「関山越え」の話をちょっと

 またまたお名前を出して恐縮なのですが、私が度々お邪魔して色々お教えを頂いているリアルET先生のブログ、「リアルETの英語学習 高校入試&TOEIC」のトップページの写真が、最近「第二広瀬川橋梁(熊ヶ根鉄橋)」に替わりました。つい、懐かしくてコメントを差し上げたのですが、今日はそれに因みまして「関山越え」の話を少ししてみたいと思います。
 (注:リアルET先生のブログトップの写真は更新されることがあります。こちらの記事にも「第二広瀬川橋梁(熊ヶ根鉄橋)」の写真がありますので、もしご覧になりたい方はこちらをどうぞ)





 「第二広瀬川橋梁(熊ヶ根鉄橋)」は、仙台と山形を結ぶ鉄道、「JR仙山線」の「陸前白沢駅」と「熊ヶ根駅」間にある鉄橋で、広瀬川本流の渓流部に架かっています。リアルET先生が撮影した地点は、それと並行するように走る国道48号線の「熊ヶ根橋」上でした。
 この「国道48号線」は仙台市と山形市を結ぶ国道なのですが、仙台側では「作並(さくなみ)街道」、山形側では「関山(せきやま)街道」と呼ばれています。
*勾当台公園前の「国道48号線元標」
5月勾当台公園-05_08_2014-103 (1024x576).jpg
 (この元標は、同時に国道45号線の元標でもあります)
*国道48号線、作並付近の山々
IMGP7490 (1024x576).jpg
 (この写真は6年前の古い写真です。この時は工事中で、交互通行になっていました。停車中の車内から撮影しています)

 私は30代の頃、オフロードバイクで旧道をトコトコ走ることに凝っていまして(笑)、宮城県内の峠という峠を走り回っていました。その内で唯一走破できなかった峠が、この「旧・関山越え」の峠だったのです。それほどこの「旧・関山越え」は難所でした。




 江戸時代、奥羽山脈を越えて仙台領と出羽国最上地方を結ぶ街道を、「最上街道」と総称していました。全部で七つありました。その内で最も利用されていたのは「山中七ヶ宿街道(羽州街道)」でしたが、仙台城下からはだいぶ遠回りでして、旅慣れた商人や小荷駄は笹谷街道を、特に急ぎのものは、道はだいぶ険しくなるのですが、秋保(あきゅう)を経由して二口峠を越える「二口越え最上街道」がよく利用されました。二口峠を越えれば程無く「山寺」で、山形城下は目と鼻の先でしたので、急坂の、曲がりくねった険しい峠道でしたが便利でした。
 今回のお話のメインである「関山越え最上街道」は、その「二口越え」よりもさらに険しく、馬車、荷車はおろか、牛馬でさえ越える事が出来ない峠でしたし、「二口越え」に比べれば路程も長かったので、あまり利用されない街道でした。ちなみに、この「関山越え」は、人が荷物を背負って、時には這うようにして越えた、と伝わっています。

 ちなみになのですが、、、
 江戸時代、仙台領の各街道の要所には伊達家の家来の重臣たちとその家臣たちが配置され、館を構えていました。これらは、その重要度・規模に応じて「城」、「要害」、「所」、「在所」と呼ばれ、「在所」以外は小城下町様の形態になっていました。これらは軍事拠点の意味もありまして、現代で言えば、自衛隊の駐屯地と行政の地方支所の役割を担っていました。
 で、この「作並街道」なのですが、そうした「城」、「要害」、「所」、「在所」というものが一切ありません。「作並街道」の街道筋の各村から上げられた「書上げ」をまとめた「安永風土記」には、『当村御一門様并に御大身歴々様の御在所御家中町等ござ無く候』と、書かれており、全くの無防備だったことが分かります。
 「関山越え」が、陣馬かなわぬ難所であり、そうした心配を全くしていなかった、という事だったのでしょう。





