flom 仙台

アクセスカウンタ

zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その6)

<<   作成日時 : 2017/08/06 09:55   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 2

 今回は伊達家臣団の中でも最も人数の多い「下級家臣」の町のお話です。彼らはどんなところに配置されたのでしょう。





*川内川前丁(かわうちかわまえちょう)(町/まち)
画像

 (お城近くの「下級家臣」の町です。
 この町は町名の表記に揺らぎがあります。現在の街区名は「川内川前丁(かわうちかわまえちょう)」で、菊池勝之助著の「仙台地名考」も「川前丁」と書かれていますが、(復刻)大正15年発行「地番入 仙台市全図」では「川内川前町」と書かれています。
 江戸期の絵地図には町名の記載がありませんが、「御小人衆」とか、「中間屋敷」と書かれていますので、”町”が本来なのだと思われます。)




*図1):下級家臣の町割り
画像

 (赤色の太線は、開府当時の奥州街道と大町通。
  赤色の細線は、開府時に切り出された城下。
  青色の細線は、国分氏時代の建造物が残っていたと思われる範囲。
  朱色に塗った部分は、仙台城。

  下級家臣の町は、薄い青紫色に塗った部分。)






 D下級家臣の居住区を定める
 仙台伊達家の下級家臣は、その身分によって「組士(くみし)」と「卒(そつ)」の二つに大別されます。「組士」は最下級ながら「士分(しぶん/侍の身分)」ですが、「卒」は原則苗字を名乗ることが許されず、帯刀にも制限があり、「組士」以上の「士分」とは身分上はっきりとした区別がありました。
 「士分」と「僧侶」に対して、「卒」や町民・農民は「凡下(ぼんげ/ここでは”ありふれた人々”といった意味合い)」とも称されました。

 「組士」と「卒」を由来・職種で分けてみますと、以下のようになります。
 「組士」
 ・組頭の下、各組に分けられた武人たち
 =「徒士組(かちぐみ)」、「徒士小姓組(かちこしょうぐみ)」、「番外士(ばんがいし)」、「不断組(ふだんぐみ)」、「名懸組(なかけぐみ)」(注1)、「鷹匠組(たかじょうぐみ)」(注2)、「伯楽(はくらく)」、「馬乗(読み方、職種が不明、たぶん”うまのり”?前と同様に馬術の探求や研鑽、教授をする人々?)」、これらは城下に居住する武人たちですが、この他に大身の家臣に仕え、在郷の知行地に居住する武人には、「給主組(きゅうしゅぐみ)」、「在々預給主(ざいざいあずかりきゅうしゅ)」があります。
 ・文官としては
 =「同朋(どうぼう)(衆)」、「茶道(さどう)(衆)」、「大所人(だいどころにん)」、「乱舞(らんぶ)(衆)」、があります。

 「卒」
 卒の役割・職種は多岐にわたり、広範囲なのですが、
 ・戦時は一兵士として組頭等、士分の者の指揮に従って働き、平時はその指揮に従って臨時に行政・司法の役目を補助する者
 =「旗本足軽(はたもとあしがる)」、「旗本鉄砲組(はたもとてっぽうぐみ)」、「足軽(あしがる)」、これらは城下に居住地があります。城下外に居住地する者は、「在郷足軽(ざいごうあしがる)」、「京都足軽(きょうとあしがる)」、「竜ヶ崎足軽(りゅうがさきあしがる)」(注3)、になります。
 ・平時には特定の役目があり、戦時には一兵士として戦闘に加わる者
 =「小人(こびと)」、「中間(ちゅうげん)」(注4)、「作事方足軽」、「餌指(えさし)」(注2)、「町同心(まちどうしん)」、「本丸門番(ほんまるもんばん)」、「御仮屋守(おかりやもり)」、「所々御蔵守(ところどころおくらもり)」、「御座船頭(ござせんどう)」、「勘定奉行支配足軽(かんじょうぶぎょうしはいあしがる)」。
 ・平時は技術職・一般職で、戦時は基本的に直接の戦闘には加わらない者
 =「坊主(ぼうず/いわゆる”茶坊主”です)、「御次料理人(おつぎりょうりにん)」、「杉守(すぎもり)」(注5)、「路地の者(ろじのもの)」、「諸職人(しょしょくにん)」、「馬取(うまとり)」、「籠者(かごもの)」、「目明(めあかし)」(注6)
 これらの内、「御座船頭」と「杉守」以外は住居も勤務地も城下にあります。
 (附:これらの者たちは、戦地にもついて行ってその専門職の役目に従事することもありますが、基本的に戦闘には加わりません。)


