細横丁の不思議(2)

 「細横丁」の不思議をたどる旅ですが、第2回目の今日は、「何故・横丁」なのか」という謎についてです。
 私が市電に乗って仙台の街をほっつき歩き始めたのは中三頃からです。受験勉強の為に図書館や塾へ行く、という事を口実にしていました。ちゃんと図書館や塾にも行っていましたよ(笑)。
 で、その時不思議に思ったものの一つがこの「細横丁」でした。なんでこんなに広い道路なのに「”細い”・横丁なの?」と、いう事です。




2):「細横丁」は何故「細…」なのか

*現在の「細横丁」(晩翠通)
7月青葉通-07_02_2014-042 (1024x576).jpg
 この写真は、青葉通りとの交差点、「晩翠草堂前交差点」から北方向の細横丁を写した写真です。上下4車線・右折レーン付きの広い道路であることが見て取れると思います。
 ま、単純に考えれば、「今はこんなに広い道路だけど、昔は細かったんじゃないの?」と、いう事なのですが…

 確かに、大方の皆様が想像される通り、この様に広い道路になったのは戦後の事です。それ以前は、ご想像の様に「細横丁」は”細”い道路でした。

 昭和20年7月の仙台空襲で焼け野原となった仙台市街は、昭和20年から昭和36年ごろにかけて「戦災復興事業」によって大きく様変わりしました。皆様がよくご存じの仙台市街の主要道路、「定禅寺通」、「広瀬通」、「青葉通」、「駅前通」、「上杉山通・東五番丁通(愛宕・上杉通」、「細横丁(晩翠通)」等がこの時に拡幅、もしくは新たに造られました。
*「戦災復興計画」が描かれている昭和22年の市街図
   復刻版「復興 新仙台地図」仙台市歴史民俗資料館刊
P細横丁・昭和22年_0001 (722x1024).jpg
   ・同、その凡例
細横丁・昭和22年凡例_0001 (375x1024).jpg
 この地図を読み取ると、「細横丁」は幅員30mの道路として計画されたようですね。現在はもう少し広くなっていますが…

 一応、戦中の姿も見てみようと思います。
*昭和16年の「細横丁」周辺
   復刻版「仙臺市全図」仙台市歴史民俗資料館刊
P細横丁・昭和16年_0001 (1024x867).jpg
 この時代、市電の路線や街道、軍用道路等が幅員が広い幹線道路でした。「細横丁」はそれに当てはまらない”副次的”な道路だったので幅員は狭いままでした。


 と、ここまで来まして、さらに以下の様な疑問が沸きあがる方もいらっしゃるのではないかと思います。
 「なんで細横丁だけに”細”が付くの? 他に細い道路も沢山あったでしょうに…」
と、言う疑問です。
 はい、ごもっともです。この事を説明するには仙台開府の昔まで遡らなければなりません。仙台城下の地図では最も古い「正保絵図(1645年)」を見てみましょう。
*「正保絵図」細横丁付近
   風の時編集部刊「仙台まちあるき」①より部分コピー、加筆
P正保絵図_0001 (722x1024).jpg
 この絵図に描かれた道路なのですが、複数の幅の線で描かれています。私が使った「正保絵図」は原図を縮小印刷したものですので、実際はもっと種類があるのかもしれないのですが、ノギスで計測した所では、「4.4㎜」、「2.6㎜」、「1.8㎜」、「1.0㎜」の4種類が確認できました。道路の線の線幅を絵図の縮尺に比例させる様な作図技術は無かったと思います。しかし、城下町建設という都市計画において、複数の道幅の基準があったように見てとれます。

 多くの城下町がそうであったように、仙台城下も慶長年間から寛永年間にかけてその礎が造られました。こうした城下町は、その都市計画を、豊臣秀吉が京の都の復興で行った「天正地割(てんしょうちわり)」を発展させた「両側町」で行っています。
*両側町の模式図(仙台城下の例)
近世の町割り_0001.jpg
 「両側町」では「表通り」を挟んで町屋敷が建ち並び、その間口は「表通り」に開いています。ま、語義上は、この様に表口が面している通りを「表通り」と呼ぶわけなのですが。
 ともあれ、近世の「両側町」では、この図の様に「表通り」と町屋がセットで「1町」でした。