 この記事では、この作並・関山街道の「関山越え」を採り上げ、その時代変遷について書いてみようと思っているのですが、その前にまずは現代の作並街道・関山街道(国道48号線)についてざっと見ておこうと思います。下の地図の赤線が現在の国道48号線の経路になります。そして、件の「関山峠」は赤紫色の楕円で囲ったあたりです。
*国道48号線経路
   国土地理院平成22年修正20万分の1地勢図を使用

現代P・作並街道地形図_0001 (1024x722).jpg
 (参考として、「二口峠」に星印、「笹谷峠」に三角印を付けてあります)
 (ちなみに、ピンク色の太いぼかし線は仙台市の市境で、オレンジ色のぼかし線は山形県との県境です。トレビアなのですが、仙台市と山形市は県庁所在地の市が隣接する稀有な例です)

 だいぶ遠回りして山形市に着いていますね。東根市、天童市を経由しています。
 昭和43年11月に「新関山トンネル」が出来て、「笹谷峠」を通る高速道、「山形自動車道」が出来る平成3年までは、この国道48号線の関山越えはよく利用され、土日祝日には折立から八幡町辺りまでがぎっしりと渋滞するほどでした。しかし、現在はこの国道48号線の交通量は格段に減っています。
 仙台市中心部から山形市中心部へ車で行く場合、「山形自動車道」ならば30分位、「関山峠」経由の国道48号線ならば2時間ちょっとかかります。所要時間が大幅に違いますので、高速料金をけちるとか(笑)、景色を見ながらゆっくり走るのが好きとか、よっぽどの理由がないと、この48号線を使わなくなっているようです。





 さて、それではこの「関山越え」の歴史について述べてみようと思います。
 「関山越え」の歴史は、大きく分けると4つの時代に分けられます。ひとつ目は近世以前の「関山越え」、二つ目は江戸時代から明治初期にかけての「関山越え」、三つめは「関山隧道」が出来て以降、コースが変更になってからの「関山越え」、四つ目が「新・関山トンネル」が出来て以降、ふたたびコースが変更になって後、現代にいたるまでの「関山越え」です。
*各時代ごとの「関山越え」のコース
   「電子国土Web」を利用

P関山峠地形図_0001 (1024x722).jpg

1):第1期
 ひとつ目の「近世以前の関山越え」ですが、成立時代もコースも、資料不足で判然としません。平安時代成立の説もあるのですが、記録に残るのは戦国時代の天正年間のものです。したがって、そのコースも判然としないのですが、近世以前のコースが自然成立的なものであれば、第2期・「江戸時代の関山越え」とほぼ同じコースであったろう、という推測が出来ます。



2):第2期
 第2期「江戸時代の関山越え」ですが、高倉淳著「仙台領の街道」無明舎刊を参考に記入してみました。菅倉沢の南の尾根を伝うコースです。星印は仙台領側の境目番所、「坂下境目御番所」跡です。この番所の名は、この後でももう一度出てきますのでご記憶ください。
 三角印は「小屋原」という名の小字でして、当時は茶店があったそうです。この茶店は峰渡の難所の終わりを示していまして、ここでほっと一息ついたと言われています。坂下番所からこの小屋原までは、おおよそ1里半の道程でした。1里半と言えば、平坦路であれば、成人男性の足で1時間半の路程です。しかし、この道は起伏の激しい山中の峰渡の道でしたので、女子供には無理、成人男性でも3時間程度かかったのではないでしょうか。
 (ここでちょっと蘊蓄話を:
  関山峠の仙台藩の「御番所」は二つありました。ひとつ目は先ほど述べた「坂下境目御番所」で、ここには「御境目守」として百姓足軽2名が駐在していました。もうひとつは、作並宿に在った「作並御番所」で、検断と横目役の役人が配置されました。で、こうした御番所はただでは通行が出来ませんで、「作並御番所」では「御役代」として、役人一人当たり三文、「坂下境目御番所」でも三文支払って通してもらったのだそうです。体の良い賄賂といいますか、ま、「御境目守」などは、それが無ければ生活が出来なかったでしょうけど)

