花村勾当の屋敷(その2)

 前回の話で、花村勾当の屋敷は現在の県庁舎西角辺りにあって、明歴二年(1656年)頃にそこで亡くなったことが分かりました。今回は、その屋敷についてもう少し詳しく調べてみることにします。





*県庁舎前庭
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 (この写真は、ちょうど、旧・定禅寺の敷地から花村勾当屋敷の裏庭を覗くようなアングルになります。)






 武家屋敷の住人の名前を調べたり、逆に、ある名前の武士が何処に住んでいたかを調べるには、江戸の町であれば「切絵図」が使えます。同様に、仙台城下であれば仙台藩が内政用に作成した「城下絵図」(武家屋敷を管理する「屋敷奉行」も使用していました)がその目的に適しています。この「城下絵図」には、100石以上の武士に限るのですが、屋敷の主(あるじ)の名前が記入されています。
 しかし、残念なことに、武家屋敷に名前が記された最古の「城下絵図」は寛文四年(1664年)の物でして、明暦二年頃に亡くなったと言う花村勾当の名前を、直接見ることができません。
 でも、明暦二年と、寛文四年との間は4年の期間です。さほど長い年月ではありませんので、「仙臺鹿の子」に『その後侍屋敷となる。』と書かれた、花村勾当の後の住人の名前は分かりそうです。


 そこで、寛文四年「仙台城下絵図」/仙台街あるきシリーズ・風の時編集部刊から、「仙臺鹿の子」の記述、『堤通り一番丁指當に屋敷あり』付近をコピーして下に示します。
*寛文四年「仙台城下絵図」、堤通・北一番丁付近
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 堤通が北一番丁に突き当たる所に侍屋敷が書かれています。赤い線で囲ってみました。
 此処に書かれた名前を解読してみますと、「菅生弥左衛門(すごう やざえもん)」と読めました。この人が花村勾当の後に住んだ侍のようなのですが…

 ちょっと、前回の「仙台地名考」の「勾当台通」の項の記述を思い出していただきたいのですが…
175ページ5行目頭から6行目にかけて、
 『花村勾当はそれ以来勾当台の地に明暦二年頃(1656)まで住居していたが、後は泉田出雲という侍の屋敷となり、-以後略ー』
と、書かれていました。「仙台地名考」では、後に住んだ人の名を「泉田出雲」としています
 相違がありますねぇ。この二人の事をもう少し深く調べて、どちらが正しいのかを確認する必要があります。



 こういう時に私が利用する史料は、「伊達世臣家譜」や「仙台藩家臣録」です。

 「伊達世臣家譜」は、仙台藩の百石以上の全藩士の由来や系譜、石高等を纏め上げた物です。藩主の命により田辺希文・希元・希績の三代が編纂にあたりました。安永・明和年間までのものが纏め上げられています。
 私が利用するものは活字に翻刻したもので、「仙台叢書続刊」に収められています。
 同様の文書(もんじょ)は他藩でも作成されており、「分限帳(ぶんげんちょう)」とか、「家臣録」とか言うような名称で呼ばれています。

 「仙台藩家臣録」は、十石以上の武士達の名前と知行高、”先祖以来拝領の由緒”について書かれたものです。
 仙台藩は、延宝四年(1676年)から三年四ヶ月をかけて、「一門一家」を筆頭に、「在々に被指置御番外衆(ざいざいにさしおかるるおばんがいしゅう)」に至るまでの十石以上の武士たちに、”先祖以来拝領の由緒”を書き出させ、それを「御知行被下置御帳(おんちぎょうくだしおかるるのおんちょう)」に纏めました。この「仙台藩家臣録」は、その活字版です。



 さて、それでは「菅生弥左衛門」から調べてみます。
*「仙台藩家臣録」、「菅生弥左衛門」の項
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 菅生弥左衛門本人がこの”書上げ”を書いています。
 この「仙台藩家臣録」(御知行被下置御帳)は、いわば”自己申告”であり、一貫性に乏しく、冗長や欠落があったりします。なので、下の「伊達世臣家譜」と突き合わせ、「菅生弥左衛門」を中心に要点を書き出そうと思います。

*「伊達世臣家譜」、「菅生家」の項
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 菅生家の祖は「菅生伯耆某(なにがし)」と言い、下野の国主「小山下野守高朝(たかとも)」の家臣だったのですが、永禄五年(1562年)上杉謙信によって小山城が落城したことから小山家を離れ、柴田郡菅生の地に移って「菅生氏」を興します。
 菅生家が伊達家臣団に加わったのはこの菅生伯耆の子、「興作某」の時なのですが、その子「助八郎」、孫「助六郎某」、それぞれに戦勲が有り、菅生の地100石余りが安堵されます。
 後に知行地は栗原郡一迫刈敷村(いちはさま かしきむら)に代わり、新田開発や分家への分地などがあって、菅生弥左衛門の頃の知行高は300石となっていました。
 
 菅生弥左衛門は婿養子だったようです。養父助六郎は慶安元年六月二日に病死したのですが、後を継ぐべき男子がな無く、女子だけだった為に、常州筑波の鹿島神宮の神主「中島氏」から婿養子に入った、と書かれています。元の名は「市十郎」でした。菅生家に入り、「弥左衛門定朝」と名を改めています。因みに、「伊達世臣家譜」では『左衛門定朝』と書かれていますが、これは誤植だと思われます。
 弥左衛門の初出仕は寛永八年(1631年)のことで、義山公(第二代藩主忠宗)に仕え、「取次番」の役職に就いています。たぶん、この時は江戸定詰だったのではないか、と推量されます。
 弥左衛門は、その後「武頭(ぶがしら)」を務めたのちに隠居しています。勾当台に屋敷を構えるのは、この武頭の役に付いた頃からだと思われます。



 仙台藩には「仙台惣屋敷定(せんだいそうやしきさだめ)」と言いまして、身分・禄高に応じた屋敷の広さの規定があります。1000石以上は、この規定に無いのですが、禄高が300石以上、500石未満ですと、25間×30間。150石以上、300石未満ですと、17間×30間です。
 菅生弥左衛門の知行高は300石ですので、25間×30間を1万分の1のスケールに直した寸法に切った紙を1万分の1の地形図に貼ってみました。
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 これを寛文四年の城下絵図と比べてみたのですが…、どうもしっくりきません。もう少し間口が狭く、奥行きは長いようです。
 おそらくこんな感じだったのではないでしょうか。
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 赤紫の線が推定の屋敷地です。三方向の隣地と、300石~500石の屋敷地の面積(750坪)を勘案して書いてみました。
 既定の区画になっていないのは、地形や勾当台に並ぶ寺々の影響からではないかと思います。




 <長くなりましたので、「泉田出雲」の事については次回に回します。>

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