花村勾当の屋敷(その3)

 前回に引き続き、花村勾当の後に住んだ人について考察します。今回は「仙台地名考」に出ていた「泉田出雲」という人物についてです。






*花村勾当夫妻の墓があった、と推測される場所
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 「仙台地名考」の記述を基に、花村勾当夫妻の墓があったと思われる場所の写真を撮りました。写真右側の建物は、「県議会庁舎」です。
 その場所には石碑が建っていて、「まさか!」と、思ったのですが、この石碑は、残念ながら花村勾当に関連するものではありませんでした。この石碑は、宝暦11年(1761年)から明治4年(1871年)までこの地に在った藩校「養賢堂」を記念する石碑で、昭和43年5月10日に建てられたものです。
 家に帰ってからこの場所を地形図や城下絵図等で確認したのですが、ここは花村勾当屋敷の敷地ではなく、その境界近くとは言え、定禅寺の敷地内であるようです。






 菊池勝之助著「仙台地名考」に、『…後は泉田出雲という侍の屋敷となり、…』と、書かれた「泉田出雲」という人物ですが、調べに入る前から、これは難航しそうだな、という予感がありました。と、言いますのも、この「出雲」という名は「百官名(ひゃっかんな)(注1)でして、いわゆる「通名(とおりな)」、「仮名(けみょう)」の類で、実名ではないんです。同じ「百官名」を別の人が使うこともありますし、子にその「百官名」を譲って、ある時期からは別の「百官名」を使い出すこともあります。実名が併記されていないと個人を特定するのが厄介な代物です。

 と、いう事を心に留めた上で「仙台藩家臣録」と「伊達世臣家譜」で「泉田家」を調べてみます。
*「仙台藩家臣録」の「泉田采女」の項
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 泉田家の「采女(うねめ)」と言う人物が、延宝七年三月二十四日に藩に提出した”書上げ”です。花村勾当が亡くなった明歴二年からは23年後、寛文四年の絵地図の8年後になります。
 采女の曽祖父は泉田出羽と言い、115貫300文(1153石)で貞山公(政宗)に仕えていた、と書いてあります。その後、新田開発や分家への分地で、采女の代での知行高は141貫447文(1414石4斗7升)でした。
 采女の父木工(もく)は、延宝三年閏四月十二日に病死しているのですが、跡目相続は、延宝三年八月十九日に行われています。と、言う事は、寛文四年の絵地図の頃の泉田家の主人は、采女の父の木工か、それともその前か、という事になりそうです。
 さて、この書上げの中に「出羽」という百官名の人物は二名出てきます。祖父と曽祖父です。しかし、「出雲」という百官名は出てきません。采女の父の「木工」が「出雲」でもあるのでしょうか?泉田家の系譜をもう少し詳しく調べる必要があります。


*「伊達世臣家譜」の「泉田家」の項
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 この「伊達世臣家譜」には、かなり詳しい系譜が書かれています。順を追ってそれを書き抜いてみます。
 『姓は藤原』というのは、大抵の武士の系譜の冒頭に書かれ言葉で、事実であっても無くても、こう書かれていることがほとんどですので、無視します。
 始祖は不明、つまり、名字(氏)の起こりは伝わっていないそうです。「伊達世臣家譜」に書かれた泉田家の最古の人は、性山公(第16代伊達家当主、輝宗、政宗の父)に仕えた「式部大輔景時(しきぶだいすけかげとき)」です。この人は、最初「太郎」(注2)と名乗っていました。(原文では「郎」となっていますが、誤植だとおもわれます。)
 景時の長男「一郎光時」は、天正十年相馬の役で戦死したため、次男の「安芸守重光」が後を継ぎます。この人の初名は「助太郎」でした。この「安芸守重光」は貞山公(政宗)に仕え、「一家」の家格に列せられて名取郡岩沼城八千石を賜っています。
 文禄の役(秀吉の朝鮮攻めの事)の後の文禄4年(1595年)、政宗公は秀吉に謀反の疑いをかけられます(関白秀次が切腹した事件に連座。政宗は秀次の後見人だった。)
 この時期に、『不知何故減其田禄』と「伊達世臣家譜」も書いているように、「安芸守重光」の知行地は、唐突に磐井郡東山薄衣村1153石に減封されました。
 この「安芸守重光」には子が無く、亘(わたり)美濃守重宗の次男(三男の説もあり)を養子に迎えて家督を継がせます。この人の名は「出羽(孫平次)重時」と言い、この人も貞山公に仕え、大坂の陣に参陣しています。
 義山公の代に代わって、寛永十九年(1642年)、「出羽重時」は『属経界之事』つまり、政務の重職に就いた、ということですが、それによって禄を1383石に加増されました。この知行地の一部(569石5斗8升)は分家へ分けられています。