 さて、これら下級家臣の居住区がどのような基準で定められたかですが…、前掲の図1をご参照ください。薄い青紫に塗ったところが江戸時代初期の下級家臣の居住区(「諸職人」は前項で既述なので除く)です。
 仙台城下の外縁部、城近くの広瀬川河畔と、城下町と在郷が接する部分の二つの区域に分かれて配置されているのが見て取れるかと思います。城近くの広瀬川河畔に配置された下級家臣はお城の日常的な業務、例えば門番や清掃・補修、水汲み等々に携わる人々なのですが、各街道が城下に入る出入り口付近にはそれ以上の多くの下級家臣が集中して配置されています。
 この配置は近世の城下町よく見られる特徴で、主に二つの理由があります。
 一つ目は、身分の違いを明確に示す為です。一般的にはお城を中心に、上級武士→中級武士→町民→下級家臣、そして城下の外に農民、という風に同心円状の配置になり、身分の高いものほどお城に近いところに住みます。ただ、仙台城下の場合、仙台城が青葉山を背にして築城されたため、この配置が同心円ではなく、扇型になってはいますが…。
 二つ目は、防衛・治安上の理由です。何か事があった場合、瞬時に城下への出入りを封鎖できるようにする為です。その人数を確保する為に、鉄砲足軽や小人、徒士組組士、弓組組士等の下級家臣の居住区を街道出入り口付近に配置しています。
 開府初期の仙台城下(図1)では、まだ湿地等の地形の制約があってこの特徴が明確ではありませんが、開府から60年余りが過ぎた寛文4(1664)年の「仙台城下絵図」ではこれがはっきりと表れています。


 そうそう、大事なことを書き漏らしてしまうところでした。このシリーズのテーマ、「東〇番丁最大の謎」、街区の中心軸が二つある理由です。
 (その3)の回で、『「国分町」は国分寺跡周辺に住んでいた国分氏に仕えた商人が移り住んで出来た町だ』と、お話したことをご記憶でしょうか? 実は、この国分氏の商人達が以前住んでいたところに配置されたのが、「三百人町」(注7)、「南五十人町」(注8)、「六十人町」(注9)といった下級家臣の町なのです。図1の右下の一角です。
 以前”町”だった所ですので、整地もされていますし、道路もあります。あるいは建物もそのまま利用できたかもしれません。さらに、開府当初はまだ利用されていたと思われる「東街道(あずまかいどう)」も通っていますし、新たな街道にも近いです。防備のための下級家臣を配置するには最適地です。時代が少し下った寛永5(1628)年、若林城とその城下町がこの場所の少し南に造られますが、それもこの地の利を考えての事と想像されます。
 で、この国分氏の古い町並みなのですが、「東街道」を基軸としていましたので、新しい城下の基軸とは当然のことながらズレができました。ま、開府当初はこの一角は間に湿地帯や寺社地を挟み、城下のはずれというよりも、城下の外の飛び地(注10)、といった趣でしたので、さほど気になることではなかったのかもしれません。
 しかし、後に若林城とその城下町が出来、新しい城下町も拡大して、奥州街道(江戸街道)のルートも変更され、新旧二つの町が融合してくると、その融合点ではこのシリーズの「謎」が顕現することとなるわけです。