 で、仙台城下の都市計画では、この「表通り」は5間(約9.5m)幅と3間(5.7m)幅の二通りの規格がありました。(実際は軒下の入れ込みや用水路の堀幅があって、約11m幅、約6~6.5m幅の二種類)
 広い方は、街道や上級武士の屋敷地の道路で、狭い方は街道裏の町場や職人町、中・下級武士の屋敷地の表通りです。

 こうした「表通り」以外にも、町屋や武家屋敷の裏手を通る「裏通り」や、町を横切る「横丁」等の補助的な道路も在る訳で、これらは3間幅もしくは、2間(3.8m)幅がその基準でした。「堤通」、「上杉山通」等の「~通」と名が付く通りの多くもこの基準でした。

 と、ここまでの5間幅、3間幅、2間幅、というのが仙台城下の都市計画上の道幅だったのですが、それ以外の、いわゆる”規格外”の道路も、実際は存在しました。前記実測値の「1.8㎜」、「1.0㎜」の道路というのがそれで、件の「細横丁」もこれにあたります。概ねこれらは開府以前の残存道路であったり、主要道路の裏道としての副次的な道路であったりします。

 仙台開府時の「細横丁」がどの様な目的で造られたのか、という史料が見当たらないのですが、主要道路(表通り)である「木町通」の裏道の性格であった事は広く知られており、その性格は昭和初期まで変わりませんでした。その様子を、三原良吉著「郷土史 仙臺耳ぶくろ」宝文堂刊から引用してみます。
p42、3行目~5行目
 『むかしの細横丁は大半が竹ヤブや木立の茂る侍屋敷の横と横が狭い道をはさんで向かい合うさびしい小道で、手マリ唄にも「一つとや人も通らぬ細横丁、ゆうれい(幽霊)化け物出る横丁、出る横丁」とあるが、 …<以下略>』
と、この様に狭く、人通りの少ない裏道だったのです。
 で、どれほど狭い道であったか、という事ですが…、これが今でも分かる所が在るのです。下の2枚の写真です。
*昔の「細横丁」の遺物
   ・南端付近から北方向の眺め
3月細横丁・北四番丁-03_31_2020-031 (1024x768).jpg
   ・北端から南方向の眺め
3月細横丁・北四番丁-03_31_2020-032 (1024x768).jpg
 この短い道は、北四番丁通りと北五番丁通りの間、仙台市立第二中学校のところに在ります。「細横丁」が拡幅され、後に「晩翠通」になる時に取り残された「昔の細横丁」の遺物です。道幅は凡そ3m、約1間半というところですね。この道幅は、江戸時代でも十分に「狭い道」でした。
 こうした狭い道が北五番丁から大町まで、12の町・丁を貫いていた(この事については第4回目でお話しします)のですね。

 と、いうことで、この様な特徴的な姿、つまり、規格外に細い道が長く続く、という事から「細横丁」という通りの名が生まれた訳です。






 次回は「細横丁」の変遷と、私がまだ解け切れていない”謎”について書いてみます。

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この記事へのコメント

2020年06月28日 10:26
おはようございます。
なるほど。手毬歌に説得力がありました!
2020年06月28日 14:30
ET先生、こんにちは。

 この本(三原良吉著「郷土史 仙臺耳ぶくろ」)は、亡き父が宝文堂で購入して、父自身の本棚に入れていた物だったので、私が目にしたのは父が亡くなってからでした。私の中学生時代の疑問はそれ以前に解けていたのですが、それを裏打ちしてくれました。
 実は、次の回で予定している話題もこの本から採り上げる予定でいます。
2020年06月29日 10:12
お早うございます(#^.^#)
亡きお父様もあきあかねさんの様に
郷土史を研究為さっていたのでしょうか?
2020年06月29日 13:05
みなとさん、こんにちは。

 いえいえ、父は日曜大工と酒飲みが趣味でして(笑)、郷土史とかはほとんど興味を示しませんでした。ただ、仙台に赴任してからしばらくして、仙台を終の棲み処と決心しまして、仲間内の酒の肴にでも、と思ってこの本を購入したようです。
 なので、この本の内容についてはほとんど頭に残っていなかったようで、むしろ母や私の方が詳しかったくらいでした。