 「出羽重時」の後嗣ですが、「出羽(刑部)元時」と言います。幼名は「源三郎」でした。
 「出羽元時」は、承応二年(1653年)九月、「江戸留守大番頭(えどるすおおばんがしら)」に任じられて、禄高は1322石7斗になりました。
 (ここが重要なところでして、つまり、花村勾当が死去して勾当屋敷が空き家となった明暦二年(1656年)頃、泉田家の当主「出羽元時」は江戸定詰だった、という事になります。少なくとも、花村勾当が亡くなった後に、直ぐに勾当屋敷に入ることはできなかったはずです。)


 「出羽元時」の後嗣は、「木工(出羽)重時、幼名:源三郎」です。「仙台藩家臣録」を見た時に「寛文四年の絵地図の頃の泉田家の当主はこの人ではないか」と、書いた「泉田木工」がこの人です。
 この人は、肯山公(第4代藩主綱村)の代の寛文十三年(1673年)五月(この年の九月二十九日に「天和」に改元になっています)に「大番頭(おおばんがしら)に任じられています。
 その子が「仙台藩家臣録」の書上げの本人の「采女虎時」です。天和二年には江戸で政務を執っており、家禄に役料が加わり、1414石4斗7升となっていました。

 ここまでの所、「泉田出雲」という名前が出てきません。『…後は泉田出雲という侍の屋敷となり、…』と言う時代からは離れてしまうのですが、百官名に留意しながら後嗣を追ってみます。
 「采女虎時」
    ・
 「木工定時」(幼名:竹之助)
    ・
 「要人(安芸、佐渡、采女)胤時」(幼名:此面)、
  延享三年(1746年)「申次(もうしつぎ/藩主の秘書のような役職)
  寛延三年(1750年)「大番頭」
  明和三年(1766年)「若老(わかどしより)
   同 四年(1767年)「奉行(他家の家老にあたる)
    ・
 「勇之進倫時

 「伊達世臣家譜」に書かれていたのはここまででした。予想はしていたのですが、「泉田出雲」の名前が出てきません。
 「伊達世臣家譜」には続巻がありまして、その後に分かった事等が補追されています。その「伊達世臣家譜 続巻」も調べてみます。
*「伊達世臣家譜 続巻」、「泉田家」の項
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 ありました!「出雲」の名が出ています。
 『泉田要人(前の譜に言う、初め「此面」と称す。中に改めて「安芸」、又「出雲」、又「佐渡」、又「采女」)胤時、明和六年奉行の職を免じ、…』
と、あります。泉田要人胤時が「泉田出雲」であるようです。
 しかし、『明和六年奉行の職を免じ』と、あるように、「泉田要人」は18世紀中頃の人です(明和六年は西暦1769年)。花村勾当が死去した明暦二年(1656年)とは100年ほどの差があります。

 「泉田家」が「一家」の家格であり、千石以上の家禄であること、「泉田出雲」が花村勾当の死去の100年ほど後の人であること、等から、「仙台地名考」の記述、『…後は泉田出雲という侍の屋敷となり、…』というのは誤りであることが濃厚です。



 念のために裏を取ってみます。寛文四年の「仙台城下絵図」で「泉田家」の屋敷を特定してみます。
 「泉田家」は、「一家」の家格で千石以上の家禄、「奉行」の要職にも就く上級家臣ですので、こう言う上級家臣が仙台屋敷を構えるエリア、仙台城近くの広瀬川河畔(いわゆる「片平小路」・「大名小路」)を重点的に探します。
*寛文四年「仙台城下絵図」、現・西公園付近
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 現在の「仙台市民会館」辺りに「泉田刑部」の文字を見つけました(赤い線で囲っておきました)。