 注1)「名懸組」と「名掛丁(なかけちょう)」
 領主から特別に名指しで麾下に加わるように命ぜられた武士たちを「御名懸衆(おなかけしゅう)」と呼んでいました。この組士たちの集まりが「名懸組」で、彼らが集住した「丁」が「名懸丁」です。「懸」の字が難しいので、現在は「名掛丁」と表記しています。仙台城下の東の出入り口を警護する重要な武士団でした。
   ・現在の「ハピナ名掛丁」
画像


 この他にも、寛文事件以降に「新名掛丁」が東六番丁と空堀丁の間に新設されたのですが、現在この場所は「宮町一丁目」と「花京院二丁目」に包含されてしまって、街区の名にも通りの名にもそれが残っていません。

   ・附):その他の「組士」の町
 上記以外、現在も残る町名から江戸期に組士の町であったことを窺わせる町は大変少ないです。その理由は、一つには何度かの城下の拡張で居住区が変動したこと、もう一つはその変動で居住区が足軽町の中や番丁街に組み入れられた事が挙げられると思います。後でまた触れることになろうかとは思いますが、城下拡張で居住区の変動が最も大きかったのがこれら組士たちで、次いで足軽です。
 辛うじて町名に元は下級武士の町であったことを残している例としては、「舟丁(ふなちょう)」が挙げられるかと思います。
画像

画像

 この町は開府当初は弓組組士と弓足軽の町で「弓の町」と呼ばれていました。しかし、寛永14年ごろ河原町北裏の現・「新弓ノ町」に移り、一時「本(もと)弓の町」と呼ばれていたのですが、享保2(1717)年、広瀬川舟運の「御舟衆」が住む様になり、舟番所や藩の御蔵が置かれ、役人が常駐するようになって「舟丁」という町名になりました。
 この「ふなちょう」の漢字表記は”丁”と”町”の両方あり、時代によって表記の揺らぎがあるのですが、元は侍の町ということで、現在は「舟”丁”」の表記が使われています。



 注2)「鷹匠組」、「餌指」
 「鷹匠(たかじょう)」は、藩主の鷹狩りの鷹を飼育、訓練し、鷹狩りの際には藩主の傍に侍って鷹の扱いをする役目です。仙台藩では組士格の侍の身分でした。「餌指(えさし)」は、その鷹の餌となる小鳥を捕ってくる役目の足軽身分の卒です。
 実を言いますと、今回の一連の調査で意外な発見だったのがこの「鷹匠組」の屋敷地の変化でした。
 正保2(1645)年の「奥州仙台城絵図」では、「鷹師屋敷」として米ケ袋全域から土樋一帯にかけて広範囲に配置されていました。かなりの人数であったように見えます。それがそのあと二十年もしない寛文4(1664)年の「仙台城下絵図」では、米ケ袋の一角に片側町で2町分ほどになっています。「餌指」の町も米ケ袋の一角に1町分ほどあったものが半町分ほどに減っています。この劇的な変化の原因は何だったのだろう? 目下それが私の好奇心を占領しています。
 あまり根拠のない耳学問なのですが、幕府の「鷹匠」や「餌指」は戦時には斥候・物見の役目を果たし、平時には旗本屋敷や他藩の藩邸を探るスパイの役目だったそうなのです。
 将軍様の「御鷹」は幕府の権威そのものという事で、『「御鷹様」がご当家の敷地内で姿を消しました。立ち入りご容赦を』と言えば、その武家屋敷の主も断れず、当時治外法権だった武家屋敷への立ち入りが自由に出来たのだそうです。
 関係あるのかなあ???


