ちょっと残念な事

 衣替えと入学式が一緒、という異常な今年なのですが、地元紙の河北新報5月末の朝刊に、ちょっと残念なニュースが二件出ていました。





 先ず一件目は、東北大学の旧・雨宮キャンパス(農学部)移転に関する5月30日(土)朝刊の新たな報道です。見出しは、「東北大・雨宮跡地 既存樹木わずか40本に」というものでした。
*河北新報2020年5月30日朝刊社会面
農学部跡地の樹木1-2_0001 (598x1024).jpg農学部跡地の樹木2-2_0001 (1004x1024).jpg
 やっぱり駄目だったか、というのが正直な感想です。
 取り壊し前の2016年10月28日に行われた「感謝祭」の時に構内を一回りして見たのですが、この時にはすでに樹木の選別が行われていまして、マーキングのテープが付けられていました。
10月雨宮キャンパス-10_25_2016-049 (1024x683).jpg10月雨宮キャンパス-10_25_2016-193 (1024x683).jpg
 テープの色の使い分けが林業のそれと異なっていたので(林業では伐採する物にだけテープを巻く、通常は赤テープ)、保存樹木がどれかは分からなかったのですが、後に聞いた話では相当数の古木が残る、という事でした。今回の記事を読むと、当初計画(2018年1月提出の環境影響評価書)では約2800本中766本を残すことが可能だったようです。樹木の伐採と建物の取り壊しは、その前年の2017年11月に完了しています。
 ところが、2018年2月に予定されていたイオンモールへの引き渡しが土壌汚染問題で同年の12月に伸び、イオンモールの開業予定も2019年秋から2020年度にずれ込みました。で、その時には保全された樹木は529本に減っていました。
 この引き渡しの1年後の2019年12月、イオンモールは改めて保存樹木の状態の調査を樹木医に依頼しました。店舗の外観予想や、工事計画立案の都合からだったと思います。この結果は芳しいものではありませんでした。多くの樹木に病害虫の被害や樹勢の衰えが見られ、倒木の恐れから40本ほどしか残せないことが分かったのです。
 記事では、建物を解体したことによる風向き、日当たり等の環境の変化が原因であろう、という推測を載せています。
   ・建物の解体と樹木の伐採がほぼ済んだ雨宮跡地
       2017年10月撮影

10月雨宮キャンパス-10_02_2017-292 (1024x768).jpg
   ・すっからかんになって寒風吹きすさぶ雨宮跡地
       2018年12月撮影

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 実は、この雨宮キャンパスの自然環境の保全に関しては仙台市民も強い関心を持っていました。勿論、私もそうです。我が家の話題にもよく上りました。
 イオンができるだけ元の環境を残すようにする、と表明した時、それはありがたいのだが、結構難しい事だし、大丈夫なのだろうか、という一抹の不安もありました。北山トンネルの工事や広瀬通の銀杏並木の件もありましたしね。雨宮キャンパスの木々は老木ばかりですし、一旦山へ移植し、養生しておいて、建物が出来てから植え戻すとかの方法をとらないと、元の環境に近い姿にはならないのではないか、と老婆心ながら心配していたのです。
 やっぱりでしたね。残念です。
 イオンでは、新しい樹木の植栽を加え、元の環境に近い姿に戻したい、と述べているようですので、それに期待したいと思います。

 ちなみに、この旧・雨宮キャンパスは歴史的な場所でもありまして、大正14年~昭和20年には旧制二高の校舎が置かれ、昭和22年~昭和28年には宮城県第一高等女学校→宮城県第一女子高等学校(現・宮城県宮城第一高等学校)が、仙台空襲で焼失した花京院校舎から移転していたりしました。それらの遺物・遺跡・記念碑なども多数残っていました。
   ・旧制二高創立百周年記念碑と記念植樹のウメモドキ
10月雨宮キャンパス-10_28_2016-037 (1024x683).jpg
   ・旧制二高の守衛所
5月雨宮-09_24_2013-007 (1024x576).jpg9月農学部-09_15_2016-118 (1024x683).jpg
   ・旧制二高時代の赤レンガ塀
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   ・宮城県第一女子高等学校跡地の碑
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 この他にも記念碑や旧跡は多数あったのですが、その一部はイオンモールになっても残るようです。






 もうひとつは、「元祖 炉ばた」が閉店する、というニュースです。
*河北新報2020年5月31日朝刊社会面
「炉端」閉店1-2_0001 (722x1024).jpg「炉端」閉店2-2_0001 (690x1024).jpg
 『「炉ばた」コロナ禍客足戻らず来月で幕』という見出しです。
 白抜きで『仙台・天江富弥創業 70年の歴史』というサブタイトルが入っています。

 記事本文にも簡単な説明が入っているのですが、何故一介の飲食店の閉店が新聞記事になるのかの説明が必要ですね。いくつかのキーワードを出してそれを説明してみようと思います。
 先ずは、見出しにもなっていた「元祖 炉ばた」についてです。

