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zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その7)

<<   作成日時 : 2017/08/10 20:48   >>

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 仙台開府時の城下町造りを見てきた第2章も、今回で終わりになります。今回は「寺社地」のお話です。



*国指定史跡「陸奥国分寺跡」
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 この辺一帯が史跡「国分寺跡」です。
 ご存知のように、「国分寺」・「国分尼寺」は天平13(741)年に聖武天皇の命によって全国62ヶ所に建てられたお寺で、ここは奥州で唯一国分寺・国分尼寺が建てられた場所です。しかし、その後の度重なる戦乱で荒廃し、仙台開府の時にはそのほとんどが失われており、辺り一帯は巨木、老松が生い茂る鬱蒼たる森になっていました。

古今和歌集 東歌 陸奥歌
第1091歌
 『みさぶらい 御笠と申せ宮城野の 木下露は雨にまされり』


 大意「御供の方、ご主人にお笠をどうぞ、と申し上げてください。
   草深い宮城野の木々から落ちる露は雨よりも濡れるのですから」


 この和歌を由来として、この国分寺跡の西側の一角を「木ノ下」と呼ぶようになりました。この地名は、その示す範囲の変動はありましたが、現在も使われています。








 D寺社地
 史料の読み込みが十分でなく、たぶん範囲が広すぎるのではないか、と危惧するのですが、一応5万分の一の地形図に仙台開府初期の寺社地を落とし込んでみました。
*図1):寺社、門前町、禰宜(ねぎ)町の配置
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(赤色の太線は、開府当時の奥州街道と大町通。
  赤色の細線は、開府時に切り出された城下。
  青色の細線は、国分氏時代の建造物が残っていたと思われる範囲。
  朱色に塗った部分は、仙台城。

  寺社地(門前町等も含む)は、肌色に塗った部分。)



 寺社の配置も、町人地や武家地の配置と同様に計画的に行われました。その配置にあたって考慮されたのはやはり「職業別集住」と「防衛・治安上の適地」でした。
 お寺・寺社地は広い面積を占め、大きな台所や井戸なども完備していることから、戦時には大人数の将兵を駐屯させることができます。「出城」のような役割です。したがって、寺社地は城下の周辺部に置くように計画されます。
 幸いなことにというか、これまた仙台の地を選ぶときにこの点も考慮して選んだのかもしれないのですが、新しく建設した城下の周辺部には開府以前からの寺社が散在していました。これらの寺社を整理し、また、青葉山に在ったいくつかの寺社も移転して出来た開府初期の寺社地が「図1」になります。
 しかし、開府初期にはまだ寺社地の整理は十分ではなく、町方の守護寺である浄土宗系のお寺は町場に散在していました。
 また、勾当台は開府初期には城下の周辺部だったのですが、城下の拡張と共に城下の中心部になってしまい、寛永13〜14(1636〜7)年にはいくつかの寺を「八塚」へ移転させることになります。

 開府初期に寺社が建ち並んでいた地域を列挙してみると、
「北山(鹿島崎)・伊勢堂山」(注1)
「現・仙台東照宮付近(玉手崎)」(注2)
「大崎八幡・亀岡八幡付近(鴉崎)」(注3)
「勾当台」(注4)
「国分寺跡〜八塚」(注5)
「現・大年寺山、越路付近(茂ヶ崎)」(注6)
になります。
 「勾当台」を除けば、すべて城下の周辺部で、各街道の出入り口近くになります。

蛇足:
  これを書いていて気付いたのですが、「仙台七崎」のほとんどに開府以前の社寺がありますね。無かったのはのは「藤ヶ崎」と「袖ヶ崎」(注7)だけかな? ついでなので、以下の「注」の中で「仙台七崎」の説明も簡単にしておこう、と思います。
 ちなみに、「仙台七崎」とは以下の七つの岬状の舌状丘陵や河岸段丘崖のことです。
 「茂ヶ崎(もがさき)」、「青葉ヶ崎(あおばがさき)」(注8)、「藤ヶ崎(ふじがさき/小藤ヶ埼)」、「袖ヶ崎(そでがさき/駒ヶ崎」、「鴉崎(からすざき)」、「鹿島崎(かしまざき)」、「玉田崎(たまださき/玉手崎)」







