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zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その8)

<<   作成日時 : 2017/08/19 13:37   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 2

 前回までに述べたことは仙台開府初期(1602〜1625年)の事でした。この時代の仙台城と仙台城下町の機能はまだまだ戦国時代の時風を色濃く反映しており、多分に戦時を想定した造りになっていました。
 政治・経済を重視した近世の仙台城下の町造りは若林(注1)城の造営とその城下町建設を機にして始まります。江戸幕府が「仙台屋敷構(せんだいやしきがまえ/若林城造営の事)」を許可したのは寛永4(1627)年の事になります。





 この「若林城址」がある一帯を、若林城が廃城となった頃から「古城(ふるじろ)」と呼んでいました。この地名は現在にも引き継がれています。
*古城(ふるじろ/若林城跡)
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 現・宮城刑務所の北面です。今も残る高いレンガ塀は明治期の「宮城集治監(みやぎしゅうちかん)」を彷彿とさせます。
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 正門。1965年に大幅改修が始まり、1973年には「六角大学(注2)の異名の元となった監視塔は無くなりました。1922年に「宮城刑務所」の名称に改名し、現在は「仙台拘置支所」も併設されています。
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 若林城址の西、若林城の大手筋にあたる場所が「行人塚」(注3)です。
 そしてこの写真は、仙台貨物鉄道の「行人塚(ぎょうにんづか)踏切」近くのコミュニティーセンター前に建てられている「古城/行人塚」の道標です。







3)若林城と若林城下の時代(1627年〜1636年、寛永4年〜寛永13年)
 @若林城の建設のいきさつ

 ご存知のように、仙台城本丸は青葉山の頂上付近に建てられていました。大手門跡と本丸跡との標高差は50m余り有り、その道程も700m程になります。三の丸跡から直登する近道もあるのですが、いずれにしろ15〜30分はかかります。角度の急な上り坂でもあり、私のような年寄りですと、途中二度、三度と一休みすることになります。若い方でも「もう〜、バスにすりゃよかった!」と音(ね)を上げます。
 この様に、防御機能としては申し分ないのですが、普段の生活や政務を執るには不便な本丸御殿でした。事実、この本丸御殿は式典時以外は使われることが無く、藩主の普段の生活や政務には対岸の「御仮屋」、後に「花壇屋敷(かだんやしき)」(注4)と呼ばれる屋敷が使われました。また、二代藩主忠宗の代になると、「二の丸御殿」が造られ(1638、9年)、以後の藩主の生活や政務はそちらで行われるようになります。
   ・大橋から眺めた「花壇地区」
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 足元を流れるのが広瀬川で、下流方向の眺めになります。この写真は冬場(12月)に撮ったものなので、水量はかなり少ないですね。広瀬川は、ここから右へと大きく曲がり、さらに左へ屈曲し、写真奥のがけ下を流れてゆきます。その屈曲によってできた半島状の岸が「花壇地区」です。写真中段を左から右へと突き出しています。
 ちなみに、写真奥の丘陵は、左が「経ヶ峰」、右は「青葉山」、写真中央奥の建物が建ち並んでいる辺りは「八木山」です。「青葉山」と「経ヶ峰」の間には「竜ノ口渓谷(たつのくちけいこく)」が在り、広瀬川へと流れ込んでいます。


 この「花壇屋敷」は仙台城本丸御殿の造営が成る前から使われたようで、史料上、最後に政宗が花壇屋敷を使った記述は寛永4年の事になります。「貞山公治家記録」の寛永4年12月13日の項に、花壇屋敷から江戸表へ出発した旨が記載されています。
 寛永5年11月には「若林城」が完成するので、伊達政宗の仙台での政務は、以後こちらで執られることとなります。

 さて、ここで疑問を持たれる方がお出になるでしょうね、きっと。
 『仙台城近くに「花壇屋敷」という便利な邸宅がありながら、なんで城下外れに新たな”城”を造らなければならなかったんだ?』
と、