 「泉田刑部」というと、「出羽元時」の事ですね。承応二年に「江戸留守大番頭」であった人で、「泉田木工」の父親です。江戸定詰から戻って、此処に仙台屋敷を構えたようです。
 この後の時代、延宝九年/天和元年(1681年)の絵地図では同じ場所に「泉田采女」の名が記されています。「采女虎時」の事です。
 「泉田家」の仙台屋敷が勾当台と異なる場所に確認できることから、「仙台地名考」の『…後は泉田出雲という侍の屋敷となり、…』という記述が誤りであることは、ほぼ確実となりました。
 と、言う事は、花村勾当の後に住んだ侍は、前回考察した「菅生弥左衛門」でよさそうです。
 






(注1)「百官名」
 藩祖政宗公が江戸城に上った場合、「だてむつのかみ(伊達陸奥守)どの~」と言う名乗りがされます。この時の「陸奥守」とは、朝廷から正式に補任された受領名・官職なのですが、これとは別に武士の間で勝手にこの受領官名・官職名を通称として名乗ること(私称)が室町時代頃から増えてゆきました。これを「百官名」と言います。

 その背景には、実名で呼ぶこと、呼ばれることを憚る、と言う習俗「実名敬避俗」が有りました。
 実名の事を別に「諱(いみな)」とも言います。「忌み名」の意味です。当人を実名で呼ぶことは、呼んだ本人がその人を手中に捕まえることを意味していました。なので、実名で呼ぶのは親が子に対してのみであり、他人がその人を実名で呼ぶのは呪術を行う時でした。つまり、呪い殺そうとする時です。

 余談ですが、この「実名敬避俗」、今でも結構あるんじゃないですかねぇ。飲み屋さんで、「社長~!」とか、「大将~!」とか呼び合うのって、これじゃないのかなあ…

 「百官名」のいくつかを例に挙げておきます。
 「太政官名」
 中務(なかつかさ)、監物(けんもつ)、図書(ずしょ)、治部(じぶ)、内匠(たくみ)、主計(かずえ)、刑部(ぎょうぶ)、木工(もく)、采女(うねめ)、等々
 「国司」
 陸奥(むつ)、出羽(でわ)、和泉(いずみ)、甲斐(かい)、伯耆(ほうき)、但馬(たじま)、美作(みまさか)、伊豆(いず)、等々
 「令外官(りょうげかん)」
 修理(しゅり)、勘解由(かげゆ)、等々

 この「百官名」ですが、後には実名となるものも数多く出てきます。つい最近まで使われていた例もありますね。




(注2)「太郎」
 これも、武家によくある「仮名(けみょう)」です。
 武家に男子がある場合、家督相続の順位順に「太郎」、「次郎」、「三郎」と、言うような仮名・通名で呼ばれることがよくあります。これは、その家のしきたりによって若干違う場合もあり、惣領に「次郎」の仮名をつける例もしばしば見うけられます。
 一般には、家督を継いだ後にはこの仮名を捨てて、別の通名にすることが多いです。
 ちなみに、伊達政宗の幼名は「梵天丸(ぼんてんまる)」でしたが、元服後に「藤次郎(とうじろう)」の仮名を名乗っています。




<後書き>
 花村勾当の前の住人、もしくは花村勾当が寄宿していたかもしれない住人の名前も分かってきました。現在、そのことについて調査中です。
 調査の内容が発表できるまでになりましたら、ご報告しようと思います。近日中にご報告できるとよいのですが…

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この記事へのコメント

2018年05月25日 06:18
おはようございます。
力作,お疲れ様です。
途中の「文禄の役(秀吉の朝鮮攻めの事)の後の文禄4年(1595年)、政宗公は秀吉に謀反の疑いをかけられます(関白秀次が切腹した事件に連座。正宗は秀次の後見人だった。)。」
「正宗は秀次の後見人」の「正宗」は「政宗」のこと?
2018年05月25日 08:46
おはようございます。

 変換の第一候補に出てくるので注意はしていたのですが…
 「やってもうた!」
 ご指摘ありがとうございます。訂正いたします。

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