・「炉ばた」と「炉端焼き」の元祖
 「炉端焼き」という商形態は、店内に田舎家風の囲炉裏、「炉端」を設え、そこで調理した料理を客に提供する、という形態の大衆酒場です。その起源は昭和25年に天江富弥(あまえ とみや)が仙台市の元櫓丁(現・青葉区国分町2丁目)に開いた「郷土酒亭 炉ばた」でした。
 この後にも詳しく述べますが、初代店主の天江富弥は文芸活動や郷土史にも熱心で、そういう人たちが集う、サロンのような店を作りたかったのだそうです。そこから、囲炉裏の前に座った店主を囲むようにカウンターが造られ、店主との会話を楽しみながら酒を酌み交わす、という、「炉ばた」の形態が生まれました。
 ここでひとつ、店名が「炉端焼き」でなくて「炉ばた」であるのに注意してください。「焼き」が付かないのです。
 実際、この店では囲炉裏で魚や肉を焼くことはありません。これは現在もそうです。料理は調理室で作って出されます。店主が座っている囲炉裏ではお酒の燗だけをしています。店主や客同士との会話を楽しむ、というのがこの店の開店当初からのコンセプトだからです。

 で、囲炉裏で調理も行う「炉端焼き」は、この店で修業をした二番弟子の人が、昭和28年に釧路で開いた店が始まりです。なので、この店は「元祖・炉端焼き」の名乗りをしています。
 その後、昭和30年代終わりから昭和50年代にかけて、各地に似た形式の「炉端焼き」が広まり、客が各自で焼くセルフ方式の「炉端焼き」も出てきました。

 「炉端焼き」というと、徳利や料理を大きなしゃもじか櫂のようなヘラで客前に提供するのがトレードマークになっています。これの起源については面白い逸話が伝わっています。
 前述の天江富弥は民芸活動にも造詣のあるかたでしたので、「炉ばた」の店内にはこけし等の民芸品が飾られていました。
 ある時、常客のひとりが古道具屋から大きな木のヘラを購入して天江富弥にプレゼントしました。店内の装飾の一つに加えてもらえれば、と思ったからです。
 で、しばらくしてからその常客が「炉ばた」を訪れてみると、その木ベラは飾られていず、店主の天江は囲炉裏の前に座ったまま、件の木ベラを器用に使ってその客の前にお酒を出したのです。これにはその常客も驚くやら面白がるやら、居合わせた他の常連にも大うけで、以後このサービスはこの店の名物となったのでした。この名物の木ベラは、後に「掘返ベラ」と呼ばれるようになります。



・「炉ばた」の現在の店舗
 天江富弥が「炉ばた」を開いた時には元櫓丁(虎屋横丁を西へ1ブロック行った辺り)に在ったのですが、現在は稲荷小路のビルの1階に入っています。
7月稲荷小路-07_04_2017-016.JPG
 ビルの内なので店舗の写真はありません。写真の矢印の所から奥に入った先にあります。入り口近くの電柱に、「元祖 炉ばた 右奥(矢印)」という看板がありますので、それが目印になるでしょう。
 なお、直ぐ近くには、これまた「牛タン定食」の元祖の「太助」が在ります。上の写真で、右端に見切れているのが「太助」です。

 「炉ばた」は、何度か場所が変わり、支店があった時期もあるのですが、その支店を任されていた加藤さん夫妻が現在の「炉ばた」の店主です。



・天江富弥について
 天江富弥は、明治32(1899)年、八幡町の天賞酒造の三男として生まれました。実名は富蔵です。
 天江富弥を語る上では、まず、児童文学雑誌の「おてんとさん」は外せないでしょう。大正10年創刊の日本初の児童文学専門誌です。この雑誌は1年ほどで廃刊になるのですが、同時期に起こした「おてんとさん社」には多くの文化人が集い、後の「仙台児童クラブ」へと繋がり、仙台の児童文学の興隆に貢献します。

 天江富弥は、民芸運動にも熱心でした。「民芸運動」とは、日常生活の中で使われてきた雑器、日用品の中に「用の美」を見出し、それを「芸術」へと高めようとする運動です。日本民藝館の創設者である柳宗悦(やなぎ そうえつ/本名は”むねよし”)が有名ですね。
 天江は、昭和2年に「小芥子洞(こけしどう)」を文化横町に開き、従来杣人の手慰みでしかなかった「こけし」を世に広め、第一次こけしブームの火付け役となりました。

 天江富弥は、また郷土史家としても著名で、彼の博識に触れることは「炉ばた」に来店する客たちの目的の一つでもありました。彼は昭和59年に亡くなるのですが、彼の名や言説は、今でも郷土史関係の諸書籍に出てきます。