 江戸幕府への届けは、『別業の地を撰み莵裘(ときゅう)の第とせんと存じて…』ということでした。「莵裘」とは、魯の隠公が隠棲の地と定めた所の地名で、そこから転じて公の職を辞して隠居することを「莵裘(ときゅう)」と言うようになりました。つまり、伊達政宗は隠居所として「若林城」を造りたい、と幕府に願い出たわけなのです。
 しかし、伊達政宗は生涯隠居することはなく、病を押して向かった江戸屋敷で臨終を迎えた際も、屋敷の壁に背を当てて座したまま亡くなった、と伝えられています。生涯現役だったのです。
 領内経営の政務を執る場所ではなく、優雅に隠居生活を送る場所でもない。では、「若林城」の用途は何だったのでしょう。その謎を解くカギは当時の政宗と嗣子忠宗に贈られた官位にあると思われます。伊達政宗は寛永3(1626)年8月に外様大名としては最高位の「権中納言」に任ぜられています。いわゆる、”黄門様”で、”天下の副将軍”(注:「副将軍」という役職名は実際には存在しません。ま、そのようなお立場、という形容詞的な言葉です。)です。同時に、忠宗に対しては「右近衛権少将」の官位が贈られています。十分に一国の主としての名分です。
 そして、以下は私の推測になるのですが、
 徳川家康は元和2(1616)年4月17日に崩御しました。臨終の床には政宗も呼ばれ、二代将軍秀忠とまだ若かった家光の後見の役とこれからの幕府の事を託されます。
 これらの事を鑑みますと、仙台領の政務はあらかた二代藩主忠宗に任せ、政宗は将軍を補佐して国政を見る立場に就いたのではないか、と思うのです。「若林城」は政宗が参勤交代で仙台領に戻った時の”政庁”の役割だったのでは、と思います。
 それが証拠には、と言いますか、まだ家督が譲られていなかった忠宗も、政宗と入れ替わりの交代で江戸表へ参勤交代しています。また、政宗死去後の「若林城」内の屋敷は破却され、以後は薬草園や倉庫としての役目だけとなっています。政宗一代限りの「若林城」だったのです。





 A若林城下の範囲と傾き
 地誌や近年の発掘調査から推測される若林城下のおおよその範囲は以下の地図のようになります。
*図1)若林城下の範囲
     仙台市史近世1 p111図74を参考に作図
     使用した地形図は、国土地理院5万分の1「仙台」平成14年6月1日発行

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 「若林城」というのは仙台領内、領民の間での一般的な呼称で、伊達政宗が公の場で呼ぶときには「仙台屋敷」、家臣が対外的に呼称するときには「若林屋敷」とか「若林館」、家臣間での呼称は「若林御屋形」となります。また、この「若林御屋形」という名は、家臣が晩年の政宗を指して使う呼び名でもありました。

 すでに何度かお話ししましたように、「東街道(あずまかいどう)」に沿った国分寺跡から南小泉にかけては中世国分氏の城館跡や町場がありました。若林城や若林城下もそれを利用したものと思います。
 平成16年の第四次発掘調査、平成17年の第五次発掘調査において若林城の礎石建物跡等の遺構が確認されました。それに拠りますと、この礎石建物跡は堀・土塁のラインと平行・直交しており、明確な基準線を基にしていることが分かりました。そしてこの基準線の真北からの傾きは東偏約11度でした。これは若林城下の基準線とも合致し、付近を通る「東街道」の傾きとも近似です。上図(図1)でお確かめください。濃い青緑の線が「若林城」、薄い青緑の線が推定「若林城下」の範囲、青の線が「東街道」です。
 この若林城下の基準軸は、仙台城下の基準軸(芭蕉の辻付近の奥州街道)との間に約25度の”ズレ”を生じることとなりました。結果、東西に二つの街並みを持つ形態となったわけです。