 注1):「鹿島崎(北山)〜伊勢堂山(いせどうやま)」
   ・「鹿島崎(北山)」の鹿島神社
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 北山の東端、この「鹿島神社」がある辺りを「鹿島崎」と言います。芭蕉の辻から北へ直線で続いてきた奥州街道(南部街道)が北山に当たって、この「鹿島崎」を大きく捲いてゆきます。ここから北は上り坂に造られた「堤町(つつみまち)」で、それが切れると城下の外となります。

 「北山五山」は仙台開府時に出来た寺々なのですが、この「北山」一帯には古い神社がいくつか在ったようです。もしかすると、密教系の道場のようなお寺もあったかもしれません。今のところ、それを示すような史料は見つかっていないのですが…

 ただ、桜ヶ丘大神宮の縁起話に、『荒巻村に一人の道心者が庵を結んでいて、神明社を祭っていた。正宗公はこれを厚く敬い、伊勢神宮の分霊を勧請して合祀し、「伊勢堂山(いせどうさん)」と号した。これが伊勢堂山の地名の起こりであり、これを明治以後に西公園に移して「桜ヶ丘大神宮」となった。』とありました。この道心者が庵を結んでいた時期がはっきりとはしないのですが、少なくとも開府以前の事ではなかろうか、と思えますし、同様の求道者や修験者はこの辺にもう少しいたように思えます。
 ちなみに、「伊勢堂山」あるいは「伊勢堂下」という地名は現在ではほとんど使われることは有りません。現在の街区名では「青葉区子平町(しへいまち)」、「同区三条町(さんじょうまち)」、「同区新坂町(にいざかまち)」が合わさる一帯が「伊勢堂山」で、「伊勢堂下」は「青葉区柏木三丁目」、「同区子平町」が合わさる一帯を指していました。
   ・伊勢堂山の「大願寺」
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 「大願寺」は開府初期からある寺ですが、この唐門は四代藩主綱村の正室「万壽院仙姫」の墓所から明治初期に移築されたものです。



 注2):「玉手崎」
   ・玉手崎の「仙台東照宮」
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 前の回で、ここに八幡社があって、東照宮と入れ替わって榴岡に移転した話をしましたので、今回解説は省略します。



 注3):「鴉崎周辺」
   ・「牛越橋(うしごえばし)」から眺めた「鴉崎」
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 写真左手の導水管が下りた先と、二組の送電線が集まった辺りに在るのが「三居沢(さんきょざわ)発電所」です。手前正面の建物は「パル三居沢」とかいう建物で、発電所とは関係がありません。
 「三居沢発電所」は日本初の水力発電所で、明治21年に「宮城紡績会社」が工場内の紡績に使う水を利用して発電できるようにしたものです。大正元年に仙台市に譲られ、現在は東北電力が所有し、遠隔操作で現在も電力を供給しています。
 現在、ここには「三居沢電機百年館」というミニ博物館があるのですが、そのお話は今回のテーマから離れますので別の機会にいたします。

 「鴉崎」とは、この「三居沢発電所」の辺りを指すのですが、その裏手にあるのが「亀岡八幡宮」です。「亀岡八幡宮」は、伊達郡高子岡から寛永17年に当時はまだ勾当台だった現在の錦町公園近くに移し、天和元(1681)年に現在の地に遷座しました。
   ・亀岡町の「亀岡八幡宮」
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 開府以前はと言いますと、史料がほとんどなく、よくわからないのですが、茂ケ崎、青葉ヶ埼、鴉崎一帯は真言密教、修験道の修業の場だったらしいです。仙台城を築城する以前、この一帯に複数の堂宇が在ったことがいくつかの古文書に散見されます。