 「米ケ袋」は広域地名で、現在は一丁目〜三丁目に分けた街区となっていますが、少し前までは「上町」、「中町」、「下町」、「広町」、「十二軒町」の5町からなっていました。
   ・米ケ袋上町
   最後まで「鷹匠屋敷」があったのはこの辺になります。
画像

   ・米ケ袋下町
 画面中央左の、白い階段状の建物は「阿部次郎記念館」です。
画像

   ・米ケ袋十二軒町
 左手側が「米ケ袋十二軒町」で、画面中央奥に見える坂が「鹿落坂(ししおちざか)」です。

画像



 注3)「京都足軽」、「竜ヶ崎足軽」
 仙台伊達家領は、陸奥国60万石の他に、常陸、下総(しもうさ)両国に1万石余、近江国に1万石の領地がありました(竜ヶ崎に仙台伊達家領だったことを示す石柱が現存しています)。これを合計して、一口に『仙台伊達家62万石』と称されるわけです。
 近江国の1万石の内、5000石は豊臣秀吉から「在京賄料(ざいきょうまかないりょう)」として与えられ、後に江戸幕府から追加されました。常陸・下総の所領は江戸屋敷の管理維持費の為の「江戸賄料地」でした。
 これらを管理するために、「出入司」の下に「京都留守居ー江州(ごうしゅう)代官」、「常州竜ヶ崎奉行ー郡司(こおりつかさ)・代官」が置かれ、その下で働く足軽たちが存在しました。これらの足軽の多くは地元採用だったようです。

 ちなみに):
 近江国の年貢米は大津の近江商人によって換金され、藩主の上洛時の費用などに使われたのですが、一部は京都のお公家さんにも渡っています。つまり、朝廷への工作費用だったのです。



 注4)「小人」、「中間」、「足軽」
 時代が下ると共に、この三者の職掌範囲は共通するところが多くなってくるのですが、「足軽」は戦闘集団の末端の一兵卒、「小人」・「中間」は”武家奉公人”とも総称されるように、武家に仕えて身の回りの雑用をこなす人々、という区別は一応存在しました。しかし、戦時にはこの三者共末端の兵卒として戦闘に加わります。
 「小人」は江戸城下などでは「小者」とも呼ばれ、平時は主人の屋敷内の長屋に住み、武家屋敷内の雑用をこなす、というのが一般的です。しかし、武家屋敷の外に集住する「小人」は公の仕事を日常業務としていました。その内容は広範囲にわたっています。いくつか例を挙げてみますと、「犯罪人の捜査や捕縛」、「土木工事」、「御裏林や杉山の見回り」、「城門や木戸の門番」等々です。
 「中間」は、主に詩人のお供として挟み箱や槍等を持つ役目です。駕籠を荷う「籠者」もこれに含まれます。通常は武家屋敷内の長屋に住んでいるはずなのですが、江戸時代初期の正保の絵地図には八軒小路付近に集住しているのが見られました。参勤交代時の行列を構成する者達なのか、それとも何か別の役目を持たされた者達なのかは分かっていません。
 「足軽」達は、弓、長柄槍、鉄砲等の戦闘集団であるのが普通です。しかし、前回の「職人の町」でも少し触れましたように、「御作事足軽」として築城や堀、土塁などを築く”工兵”的な役割を持つ者達もいました。平時には、役人や組頭の指示の下、検見や巡視に付き従う仕事にもつきました。



 注5)「杉守(すぎもり)」
 あるいは「山守(やまもり)」とも呼ばれるのですが、藩の御用材を育てている山「杉山」を維持・管理する役目の者です。
 「杉山」の様な”御用林”は、単に木材資源を確保する為だけではなく、漆や蝋、和紙の原料などの工芸品の材料、燃料としての薪や柴を採取する場所としても大変重要な場所でした。
 藩としてもこのことは大変重要視していて、開府当初から何度も禁令・命令を出していて、御用林内に番所を設けて維持・管理と警戒に当たらせていました。この番所の「杉守・山守」には、戦国時代に足軽大将クラスであった元武士や、地元の旧家で人望の厚い者を充て、鉄砲の所持も許し、代々その任に就かせました。