 B若林城下の建設
 寛政4(1627)年頃から始まった若林城下の町造りですが、先ずは江戸街道(奥州街道)の付け替えから始まりました。
 開府初期の江戸街道は、芭蕉の辻を始点として、「南町」、「柳町」、「北目町」、「田町」と南下し、「土樋(つちとい)」に出て「宮沢渡戸(みやざわわたど/みやざわのわたど」(注5)で広瀬川を渡る、という道順でした。
 若林城下建設にあたって、この江戸街道の南半分を若林城に近づけ、若林城の基準線に合わせるように付け替えました。すなわち、「田町」の南端から東に折れ、大町南にあった「荒町」(注6)をここに移転させ、新たに「南鍛冶町」(注7)、「穀町(こくちょう)」(注8)、「南材木町」(注9)、「河原町」(注10)の町筋が出来たのです。
*図2)若林城下の町割
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 黄色は商人”町”、山吹色は職人町、薄い青は下級家臣の町で、ベタ塗りにした所が新たに造られた街です。開府初期にすでに切り出されていたところは枠線のみにしてあります。ただし、上・中級武士の武家屋敷は記録が残ってない為に推定範囲を赤紫の線で囲ってあります。

 結果、若林城の正面(西面)を、「江戸街道」、「東街道」、新・旧二本の街道が若林城の大手筋と直交して通るようになりました。
 そして、これら若林城下の町々の行政・司法は新たに置かれた「若林奉行」が担うことになりました。

 若林城を囲む一帯には上・中級武士の居住区も造られました。これらは「若林屋敷」と呼ばれました。過去に行われた発掘調査は、この武家屋敷に関しては一部だけで、その居住区の範囲についてはまだ推測の域を出ません。「図2」では赤紫の線で囲ってみましたが、これは推定の範囲です。
 この居住区に屋敷を持った上・中級武士は、そのほとんどが仙台城下にも「仙台屋敷」を持っていましたので、知行地、仙台城下、若林城下と3ヶ所に屋敷が在ったことになります。場合によっては知行地内に「下屋敷」、江戸城下に「江戸屋敷」を持つ者もあったはずです。維持費は大変だったろうなぁ…
 これらの武家屋敷は、寛永13(1636)年に政宗が死去し、若林城が廃城となると同時に取り払われます。跡地は仙台城下の外となり、一部は畑地に、残りは荒れ地となりました。




 C若林城下の役割
 若林城の建設は、仙台城下建設計画の中では時代のニーズに合わせた付帯工事、いわば想定外のことだったかもしれません。
 しかし、仙台城下の東部、南部の穀倉地帯からの物流とその拠点造りは当初からの計画に入っていたはずです。若林城下はその役割を果たしていました。若林城下「河原町」には早くから「やっちゃば(青物市場)」が置かれましたし、「舟丁」には城下南部からの舟運の拠点が造られました。
 また、今は”町”としての形態は見られなくなっているのですが、遠見塚古墳近くには南小泉一帯の米の流通を担う「米町(こめまち)」、場所は不明なのですが、絹織物の流通を担う「絹布町(けんぷまち)」が造られています。

 おそらくですが、この若林城下はさらに北方向へ広げ、榴岡・原町も含む物流拠点への構想があったのではないかと想像されます。ちなみに、この構想は昭和の時代に実現し、現在仙台市東部は卸売団地・物流団地になっています。

 結果的には、江戸時代の仙台城下において、若林城下の「河原町」は城下南部名取郡一帯の産物・広瀬川舟運の集積地、「原ノ町」は城下東部と領内北部・七北田川舟運の集積地としての役割を果たしますが、その間の宮城野原一帯の市街化は果たせませんでした。






注1):「若林」
 仙台に5区ある行政区のひとつ、「若林区」はこの「若林城」が在ったことに因んでつけられたものです。
   ・若林区役所
      若林区保春院前丁(ほしゅんいんまえちょう)

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 しかし、この「若林」の名の由来は詳らかではありません。
 ただ、菊池勝之助氏がその著書「仙台地名考」の中で、『政宗は”若”や”松”の字を好んだのではないか』と、ちょっと興味深いことを書いていらっしゃいます。
 達磨太師が”面壁九年”の行を行ったのは「嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)」、その”少林”は「わかばやし」とも訓じるのだそうです。正宗はこれを引いてこの地を「若林」と名付けたのではないか、と推量してらっしゃいます。
 類例として、政宗が会津黒川城を落とした後、この地の地名を「若松」と改めたこと、政宗の生母「保春院義姫(ほしゅんいんよしひめ)」の牌所「保春院」の山号は「少林山」等々を挙げています。
 政宗の晩年の漢詩、『馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何』にも通じて、政宗の人となりを知る上でなんか興味深いですね。
*上記五言絶句の大意:
 「少年時代は戦で明け暮れた。平和な世になり、今は髪に白い物が混じるようになった。今少しの余命を天が許すなら、何でこれを楽しまずにいられようか。」
 あるいは後半は、「天は我が身をまだ生かしているが、楽しむことが出来ないのはいかなる事なのだろう。」




注2):「六角大学」
 その姿かたちからつけられた宮城刑務所の通称です。
     ・明治41年「宮城監獄」
        −「なつかし仙台4」歴史民俗資料館

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     ・「宮城刑務所」
       復刻大正15年「地番入 仙台全図」歴史民俗資料館

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 1970年頃までは、結構遠くからでも、この「六角監視塔」を見て取ることが出来、建物の大きさも相まって、「六角大学」と呼ばれていました。(仙台が「学都」であることも関連する理由かもしれません)
 大学受験の頃、遊んでばかりいる私に父は、「そんな遊んでばかりいると六角大学しか入れなくなるぞ!」と、しかりつけていました。この呼び名は昭和の時代まではなんとか通じたようですが、現在はお歳を召した方々ぐらいにしか通じないようです。
 





注3)「行人塚」
 「行人塚伝説」
    −「仙台地名考」菊池勝之助著よりー
 その昔、広瀬川は大水の度に氾濫を繰り返していました。今の河原町から七郷一帯にかけても何度もその様な目にあい、人々は苦しんでいました。
 その頃、この行人塚の南、「五つ谷」に一人の「行人(山伏・修験者)」が住んでいました。彼はこの人々の苦難を救おうと大願をかけ、人々が押しとどめるのも振り切って人柱に立ちました。
 『わしの振る鈴の音が三・七、二十一日の間絶えることが無かったならこの大願はきっと成就するであろう。』
 と言って、生き埋めとなりました。
 里の人々は、節を抜いた竹からかすかに聞こえ続ける鈴の音に耳を傾け続け、祈り続けました。果たして、その鈴の音は二十一日の間途切れることが無かったそうです。

 これ以後、この地に水害が起きることはなく、人々はその徳を讃え、この塚を祀って社を建てました。この社は「古城神社(ふるじろじんじゃ)」という社号となって、現在も残っています。
   ・「古城神社」
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 この様な”行人塚”は、町名にもなっているのはここだけですが、市内にあと何か所かあります。

 仙台に限らず、東北にはこの様な「行人伝説」は数多く残っています。一般に、この様な「行人」は木食戒(穀断ち)の行を行っていて、「木食上人(もくじきしょうにん)」、あるいは「木食さん、木食様」と呼ばれています。代表的な木食上人は、「木喰仏(もくじきぶつ)」の作者である「木喰明満上人」で、「木っ端仏」で有名な「円空」もそのひとりです。
 もし、詳しく知りたい方がございましたら、柳宗悦選集第9巻、「木食上人」春秋社刊に詳しいですので、それをお読みいただければ、と思います。





注4):「花壇屋敷」
   ・正保の絵図
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 「花壇屋敷」は、この絵図ではまだ「仮屋」と書かれています。その北側の「花畑」は「花壇」と表記されています。
 このように、「御仮屋」に隣接した花畑があったので「花壇屋敷」と呼ばれるようになりました。
 「花壇屋敷」は本文に書きましたように、寛永4年を最後に、以後ほとんど使われなくなるのですが、すくなくとも花畑(御花壇)は寛政元(1789)年頃までは残っていたようです。

   ・寛文の絵図
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 寛文の絵図では「御花壇」、「御花畑」という表記になっています。