・天江富弥と交流があった文化人たち
 スズキヘキ(1899-1973 本名は鈴木栄吉)は、仙台生まれの童謡作家です。天江富弥と共に「おてんとさん社」を興した中心人物でもあります。カタカナ書の奇妙なペンネームなのですが、最初は「鈴木碧」と、漢字書きだったそうで、後に子供達にも読めるようにと、カタカナ書きに直したのだとか…
 天江富弥とスズキヘキは長く親しい付き合いだったそうで、たまに河北新報に載る「炉ばた」の広告には必ずスズキヘキの童謡が添えられています。
炉ばたやき広告.jpg

 これ、私、学生の頃に持っていたと思うのだが…
 「炉ばた」のマッチは、若くて無名だったころの棟方志功が描いたものだったのです。私は、中校生の時の美術の教師に唆されて(笑)、広告美術の勉強の為に喫茶店や商店のマッチを集めていました。小さな菓子箱3つ分ぐらいになったのですが、度重なる転居で散逸してしまいました。今残っていれば史料的価値もあったのに、と悔やんでいるのですが…

 だいぶ長くなってしまいましたので、天江富弥と交流があった他の文化人たちは以下に列記するのみにします。
 地元の人ですと、土井晩翠原阿佐緒
 竹久夢二は天江富弥からも援助を受けていたようですね。天江富弥は夢二のコレクターとして有名でした。
 他には野口雨情草野心平永六輔等の詩人、児童文学の山村暮鳥等とも親交がありました。「白蓮事件」で有名な歌人の柳原白蓮とも親交があったのにはびっくりしたのですが…、柳原白蓮は幽閉されるまでは東京を離れたことが無かった、という記憶でしたので。




・最後に、
 「炉ばた」開店のいきさつや、天江富弥については、「炉ばた」の常連客の有志が彼の言を纏めた「炉盞春秋編集委員会編『炉盞春秋(ろさんしゅんじゅう)』」に詳しく書かれています。宮城県図書館に収蔵されているようですので、ご覧になってみてください。



 天江富弥が店主をしていた「炉ばた」からは、代替わりをしてすでに別物になっている、というドライな見方も出来るのですが、やはり仙台の文化遺産ともいえる店です。無くなるのは惜しいです。記事の最後には『居抜きでの引き受け手を探している』とも書かれていますので、どなたかいらっしゃいませんでしょうかねぇ…

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この記事へのコメント

2020年06月04日 21:00
こんばんは。
恥ずかしながら,雨宮跡地のことも炉ばたも存じ上げませんでした。勝山館や附属中の近くの広大な空き地が何のためなのか通るたびに不思議でした。
炉ばたの話に出てくる人は錚々たる名前ですね。白蓮まででてくるとは。
私も仙台生活は長くなりますが,家と職場の往復だけで実は何も知らないようです。
2020年06月05日 08:58
ET先生、おはようございます。

 東北大学雨宮キャンパスの移転話は10年以上前から話題になっていました。譲渡先がなかなか決まらずにいて、イオンリテール(最終的にはイオンモール)が名乗りを上げたのが2014年か2015年だったと思います。
 実を言いますと、私は雨宮キャンパスにはなじみが薄かったのです。市電北仙台線をほとんど利用していなかったからです。この移転話を聞いてから雨宮キャンパスに通うようになり、記録を撮る様になりました。なので、5~6年分の写真しかありません。
 この雨宮キャンパスは、その立地条件から市民とも深いかかわりがありました。東北大学は敷地内の自由通行を許していましたので、ほとんど公園化していました。付近の住宅やマンションも、そうした環境込みの価値でした。
 なので、今回の移転・イオンモールの進出を、付近住民は深い関心を持って注視しています。今年末にはその概要が分かる様になるはずですので、その時には私のブログでもまた採り上げてみたいと思っています。
2020年06月05日 19:37
こんばんは!
みなと
2020年06月05日 19:52
間違えてあいさつしただけで
送信しました(/ω\)

河北新報2020年5月30日朝刊社会面の記事から
炉端に至るまでのいきさつや有名人の登場など
大変面白く読ませていただきました。
これだけの投稿記事を書くのに
調べたり写真を撮られたり 本や図書館に行かれたのでしょうね。

そういえば・・昔マッチの箱などを
亡弟は、集めていたのを懐かしく想いだしました。
2020年06月06日 08:42
みなとさん、おはようございます。

 今回の記事で使用した写真は、すべて私の写真ストックからのものです。折に触れて撮影しておいた写真を分類保存してあります。記事を書くのに使用した資料類(メモ書きの様なものですが)も保存資料を使いました。
 特に、この雨宮キャンパス移転の話は10年ほど前から出ていましたので、機会あるごとに写真を撮っていましたし、新聞記事なども集めていました。今回の記事はその一環です。
 なので、今回の記事は部屋を一歩も出ずに、4~5時間で書き上げています(笑)。
2020年06月06日 22:08
あきあかねさんへ・・
準備万端、用意周到、改めて恐れ入りました(#^.^#)
見習いたいですが。。無理でした~
2020年06月07日 08:24
みなとさん、
 どういたしまして。こちらこそ失礼いたしました。