 ちなみに、城下に一番近い「杉山」は台原の労災病院と梅田川に挟まれた区域なのですが、城下から見てこの一帯が台地状に見えたことから「杉山台(すぎやまだい)」と呼ばれていました。そして、その後背地の丘陵は「台原(だいのはら)」と呼ばれ、杉山台に通じる道は「上杉山通(かみすぎやまどおり)」、「中杉山通(なかすぎやまどおり)」と呼ばれたのです。
 この「杉山台」は、全部ではありませんが現在も風致地区として保全がされています。そして、江戸時代の「杉山番所」なのですが、領内絵図などから想像するに、現在公園になっていて「白水神社」が在る辺りに在ったようです。
   ・杉山台の「白水神社」
画像




 注6)「目明(めあかし)」
 江戸の町では「御用聞き」と言うのが正式のようです。「目明し・目明」は関八州での呼び名のようなのですが、仙台藩でも「目明」の名を使っていました。町奉行配下、町同心を補助して犯人の捜査・捕縛に就く者です。
 江戸の町、京阪や諸藩もほぼ同様だと思うのですが、世事に通じているという事から元犯罪者を使い、結果、ゆすりやたかりを行うものも多かったことから、時代が下ると共に公には使用を禁じられます。しかし、その便利さは捨てがたく、「岡っ引き」と名を変えて明治の極初期まで続くことになります。公には禁じられた存在ですので、当然のことながら、公からはその給料は出ず、もっぱら町同心の自腹の”小遣い”が給料代わりでした。
 仙台藩の「目明」ですが、あまり史料が残っていません。開府初期から存在したかは不明なのですが、遅くとも宝永年間(1704〜1711)には存在したことが確認できます。また、享保5(1720)年の史料に『目明十兵衛』の名も見られます。本文の「卒」の一覧に「目明」の名が出るように、仙台藩では「目明」は公に認められた存在で、町人でありながら行政組織に組み入れられ、禄も支給されています。
 この「目明」がどのくらいの人数いたかですが、これもあまり確かではないのですが、1人だけであったようです。ただ、それ以外にも香具師の元締めや、被差別民の棟梁なども犯罪捜査に協力したようで、国分町の香具師の元締め「小竹屋長兵衛」の名も出てきます。
 在郷の犯罪捜査・捕縛に携わる者としては「徒者取締役(いたずらものとりしまりやく)」があるのですが、これはもっぱら百姓の博打や喧嘩等軽微な犯罪の取り締まりにあたる在郷役人で、武士の犯罪や重罪の犯罪には町同心や目付、御小人目付などが城下から在郷まで出向いて捕縛の任に当たったようです。町同心が城下を離れ、在郷まで、場合によっては他藩の領内まで出向くのは江戸町奉行所とは異なる点です。


 
 注7)「三百人町(さんびゃくにんまち)」
 寛永の頃、若林城が造られると、「奥州街道」はこの交差点を通るように変更され、この交差点から右(南方向)は「南染師町」となります。「三百人町」はそれ以前からあり、この交差点から東方へ直線に800mほど続く鉄砲足軽の町です。仙台伊達家発祥の地、(福島県)伊達郡出身の譜代の臣です。
 明治以降の「三百人町」はこの道路の両側のみで、その北側は、「成田町」、「表柴田町」と続くのですが、江戸初期の「三百人町」は、それらも含んだ町でした。
 
画像

 すぐ目の前の高架は東北新幹線のもの、その奥の低い高架は東北本線(在来線)のものです。「三百人町」はその先まだまだ続きます。
画像

 



 注8)「南五十人町(みなみごじゅうにんまち)」
 上記「三百人町」の1本南の通りに面する町がこの「南五十人町」です。町の東西の長さは「三百人町」と同じです。こちらも足軽衆の町です。
画像