   ・八幡町の「大崎八幡宮」境内三之鳥居付近
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 大崎八幡神社は、開府時に岩出山からこの地に移されました。当時は別当の「龍寶寺(りゅうほうじ)」が門前町の支配でしたが、正保の絵地図には「禰宜町」と書かれ、寛文の絵地図では「八幡門前町」と書かれています。ま、当時は明治以降のように神道と仏教の区別は厳しくありませんでしたから…
   ・現在の「八幡(門前)町」
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 「石切町」角付近から大崎八幡神社方向(西方向)を撮っています。この通りは現在国道48号線となっていて、交通量は結構多いです。

   補足):「禰宜(ねぎ)」、「禰宜町」
 「禰宜」とは神職の職位の名称のひとつです。宮司の下にあって、宮司を補佐する役目です。
 しかし「禰宜町」は、「禰宜」とは限らずその神社の神職と社人を中心とした人々の町の事で、お寺さんの「門前町」と対をなす呼称です。
 仙台においては、「八幡町」、「宮町」は本来ならこの「禰宜町」にあたるのですが、それぞれ「龍寶寺」、「仙岳院」という、大変力を持った別当寺がありましたので、「門前町」と見做されることの方が多かったです。亀岡八幡前の「亀岡町」も、本来なら「禰宜町」なのでしょうが、こちらは茶坊主衆が以前住んでいたことからか(笑)、やはり門前町のイメージが強いです。なお、この坊主衆は、少し北に移動して「坊主町」という名の町になっています。ちなみに、亀岡八幡の別当は「千手院」です。



 注4):「勾当台」
   ・勾当台公園
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 「勾当台」の名前の基になったのは、盲人の連歌師「花村勾当政一」の屋敷がここにあったからなのですが、「定禅寺通」の名の基になったのはこの地に真言宗のお寺「定禅寺」が在ったからです。この「定禅寺」は開府時に仙台城の鬼門封じとして建てられました。
 現在、「勾当台」と言いますと、この写真の「勾当台公園」がある場所のみを言いますが、開府初期の「勾当台」は現在の「元寺小路」の北辺辺りから錦町付近も含み、明治、あるいは大正時代くらいまでは現在の錦町公園周辺を含めて「勾当台」でした。
 開府以前にもこの勾当台には密教系のお寺は在ったと思うのですが、開府時には「定禅寺」はじめとする真言宗系のお寺が集められました。その内の幾つかは、城下の拡張に伴い寛永末期(1636〜7年)に「八塚」に移転し、その跡地は「元寺小路」となり、移転した先は「新寺小路」となりました。この移転した後、寛文4(1664)年の「仙台城下絵図」では、ここ「勾当台」には6寺、2坊、1社(八幡社)と1別当、2禰宜町、1門前町が見られます。
 これらの寺社は明治期には衰退し、ここ「勾当台」は官公庁の地になりますが、大正15年の市街図ではまだ2寺、2院、1社の存在が確認できます。現在は、と言いますと、勾当台公園付近には1寺・1社も無く、錦町公園付近に「万願寺」と「瀧澤神社」があるのみです。
   ・「万願寺」
      青葉区本町一丁目
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 この「万願寺」は、「愛宕・上杉通」を通す際に位置を少しずらしているようです。
   ・「瀧澤神社」
      青葉区本町2丁目大仏前(おぼとけまえ)<通り>
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 この「大仏前(おぼとけまえ)」も仙台の難読地名のひとつですね。要は、「おおぼとけまえ」が訛って「おぼとけまえ」になったんです。貞享(じょうきょう)元(1684)年、四代藩主伊達綱村の命によってこの地に大仏(廬舎那仏)が建造され、それを収める「延寿堂」が建てられました。そこから起こった地名です。この延寿堂と大仏はその後の宝永年間の火災で焼失し、それが在った等覚院も明治以後に廃寺となっています。