 この「花壇」という地名は今も引き継がれ、昭和初期までは隣接した中洲であった「評定河原(ひょうじょうがわら)」も含めて、現在は「青葉区花壇」の街区名になっています。
   ・現在の「花壇」
      塔文社菊全判2万5千分の1市街地図「仙台市」
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注5):「宮沢渡戸(みやざわわたど/みやざわのわたど)」
 開府初期は、場所が何処であるのか特定が難しいのですが、おそらく現在の宮沢橋の少し下流辺りで渡渉していたものと思われます。しかし、言い伝えに拠りますと、宝暦(1751〜1763)以前からは”舟渡(ふなわたし)”で、「宮沢の渡し」と呼ばれるようになっていたそうです。文政(1830〜1829)の頃にこの「宮沢の渡し」は一時廃絶となりましたが、文久2(1862)年4月「藤助」と言う者が復興し、明治15年に板張りの「宮沢橋」が出来ましたが、昭和の初めごろまでこの「宮沢の渡し」は続いたようです。(廃藩置県によって3年ほど中断)
 この「宮沢の渡し」の渡し賃は、江戸時代は3文、明治初期は3厘、明治30年からは1銭だった、との事です。
   ・「宮沢の渡し」はこの辺だったと思われる
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 宮沢橋上から上流を写した写真です。写真中央奥に架かる橋は「愛宕橋」で、左手に見える大きな屋根が「宗禅寺」です。「宮沢の渡し」は、この「宗禅寺」下と、対岸の「堰場(どうば)」を結んでいました。
<<この「宮沢の渡し」、「藤助」、「堰場」に関してはまだまだ面白い話があるのですが、紙数に限りもありますので、また別の機会にいたします。>>


 なお、新しい「江戸街道」では河原町のはずれ、現在の「広瀬橋」の所で広瀬川を渡っていました。正保年間(1644〜1648年)までは”徒渡(かちわたり/歩いて川を渡る事・渡渉)”だったのですが、後に橋が架けられ、「長町橋/永町橋」と名付けられました。この長町橋は大水の度に何度も流され、何度も架け替えられました。その為にこの所には「橋姫伝説」が生まれ、「橋姫供養」の碑が建っています。
 「長町橋」が「広瀬橋」と名が変わったのは明治41年のことです。
     ・「橋姫明神社」、「橋姫供養碑」、「由来碑」
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 <<この「橋姫伝説」も”人柱”の話なのですが、詳述は別に機会にしますね。紙数が残り少なくなってしまいました。>>





注6):「荒町(あらまち)」
   ・清水小路角から西方向を写す
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 以前の回でもお話いたしましたが、大町の南にあった「本荒町(もとあらまち)」が移って出来た商人町です。
   ・嘉永2(1849)年創業の老舗の酒蔵「森民酒造本家」
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 この荒町の専売品は麹でした。そこからこの様な酒蔵が残っていたりします。この荒町は江戸期の町割りが良く残っていて、間口3間、奥行き25間などと言う細長い地割が続いていたりします。









注7):「南鍛冶町(みなみかじまち)」
   ・「南鍛冶町」の中間地点
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 「南鍛冶町」は、「荒町」に続いて、「石垣町」が街道と接するところから始まり、この角で直角に南へと折れ、「穀町」へと続きます。
 北鍛冶町が鍛冶職だけでなく、他の職人が多く住む町であったのに対し、この「南鍛冶町」は、米沢以来の譜代の鍛冶職人が多く住む町だったようです。

 なお、この写真の撮影地点の背後には「耳観音さま」で有名な「三宝荒神社(さんぽうあらじんじゃ)」が在り、「元茶畑(もとちゃばたけ)」からの細道が通じています。





注8):「穀町(こくちょう)」
   ・「穀町」の食い違い
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 「穀町」は南北に続く短い町なのですが、南端で「南材木町」に接するところが小さくクランク状になっています。これを私は「穀町の食い違い」と呼んでいるのですが、一般には城下町特有の「虎口」と見られています。しかし、私はまた別の理由でこの”食い違い”が起きているのでは、と見ています。その理由とは、開府初期の足軽町と、若林城が出来てからの町人町との不整合に因って出来た”食い違い”なのでは、という事です。これはまだ単なる仮説なのですが…

 「穀町」は、仙台城下の命名規則の例外です。唯一、「町」を「ちょう」と読みます。ま、「こくまち」とは呼びづらいですけどね。「米町(こめまち)」とすればすんなり命名規則に当てはまったのでしょうが、すでに若林城下には「米町」が存在していました(図2で黄色い枠線で囲った所、遠見塚古墳の近く)。一説にはこの「米町」が移ってきたのがここ「穀町」だった、とも言われています。
 専売品は、町の名の通り米穀類です。米穀類が専売品の町は、この他には「新伝馬町」、「二日町」、「立町」があります。