 五十人町というのはもう一つ、「中島丁」の西、「角五郎町」に隣接して在ります。こちらの方は「北五十人町」と呼ばれています。「南五十人町」は、省略して「五十人町」と呼ばれることも多いのですが、「北五十人町」の方は省略されることはまずないです。
   ・北五十人町
   信号の所から奥(西方向)が「北五十人町」です。
画像

   ・「北五十人町」の西端、「滝前丁<通り>」の「来迎寺」と「北五十人町」の標柱
画像

 ちなみに、この「来迎寺」には蒙古襲来時の供養碑と伝えられる「もくりこくりの板碑」があります。蛇足ながら、「もくりこくり」とは「蒙古・高句麗」が訛ったものではないか、と言う事だそうです。
 



 注9)「六十人町(ろくじゅうにんまち)」
 現在の新幹線・東北線の高架を境として、東側が「六十人町」、西側、奥州街道・穀町までが「畳屋町」です。この「畳屋町」がいつから出来たのかはよく分からないのですが、開府当初はこの「畳屋町」の所も足軽町でした。その後、寛文の絵地図ではこの「畳屋町」の所に石田将監(名取郡岩沼住)の下屋敷(上・中級武士の中には仙台屋敷の他に領内に下屋敷を持つ者も多かった。正宗公に殉死したのはこの下屋敷かもしれない。)が見いだせます。
画像

 



 注10)城下の外の下級武士の街区
 この様に、城下の外に下級武士の町があるというのはそれほど珍しい事ではないようです。よく知られた例を挙げますと、江戸幕府の「八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)」がそれにあたるかと思います。
 武蔵の国と甲斐の国の境、甲州口に慶長5(1600)年に置かれた武士団です。旗本身分の組頭10人に率いられた10組、1000人の長柄槍足軽から構成されていました。甲州口の警備と、日光勤番が主な役目でした。
 この「八王子千人同心」が置かれたもう一つの理由には、武田遺臣の処遇という面もあったようで、この辺も仙台の例とも似通っている所があります。

 ただ、仙台藩の場合は上記のような理由の他の理由でも城下の外に武家屋敷が存在します。むしろ、こちらの例の方が多いです。
 江戸幕府も含めて、江戸時代の諸藩には大変稀なのですが、仙台藩はほぼ完全な「地方知行制(じかたちぎょうせい)」を敷いていました。つまり、上、中級家臣のほとんどが知行地宛行(ちぎょうちあてがい)となっており(「給主組」以外の下級家臣は切米や扶持米。また、「平士」身分の中にも切米や扶持米の者は多い。)、知行地に居館や屋敷(規模によって「城」、「要害」、「所」、「在所」、「在郷屋敷」等と呼ばれる。対する仙台城下の屋敷は「仙台屋敷」)を持ち、そこを拠点に知行地経営を行っていました。禄高によって規模の大小はあるのですが、下級家臣・足軽の屋敷地や寺町もあることもあり、小城下町の様な町並みが領内の要所々々にあったということです。
 現在これらの多くは宮城県・岩手県の”地方小都市”となっています。「白石」、「亘理(わたり)」、「佐沼」、「登米(とめ)」等がその例です。 









<「寺社地」もこの回に含める予定でいたのですが、スペースが少なくなってしまいました。次回に回します。>

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。私にはちょっと難しいところもありましたが,名掛丁,舟丁,三百人町などは身近でおもしろかったです!
リアルET
2017/08/07 23:43
ET先生、おはようございます。

 あれもこれもと欲張りすぎて、だいぶ煩雑になってしまいました。ちょっと反省です。
 このテーマは後2回か3回で終わる予定なのですが、「〇番丁」のシリーズはあと数回続く予定です。もう少し分かりやすくなるように工夫をしてみようと思います。
あきあかね
2017/08/08 08:08

コメントする help

ニックネーム
本 文
東〇番丁最大の謎(その6) flom 仙台/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる