もしくは「本荒町」に吸収され、通りの名が残るだけになります。
 良覚院丁(町)は、良覚院丁二丁目が本荒町に吸収されされますが、同一丁目は残って「良覚院」となりました。しかし、本荒町に吸収された「良覚院丁二丁目」を通る道には『良覚院』の文字が見えます。これは、「りょうがくいんちょう」という通りの名として残った、という事なのですね。でも、本来は「良覚院」と記載すべきなのですが、「まち」としての「町」と、「よこちょう」としての「丁」を混同していますね。「町」も「丁」も、同じく「ちょう」と読めますし、この時代は「丁」を中心に「町」が出来る、という事があった為です。
 で、本荒町に吸収された「良覚院丁二丁目」なのですが、この内に良覚院丁(通り)と大町筋を結ぶ新たな横丁が出来ます。この新たな横丁には名前が付かなかった様なのですが、「狐小路(通り)」の延長の様に捉えられていたようです。



 この地域に次に起きた大きな変化は「戦災復興事業」です。私のブログでは何度も登場している「戦災復興事業」ですが、終戦後すぐの昭和21年11月から昭和36年3月の、約15年間に渡って行われました。それまでの、細く入り組んだ網の目の様な”城下町”ではなく、広幅員の幹線道路によって整然と区画された近代都市を目指した計画でした。(私が子供の頃に聞かされた話では、ニューヨーク市の「street」と「avenue」で区画された街がモデルだったとか)
 参考:仙台市の戦災復興計画の概要
     総事業費:12億7千万円、都市計画道路:19路線、都市計画公園:14か所、建物の移転:3,170件)

 で、この時に新たに造られた、あるいは大規模に拡幅された道路が、現在でも仙台の市街地の幹線道路である、「北四番丁通り」、「定禅寺通」、「広瀬通」、「青葉通」、「五橋通」(以上は東西の通り)、「駅前通」、「上杉山通・東五番丁通り・清水小路<愛宕・上杉通>」、「勾当台通」、「東二番丁通り」、「細横丁」、「常磐町・多門通<西公園通)>」(以上は南北の通り/< >内は現在の呼び名)でした。


 まだ「戦災復興事業」の端緒に就いたばかりの昭和22年の市街図で、「狐小路」周辺がどの様に変わりつつあったのかを見てみましょう。
*昭和22年の「狐小路」周辺
   復刻「復興 新仙台地図」仙台市歴史民俗資料館版より
南細横丁・昭和22年_0001.jpg
 前の大正15年の市街図と見比べてください。大きな相違点が二ヶ所あります。
 ひとつ目は、図の中央を左右に横切っている太い道路、「仙台駅・川内線」であり、もうひとつは、図の右下から狐小路に繋がる「狐小路・連坊小路線」です。どちらも、戦前までは無かった、新たな幹線道路です。
 最初の「仙台駅・川内線」というのは、現在の「青葉通」の事です。これは、仙台駅前正面から、「東五番丁(町名)~東二番丁(町名)」、「南光院町」、「東一番丁(町名)」、「南町」、「本荒町」の一部を潰して西へ進み、「良覚院丁」をかつての通りも含めてほぼすべてを潰して、「大町頭(おおまちがしら)」へ続く、仙台の顔ともなるべき幹線道路でした。
 二番目の「狐小路・連坊小路線」は、現在の「五橋通」です。戦前の「五橋通」は、清水小路と上染師町とを結ぶ短い通りのことだったのですが、その東端は連坊小路にもつながっていました。
 で、この「狐小路・連坊小路線」は、その「五橋通」を介して仙台市街の西部と、東北本線の東側へ延びる「連坊小路」を結ぶ幹線道路として計画されました。もうひとつには、仙台の市街地の外郭を囲む幹線道路の一角という意味合いもあります。(「東五番丁通り」・「清水小路」・「五橋通」・「西公園通」・「北四番丁通り」が市街地の外郭を構成する、いわば「市内環状線」)
 この「狐小路・連坊小路線」も、「本荒町」や「良覚院丁」等の各「町」を潰して通されたのですが、今回のお話とはあまり関係性がありませんので、詳述は省きます。
 今回のお話、「細横丁の範囲の変遷」に直接関係するのは、大正時代に出来た新たな横丁、大町三丁目と良覚院丁を結ぶ横丁です。「戦災復興事業」で細横丁も拡幅・延伸し、新たに造られる「五橋通」と結合するようになるのですが、その時にこの”大正時代に出来た横丁”の道筋が使われます。その結果、「細横丁」は南へ延び、裁判所前交差点がその始点となります。ただし、この地図の昭和22年当時では、その始点は青葉通となっていたようです。裁判所前交差点が「細横丁」の支店として明確に市街図に現れるのは、私の持っている市街図では昭和27年のものからでした。
*昭和27年の狐小路周辺
   復刻「最新番地入 仙台市街明細地図」仙台市歴史民俗資料館版より
TP昭和27年_0001 (647x1024).jpg
 ただですね、私が盛んに市内を歩き回っていた昭和40年前後の頃、裁判所前が細横丁の始まりだ、という人は少数で、若い人だけでした。私の親程度の年配の人たちは青葉通が細横丁の始まり、と思っている人が大多数でした。稀に、良覚院丁角(南角)がその始まり、という人もいましたが、これまでの経緯を考えると、この説の方が妥当性は高いように思えます。でも、『良覚院丁角』と言われても、その時代には既に「良覚院丁」は消滅していて(上の市街図、昭和27年当時はまだ残っていました。青い線で囲った所が「良覚院丁」です)、我々若者にはどこのことかわからなかったのですが…
 ともあれ、この時代、細横丁の始点については諸説があって曖昧でした。