 私が30年ほど前に行った時には、この道はとっかかりは見つかったのですが、その先は短い獣道程度のトレイルしか分からず、時間も無かったので辿るのを諦めました。



3):第3期
 この「関山越え」が注目を集め、その改修がされ、利用度が増すのは明治に入って大分経った明治11年頃の事です。
 明治初期、開国をしたは良いが、欧米諸国に大きく出遅れていた日本は、富国強兵・殖産興業の政策を急ぎました。そして、”道の奥”であった東北の地でも交通網の整備が図られました。特に、当時「陸の孤島」であった日本海側と、中央政府や文化・産業の拠点がある太平洋側との交通網の整備は重要施策でした。そこで明治11年に発案されたのが「野蒜(のびる)築港」であり、山形・仙台間の道路の整備だったのです。
 (注:「野蒜築港」は、仙台湾に大型船が入る事が出来る新しい湊を築く、という計画でした。これについては面白い話もありますので、また別の機会にお話ししたいと思います)
 この山形・仙台間の道路の整備についてはいくつかの案が出ていました。「二口峠」か「関山峠」にトンネルを通す案、仙台の北の「軽井沢越え(現・国道347号線の鍋越峠の少し南あたり)を通す案などです。
 結局は、山形県知事の強い要望もあって、「関山峠」にトンネルを掘削して新道を作る案に決しました。ま、これには当時北前船でにぎわっていた酒田と、新しい大型港が出来るかもしれない仙台とを陸上路で結び、日本海側、太平洋側の産業振興に結び付けよう、という目論見が在ったのではないか、と私は思うのですが。

 ともあれ、そういう事で、明治13年から関山峠のトンネル掘削工事が始まりました。完成は明治15年です。このトンネル「関山隧道」は、平成21年に「近代化産業遺産」に指定されるのですが、現在は使用されていず、山の中で静かに眠っています。
 私が30年ほど前にバイクで目指したのは、この「関山隧道」でした。しかし、その時はすでに道が荒れていて、バイクでは入る事が出来ず、結局歩いて向かったのですが、それでも「坂下番所跡」を少し過ぎた所でがけ崩れ跡に出会ってしまい、「関山隧道」にはたどり着けませんでした。後に、当時行きつけだった”山屋さん(登山用具店)”で聞いた話では、山形側はマメに整備しているので入れるけど、仙台側は全然手が入っていないからねぇ、ということでした。ちなみに、先の「近代化産業遺産」の指定でも熱心だったのは山形県の方だったそうで、その後も「関山越え」のトレイルの整備は続いていたそうです。仙台側も、平成に入ってから(たしか、平成27,8年頃だったと思うのですが…)ハイキング道として整備したような話も聞いたのですが、現在はどうなのでしょう?

 この「関山隧道」には、私が中学生の頃から怪談話が付いています。私が高校生の頃まではこの「関山隧道」は現役でしたので、はるばる仙台の街中からこの場所まで自転車を飛ばして肝試しに行く悪ガキも居ました。
 たぶん、もっと昔からこの怪談話はあったはずなのですが、その怪談話が生まれる元となったのは、この「関山隧道」の掘削工事で起きた悲惨な事故でした。
 この事故は着工の一か月後の明治13年7月21日に起こっています。三浦良吉著「郷土史 仙台耳ぶくろ」宝文堂、昭和57年刊の「坂ノ下の惨事」の項からこの時の様子を抜き書きしてみます。
 『さし当ってトンネルの岩石爆破用の爆薬を東京に発注した。それから一か月後の七月二十一日、むし暑い夜であった。各自コモ包みの箱を背負った男女四十人余りの労働者が深緑の渓谷にそって関山街道を登って来た。東京から仙台に着いた爆薬の運搬である。多くは東根の村民で、中に秋保(あきゅう)や愛子(あやし)、作並の者もいた。一行は坂ノ下の番所跡にたどりついて休息した。
 当時、ダイナマイトや軍で使用した黄色火薬のような安全度の高い爆薬はまだなかった。この時のものは打ち上げ花火に使う引火しやすい危険な黒色の粉火薬で、タバコは厳禁されていた。その時、一人が禁を犯してタバコに火をつけた。包装が不完全で箱のスキ間から火薬粉が地面にこぼれていたのに気づかず、タバコの灰を落としたのが引火して、四十箱の爆薬全部が誘発し、一瞬山谷をゆるがす大爆音もろとも四十人は宙に吹き飛んだ。アッというひまもなく首も手足もバラバラに飛び散り、あたり一面、鮮血と肉片でさながらの地獄と化した。死者男十三人、女九人の合わせて二十二人、中に一人の妊婦の腹が破れて胎児が飛び出した。重症は男四人と女四人の八人、他は残らず負傷した』