 注5):「国分寺跡〜八塚」
<国分寺跡の諸寺>
   ・国指定重文「薬師堂」と県指定有文「仁王門」
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 正面に見えているのが「仁王門」です。「薬師堂」や県指定有文「白山神社」、「鐘楼」等はこの「仁王門」をくぐった境内にあります。
 仙台開府時、国分寺の荒廃を嘆いた伊達政宗によって建てられたのが「薬師堂」です。慶長12(1607)年建立とされています。
 写真の「仁王門」はその薬師堂の山門で、国分寺跡の南大門の位置に建てられています。薬師堂と同じく慶長12年建立と伝えられていたのですが、解体修理の際の調査でそれ以前の建立も指摘されています。

 昭和45年頃まで、この辺一帯、榴岡下あたりまでは「薬師堂」という広域地名で、それを「木ノ下」(薬師堂を含んだ街区名)、「薬師堂西」、「(原ノ町南ノ目)薬師堂北」の大字に分けていました。現在は、「若林区木下一丁目〜四丁目」(薬師堂は三丁目に含まれる)、「若林区二軒茶屋」と、「宮城野区西宮城野」、そして「宮城野区宮城野二丁目」の一部になっています。


   ・国指定史跡「陸奥国分尼寺跡」
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 「国分寺」と同時期に創建されたのですが、その後天正年間に国分盛重によって再建されたと伝えられています。現在の堂宇は、明治期に荒廃したものを大正14年に改修したものだそうです。

 仙台開府時、国分寺跡の西、旧参道沿いには修験道系のお寺や僧坊がすでに集まっていました。これが「国分寺二十四坊」です。
 後に、この「二十四坊」につながるように道と足軽町、御小人町が造られ、その道は「連坊小路(れんぼうこうじ)」と呼ばれるようになります。この「二十四坊」に因む名前です。
 ちなみに、仙台に少し詳しくなった人が戸惑うのがこの「連坊小路」の名の由来です。たしかに、連坊小路にお寺さんはいくつかあるのですが、”坊を連ねる”までは在りません。「昔はお寺さんが連なっていたのかなあ?」等と思ってしまいます。仙台の通りの名の命名規則を思い出していただければその勘違いもしにくいかとは思いますが…、高校生の頃の私もその間違いを犯していました。
 また、「連坊小路」は、「恋慕小路」が元の名なんだ、と言う人もいますが、これもこの地の下級武士の内職であった編笠と、この道の先の「二軒茶屋」や、後の時代の「国分町」とを結びつけた牽強付会にすぎません。
   ・寛文4年の「仙台城下絵図」に見る「二十四坊」
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 絵地図には「二十四坊」の他に「禰宜町」や「別当」の文字も見えます。
 国分寺跡と、この二十四坊を含む辺りが古い時代の「木ノ下」です。神仏分離の政策が進められた明治以降、この二十四坊は姿を消し、しばらくの間「集治監用地」となっていました。修験道は神道と仏教が融合した宗派なので、明治以降に荒廃が進んだものと思います。

 捕捉:)「別当」
 これまでに何度か「別当(べっとう)」という言葉を説明なしに使いました。ここで簡単に説明を加えておきます。
 古代、律令制の頃の「別当」は、複数の官司を統合管理する”統括責任者”の様な意味合いの職名なのですが、ここではそれとは少し意味合いが異なり、お寺で使われる職名です。あまたの僧坊を束ねる大きなお寺の場合、その管理事務は規模も大きく煩雑です。それらを統括する僧職の者を別に立て、これを「別当」と称しました。そしてこの別当が事務を執るお寺が「別当寺」です。
 この「別当寺」は、江戸期には大きな神社にも置かれることがよくありました。しかし、明治になって神仏分離が進められると、この「別当寺」の多くは廃寺となりました。神社の統括をしていた別当寺で今も残るものは大変少ないです。

 「ちょっとおまけ」
   ・「控木通」
 仙台人でも読める人があまりいない、という難読地名のひとつです(IME変換では出てきません(笑))。
 「ごおらぎどおり」と読みます。「国分寺跡」の南を東西に通る800m程の長さの通りの名です。
 仁王門に突き当たる通り(1枚目地2枚目の写真を撮った通りです。)に枯れた大木があって、幹に大きな”うろ(空)”が開いていました。この”うろ”に幣束を立てて「紫明神(洞木明神)」としてお祀りしていました。このような”うろ”が開いている木をこの地方では「ガホラギ」、あるいは「ガボラギ」と呼んでいて、それが訛って「ごうらぎ」となって、その意を漢字に充てて「控木」とした訳です。ちなみに、仙台弁では”内が空ろな様子”を「がほら、がほら」と表現します。(ex:「このゴム長、”がほら、がほら”してしゃぁ、いずいんだわ〜」)
     ・地名の由来となった「紫神社」
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 現在、紫神社は先ほどの話の場所からこの地、薬師堂境内に移されています。ご神木となった”うろ”の有る木、「ごうらぎ」は、戦前までは有ったようなのですが、現在は有りません。


<八塚>
 仙台開府時、東七番丁通から東、榴岡下あたりまでの一帯を、広く「八塚(やつつか)」と称していました。
   ・新寺通・東八番丁角にある「八塚」の道標
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 この地名は、この辺に古すぎてその由来の分からない八つの塚が在ったことに拠ります。この地の豪族の古墳とも、行人様の生き埋めになった塚だとも言われています。現在、その塚の内の三つ程はその所在が分かるのですが、それ以外は分からなくなっています。
 この辺一帯、榴岡下辺りまでに、寛永後期以降にいくつかのお寺が移ってきまして、「新寺小路」と呼ばれる寺町が出来上がりました。現在は、この「新寺小路<通り>」は拡幅整備がされまして、通りの名も「新寺通(しんてらどおり)」と改まって、「新寺小路」の名称は、この通りの北に設けられた遊歩道の名に譲られています。
   ・現在の「新寺通」、「延命餅」前
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 注6):「茂ヶ崎」
   ・宮沢橋下から眺めた「茂ケ崎」
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 「茂ケ崎」とは「大年寺山」のことです。この「宮沢橋」付近を車で通っておられる方は、大年寺山がこの辺で岬状になっていることにお気づきだったのでは、と思います。

 開府以前、この茂ケ崎には「茂ケ崎城」という古城跡が在りました。粟野大膳太夫(藤原姓粟野氏)の居城と伝えられています。
 また、愛宕山から茂ケ崎にかけては六世紀末の横穴墓の遺跡群が有り、古墳時代の人々の生活の場であったことが伺えます。

 現在もこの地にある「大年寺」は、第4代藩主伊達綱村の命によって元禄10(1697)年に竣工となりました。
   ・「大年寺」惣門
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 綱村の没後、この大年寺には、5代吉村、10代斉宗、12代斉邦の歴代藩主とその夫人の墓所が造られ、石灯籠が捧げられて「無尽灯廟(むじんとうびょう)」と称されます。
   ・大年寺山の「無尽灯廟」
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 この大年寺山の南の山裾、笹谷街道に沿った一角にはこの大年寺の門前町が造られました。この名は現在にも引き継がれ、この場所の地名は「太白区門前町」となっています。
   ・大年寺の「門前町」
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 左手を走る大通は現在の「笹谷街道(国道286号線)」です。この辺りまでは旧道とほぼ同じなのですが、旧道はこの先、「三桜高校」を過ぎた辺りで新道と分かれ、北へと入り込みます。
 



 注7):「藤ヶ崎」、「袖ヶ崎」
 この二つは丘陵ではなく、河岸段丘崖です。「中町段丘」と「下町段丘」の間の”段差”です。上町と中町の段丘差に比べ、こちらの方は格段にギャップが大きく、その差が30mを超えている場合もあります。
   ・藤ヶ崎
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 「小藤ヶ埼」とも呼ばれます。右端の道路(片平通)が中町段丘で、下の道路が下町段丘です。
   ・「藤坂神社」と仙台七坂のひとつ「藤ヶ坂」
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 この石段が「藤ヶ坂」です。
 この「藤坂神社」は、政策的に造られた神社ではなく、この付近の人々が祀った”氏神”様です。したがって、「氏子」は居るかもしれませんが、「禰宜町」や「門前町」は形成されませんでした。