 「細横丁」の北端、北四番丁通りと北五番丁通りの間の区間についても、同様の経過で変化が起きています。この区間が「細横丁」の区間から外されたのは、「戦災復興事業」によって、「細横丁」が計画道路に指定され、拡幅工事が始まった時です。
*昭和16年の北四番丁付近
北細横丁・昭和16年_0001.jpg
*昭和22年の北四番丁付近
北細横丁・昭和22年_0001.jpg
*昭和27年の北四番丁付近
北昭和27年_0001.jpg
 こちらも南端と同様に、昭和の初めに市電通りが出来たことによって細横丁が分断され、その北端(北四番丁と五番丁の間)の存在は薄くなっていましたが、「戦災復興事業」の計画から外されたことによって、”細横丁は北四番丁まで”という事が明確になりました。



 この項のまとめです。
 ・「細横丁」の範囲は、明治までは大町三丁目に始まり、北五番丁で終わる区間だった。
 ・大正末に仙台市電の環状線が敷設され、「市電通り」が出来ると、「細横丁」の北四番丁と北五番丁の間が忘れられがちになる。
 ・大正末から昭和の初め、「細横丁」の南の「良覚院丁」、「狐小路(町)」、「本荒町」の各町境が度々変更になる。
 ・同時期、良覚院丁と大町三丁目の間に新しい横丁が出来、狐小路(通り)が北へ延長したようになる。
 ・戦後に行われた「戦災復興事業」で「細横丁」は計画道路に指定され、北端の北四番丁と北五番丁の間の区間は「細横丁」から外れる。
 ・同時に、南端は新たに造られた「五橋通」まで延びる。(青葉通ー五橋通間が「細横丁」に組み入れられるのには少し時間がかかった)

 この様な経過を経て、昭和57年に「細横丁」は「晩翠通」へと名称変更になった訳です。





<おまけ>
 今回の話に出て来た「良覚院丁」、「本荒町」、「狐小路」、「南町通」の辻標の写真を挙げておきます。
*第十九番辻標「本荒町/良覚院」
7月青葉通-07_02_2014-022 (1024x576).jpg
 (青葉通の「晩翠草堂」前に在ります。)

*第二十七番辻標「狐小路/南町通」
6月狐小路-06_27_2020-105 (1024x768).jpg
 (仙台地方、高等、簡易裁判所の正門向いの公園に在ります)



<次回に続きます>

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この記事へのコメント

みなと
2020年07月04日 09:09
お早うございます(._.)
2度読みましたが・・みなとの頭には
とても緻密なことは、覚えられません(._.)

子供達からも、地図が読めない母!として
有名なみなとです(*ノωノ)
あっ・・・地図だけで無いのかもしれませんね(*´ω`*)
2020年07月04日 09:25
みなとさん、おはようございます。

 いや~、今回のこの記事、書き上げた後に読み返してみて私も反省しているのですよ。論点が曖昧だなあ、って…
 最近、どうも文章の切れが悪くなってしまって(笑)。
 要は、細横丁の範囲の変遷には理由があって、その理由が明治時代の地番制度だ、という事なのですが、、、
 実は、この事は次回の「未解決の不思議」に繋がる事でして、私自身がこの事をちゃんと把握していないと、次回作も曖昧な内容で終わってしまいそうです。
2020年07月04日 17:39
こんにちは。
毎日のようにこの近くを通っているのに私にも難しいというか基礎知識がないんですね。
今回は「良覚院」という名前を初めて知りました。良覚院丁公園ってあるんですね。
いちばん興味がひかれたのは・・・

西洋的な「街区制」を導入するのではなく、自然発生的な「地番制」を採りました。

というところです。
なるほどと思いましたが,震災後は街を作りなおしたところは,アルファベットを取り入れたりして「〇街区△画地」の表記で表しているところもあるようです。このような住所表記には何らかの取り決めがあるのか,各市町村に任されているのか興味がひかれるところです。

力作お疲れ様です。
2020年07月05日 09:40
ET先生、おはようございます。

 「良覚院丁公園」は「緑水庵」が在る所ですね。五橋通(Google Mapでは「南町通」となっていますが、あれは誤りです)の、消防署(片平分団)の向かいです。あそこは、夏は涼しい風が吹く良い所です(笑)。
 あの場所は、江戸時代は「良覚院丁」ではなく、「片平丁」だったのですが、明治時代に「良覚院丁」に組み入れられました。「良覚院」というお寺は、現在の「緑水庵」の辺りに在りました。「良覚院丁公園」の南側の一部と、その前の「五橋通」の辺りは、元禄期には「奥山長十郎」という上級武士の屋敷地でした。

 そうですね、南三陸町も閖上も、長い歴史があった集落から離れた場所に新しい町が造られましたね。
 住所表記に関しては、昭和37年の「住所表示に関する法律」以降は、基本的に「街区制」で行われるようになっています。新しい町(新興団地等)に関しては例外なくその様にされています。