 この悲惨な事故の犠牲者の霊を弔うため、事故現場の「坂下番所跡」に石柱が、旧東根村にあたる山形県側の東根市の「大滝ドライブイン」の一角に「関山新道開鑿殉難之碑」(大正15年建立)と説明板が設置されています。
 と、いうことで、我々悪ガキが騒いでいた怪談話は、この古い方の「関山隧道」に関しての事だったのですが、「新・関山トンネル」が出来てもこの怪談話は続きまして、作並温泉で客を乗せたタクシーの運転手が、言われるままに新・関山トンネルを抜けて東根まで来ると客が消えていた、だとか、いくつかの怪談話を聞いたものです。
 現在でも、「関山トンネル」や「関山隧道」で検索すると、『心霊スポット』とか、『幽霊』とか、『廃墟』とかがヒットします。

 なお、上の地図に記入しました「明治期の関山越え」の経路ですが、現在も地形図上に残るトレイルをなぞったものです。なので、実際の「明治期の関山越え」とは相違がある可能性があります。本来は旧版の地形図等で確認すべきだったのですが、このコロナ禍で旧版地形図を手に入れることが出来ませんでした。今後旧版地形図の取得が出来て、相違が見つかった場合は訂正記事を上げる予定でいます。






4):第4期
 明治15年に完成した「関山隧道」と新しい関山越えの道は、仙台・山形間の物流を大幅に増大させました。と、言いましても、当時の物流の主役は荷車や馬車です。現代のスケールで見れば、まだまだ微々たる量です。自動車は明治初期に日本に入ってはいましたが、高価でまだ台数は少なく、そもそも日本の地の峠越えが出来る自動車はまだ存在していませんでした。
 明治政府は、大量輸送が出来る鉄道網の整備を急いでいました。東北本線の仙台駅が出来るのが明治20年、奥羽本線の福島・山形間が開通するのが明治34年です。これにより、輸送力で鉄道に負ける関山越えの陸上輸送は次第に衰退して行きます。
 一応、自動車が普及し始めた昭和に入ってから、自動車の通行に合わせて「関山隧道」の拡幅が行われるのですが(昭和12年)、上の地図でも分かるように、曲がりくねった細道で、そもそも自動車の通行には不向きでした。
 また、同年11月には「仙山線」が全線開通しましたので、物資の輸送にはもっぱら鉄道が利用されるようになりました。

 戦後、昭和30年代になりますと、高度成長期となり物流量も増えましたし、好景気に押されてモータリゼーションも進行してきました。これにより、作並街道・関山街道は再び見直されるようになり、自動車の通行に合った新道の建設が模索されるようになりました。
 現在の「新・関山トンネル」の着工は昭和38年で、竣工は昭和43年です。

 その後は、昭和62年に「仙台西道路」の開通、平成5年に「愛子バイパス」の完成がありまして、国道48号線・「作並・関山街道」もずいぶん便利になったのですが、前段にも書きましたように、高速「山形自動車道」が「山形北IC」まで開通した平成3年以降は、国道48号線の交通量は目に見えて減って行きました。
 と、書きましたが、「作並・関山街道」が何時行ってもガラガラに空いている訳でもありません。一年の内のある時期だけは混むことがあります。それは「サクランボ狩り」のシーズンです。例年6月~7月の土日・祝日です。この時には、折立や八幡町、関山トンネル周辺で渋滞が発生することがよくあります。
 山形県東根市は「サクランボ狩り」のメッカでして、仙台人には良く知られています。東根市のサクランボ畑には、「山形道」を使っても、関山峠を通っても、ほぼ同じくらいの時間。むしろ、関山越えの方が早い事さえあります。この事は仙台人の間ではよく知られた事です。なので、この時期の国道48号線が渋滞するのですね。行きの時間帯はばらけますので、さほどではないのですが、帰りの時間帯は重なることが多いので、よく渋滞します。
 でも、今年はコロナ禍でどうなんだろう?

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この記事へのコメント

2020年05月16日 20:08
こんばんは!
文中の坂ノ下の惨事には、お気の毒で
身震いしました。こんなキツイお仕事の中に
妊婦さんがおられたとのこと。何故?と思いました。
労賃が高かったのか?運ぶ人が居なかったのか?
災害に逢われた方々のご冥福をお祈り申し上げます( ;∀;)

>私は30代の頃、オフロードバイクで旧道を
 トコトコ走ることに凝っていまして・・・

興味のあることには、突き進むお若い時の
あきあかねさんの勇姿を想像しました👏
2020年05月16日 22:43
こんばんは。
私のブログまで紹介していただきありがとうございます。
関山峠の歴史がよくわかりました。山形にはやはり笹谷を通ることが多いのですが,サクランボやジャングルジャングルへのスキー,大石田へのそばなどけっこう関山峠を通ります。
でも昔から不思議なことがあって,作並を過ぎてから関山までの間で,上っているのか下っているのかわからなくなるところがあります。おそらく上っているのだろうけど,どうしても下っているとしか考えられない部分があるんです。
また,ナニコレ珍百景というテレビ番組で以前紹介されていたのですが,あるカーナビでは関山トンネル内で「関山の幽霊」という文字が表示されるそうです。番組では軽くしか扱ってなかったと思うのですが,私は大事故のことは知らなかったので,今回ゾーっとしました。
私のトップページの写真は土日は残しておこうと思います。
2020年05月17日 08:57
みなとさん、おはようございます。

 土方やに運びなどの重労働に女性ばかりか妊婦さんまで混じっていた事についてですが、、、
 たぶんこの質問は何方からかあるのではないか、と思っていたのですが、みなとさんからでしたね(笑)。複数の事柄が重合していますので、説明が難しいのですが…

 先ずは妊婦さんの件ですが、昔は産み月近くまで働くという事はよくありました。かえって丈夫な子が生まれる、などと奨励されたほどです。特に農村部では嫁は大事な労働力でしたので。要は、「ただ飯喰わせているわけにはいかんめぇ」と、いう事です。
 もうひとつ、女性が重労働に就いていた件ですが、その理由は時代によって違っていますが、昭和30年代の初めごろまではよくあった事です。美輪明宏さんの「よいとまけの歌」に出て来ますよね。ただ、このお話の明治初め頃についてはこの歌とは違った事情で土方作業に出ていました。
 江戸時代、農民は年貢を徴収されるほかに、お上から命じられれば労役に出なければならない義務がありました。これは村の長に対して「この村からは何人」と言った風に命じられ、村長はそれを大百姓に割り振ります。大百姓は、手飼いの小作からその人数をピックアップして供出していました。
 こうした仕組みはまだ明治初期には残っていまして、こうした公共工事には近隣の村から労働者の供出があった訳です。そうした”命令”があった場合、山里の農村では、男たちは農作業や山仕事から手を離せないこともあるわけで、代わりに女たちが出てくる、という事なのです。
 現代の我々からは想像しにくい事ですので、もっと詳しく説明しなければならないのですが、古い朝ドラの「おしん」の情景を思い浮かべていただければ、と思います。
2020年05月17日 09:14
ET先生、おはようございます。

 「作並を過ぎてから関山までの間で,上っているのか下っているのかわからなくなる」と、いう事、私も同様に感じたことがありました。
 思うにですが、広瀬川の源流部に沿って峠に近づくにつれ、道の両脇の山々の稜線がだんだん高くなり、深い谷になって行きますよね。これがそうした錯覚を起こさせるのではないのか、と思うのです。あのパントマイムの、「エスカレーター」みたいな原理です。

 関山トンネルの幽霊、現代でもまだ生きているんですね(笑)。