注9):「南材木町(みなみざいもくまち)」
   ・「南材木町」と「南染師町」が交わる所
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 「南材木町」は南北に続く町で、「南染師町」は東西に流れる「七郷堀(しちごうぼり)」に沿った町です。両者はこの写真の中央付近で直交しています。ちなみに、写真右手に写っている建物は老舗の染物屋さんです。

 「南材木町」は、政宗公がまだ存命で、この付近が若林城下であった頃は「若林材木町」という呼び名でした。その後、此処が仙台城下に組み入れられ、以前からの仙台城下の「材木町」と区別するために、「北材木町」、「本材木町」、「南材木町」という呼び分けがなされるようになりました。
 なお、これらの材木町は後の時代になりますと、単に「木町(きまち)」と呼ばれるようになり、「北の木町」、「南の木町」というような言い方もされるようになります。ちなみに、現在の一般的な呼び名は、北の方は「木町」で、南の方は「南材木町」です。
 「南材木町」は、木材の専売権の他に、煙草の専売権も持っていました。





注10):「河原町(かわらまち)」
 現在、「河原町」は一丁目・二丁目の二つの街区からなり、かつての「行人塚」・「五つ谷」も含む広い範囲になっています。
   ・現在の「河原町」
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 「河原町」の名は、かつてこの辺一帯が度重なる広瀬川の氾濫によってできた石ころ交じりの”河原”であったことに拠ります。仙台城下開府当初は、この河原に近郷の農家が作物を持ち寄り、自然発生的な”市(いち)”が立っていました。これが若林城下の建設と共に”町”に取り立てられたのです。


 若林城下の頃は、カギ型(¬)のシンプルで小さな町で、「川原町」という表記でした。
   ・寛文4年の「仙台城下絵図」における「川原町」
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(この地図で赤線で囲まれたところは町人”町”なのですが、「職人衆(お城職人)」である「石垣衆」(後の「南石切町」)はその外に在り、赤線では囲まれていません。
 なお、「川原町」の東に付いている町の名が崩し字のひらがなで少し読みくいと思います。「ゑつた町」と書かれています。「穢多町」の意です。廃牛馬の処理をし、皮革の製造をする人々です。その職業から、河原に住むことが多く、「河原者(かわらもん)」とも呼ばれ、差別を受けていました。書くべきかどうか迷ったのですが、歴史的な事実なので付記しておきます。


 後に河原町の役割が増すとともに拡大し、「下河原町」、「河原町横丁」が出来ました。「下河原町」は明治以降「河原町新町」と名を変えます。
   ・「河原町横丁」
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 「河原町」は時代が進むにつれ、仙台城下の南の玄関口・仙台城下の台所としての役割を増し、江戸街道一番目の宿場町であった「長町宿」と共に発展してゆきます。
 しかし、昭和初期に「長町」が仙台市に吸収されると、その役割は次第に「長町」へと移り、現在「河原町」は荒町と同様の”下町”的な態様になっています。





<<次回は仙台城下の拡大について書く予定です。仙台城下が拡大するには大きな課題が立ちふさがっていたのです。>>

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。
ブラタモリでは旧若林城の中まで入って撮影していましたね。NHKの名を出すとたいていは許可が下りるとか。
若林城が政庁という考えはとても興味深かったです。
政宗が花壇にいたというのは恥ずかしながら知りませんでした。勉強になりました。
リアルET
2017/08/19 16:31
ET先生、おはようございます。

 さすがNHKですよね。できるものならば、私もNHKの名を振りかざして見てみたいところがいくつもあるのですが…、単なる”オッサン”では調べられることには限りがあります。

 青葉城址周辺には仙台人でも知っている人が少ない「へ〜」が沢山ありますよ。例えば、仙台で一番最初の酒造所の跡とか…、いずれご紹介しますね。
あきあかね
2017/08/20 08:34

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