  ・「袖ヶ崎」
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 あるいは「駒ヶ埼」とも呼ばれます。
 (「仙台地名考」菊池勝之助著p202の『ヶ崎』は「袖」の誤植ではないかと思われます。)
 この写真は、中島丁の切通から東方向を写した写真で、左手に続く崖が「袖ヶ崎」です。眼下に細く続く家並みは、「へくり沢」の流れを暗渠にしてできた家並みです。「へくり沢」はこの辺りで大きく「S」字に蛇行し、深い渓谷をなしていることから、ここを「巴谷(ともえだに)」とも呼びました。

 この「袖ヶ埼」の東端を捲いて上る坂は「新坂(にいざか)」と呼ばれ、元禄8(1695)年に武家屋敷を削って新たに切り出された道です。これも「仙台七坂」のひとつです。下町段丘の「澱町(よどみまち)」と中町段丘の「北二番丁」西端を繋いでいます。坂上からは、さらにその先北山まで通じる道がありまして、この道を「新坂」に繋がる道、ということで、「新坂通」と呼んでいます。
 この「新坂」の坂下には「澱不動尊」が在るのですが、
   ・澱町の「澱不動尊」
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こちらもこの地域の”氏神”様です。
 ちなみに、崖上に見える建物は「尚絅学院中・高等学校」の校舎です。
 



 注8):「青葉ヶ埼」
 「青葉ヶ埼」とは青葉山のことです。と、言っても青葉山は大年寺山に比べればいささか広く、どこがその”崎”なのかいくつが説も分かれるところなのですが…
   ・一般的にはここ?
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 大橋の上から見た仙台城本丸跡なのですが、この崖にせり出すように本丸御殿の「懸造(かけづくり)」が造られていたそうで、ここを「青葉ヶ埼」と見るのが一般的なのかなあ、と思います。その他には瑞鳳殿がある「経ヶ峰」を「青葉ヶ埼」とする見方もあるようですが…

 この青葉山や経ヶ峰には開府以前からの天台宗や真言宗等のお寺が在り、それらは仙台城建設のために北山や八塚、越路等に移転させられました。試みにその名をいくつか挙げると、「大蔵寺(だいぞうじ)」、「光禅寺(こうぜんじ)」、「寂光寺(じゃくこうじ)」等です。
 これらの他、青葉山には修験者や密教系の修行僧等もいたようなのですが、これらも領内の各所に散ってゆきました。
 なお、「仙台」の地名の由来のひとつである「千体仏」は仙台城付近にあったものを仙台城建設の際に一旦経ヶ峰に移し、その後愛宕山の「虚空蔵堂」や片平丁の仙台大神宮「千座霊神祠」、六郷の「万蔵寺」等に分置されています。
 






 <次回からは第3章「若林城の建設」とそれに付随して起きた「仙台城下の拡大」の話の予定です。>

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。仙台七崎について初めて知りました。また連坊小路って不思議な名前だなあとずっと思っていましたが,その由来には驚きました。
今私は「ドレミの歌」について記事を書いていますが,以前,あるラジオのお笑い番組で「ドレミの歌」の替え歌で賞をもらったことがあります。
(ド)どこにあるのか?
(レ)連坊小路。
(ミ)宮城野区かな?
   若林だよー!
失礼いたしました(笑)。
リアルET
2017/08/11 20:35
ET先生、おはようございます。

 その替え歌、GJです!(笑)

 「仙台七崎」は、仙台城下の地形的特徴を象徴するような場所ですね。「仙台七坂」は、仙台城下の生活の痕跡かな?

 仙台城下の話、まだまだ続きますのでお楽しみを。
あきあかね
2017/08/12 08:31

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