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zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その5)

<<   作成日時 : 2017/07/31 16:32   >>

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 前回までで商人、上・中級武士達の居住区が定まりました。これらは新しく切り開かれた「新・城下」に無事収まったわけですが、まだまだ多くの住民たちが残っています。これらの人々の住むところは何処に、どのようにして定められたのでしょう? もう、「新・城下」にはあまり土地が残っていません。
 今回と次回はその話になります。



*川内大工町(かわうちだいくまち)
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 (この通りは「元支倉丁<通り>」で、右手側が「川内大工町」です。江戸期を通しての絵地図には「職人衆」と書かれています。お城の建築や修繕に係る、いわゆる「御大工衆(おだいくしゅう)」が集住した町です。)





*図1):職人、諸職人の町割り(開府初期)
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 (赤色の太線は、開府当時の奥州街道と大町通。
  赤色の細線は、開府時に切り出された城下。
  青色の細線は、国分氏時代の建造物が残っていたと思われる範囲。
  水色に塗った部分は湿地、黄緑色の所は丘陵地。

  諸職人の町は、濃い山吹色に塗った部分。
  町職人の町は、薄い山吹色に塗った部分。)







 C諸職人、町職人の居住区を定める
 江戸期の城下町の住人である”職人”は、その身分・待遇から二種類に分けられます。

「諸職人」
 一つは、藩に直接召し抱えられ、禄や俸給をもらって使役する人々で、公式文書や絵地図には「諸職人(しょしょくにん)」と書かれています。多くはお城や侍屋敷の建設、修繕に携わる人々や、お城の石垣や修繕などに携わる人々で、「御大工衆(注1)及び、「石工衆」、「石垣衆(注2)等と呼ばれます。この二職が「諸職人」の主だった者たちです。
 この他の諸職人としては、人数は少ないのですが、鎧兜、武具の作成や修繕を行う「兵具方(注3)が居り、これは大橋の南、「枇杷首(びわくび)」の所に住み、「日影町(ひかげまち)」と呼ばれていました。
 他の城下町の例にあるように、御殿で使用する調度品や茶道具の製造を行う「御細工方」の人々もいたとは思うのですが、絵地図や史料からはそれを見いだせませんでした。人数としては少数ですので、あるいは「坊主町」に茶坊主たちと共に住んでいたのかもしれません。また、職種が分からない、単に『職人衆』と書かれた所もいくつかありますので、そこがそうなのかもしれません。今後の課題です。
 これらの「諸職人」は、原則としてお城に近い所、新城下の西側に住居がありました。そして、これらの人々は藩から禄をもらって仕えてはいましたが、武士ではありませんので、これらの人々が集住した場所は”丁”ではなく、「〜町(まち)」と呼ばれました。ただ、これら諸職人の町は、公には町名がつけられることはなく、絵地図などでは『職人衆』とか、『職人屋敷』とか書かれることが常でした。
 これら「御大工衆」や「石垣衆」は、平時は城屋敷の修繕や整備、戦時には砦造りや塹壕堀等の”工兵隊”のような働きを行うため、旗本足軽同様の扱いでした。したがって、これら「諸職人」の町は基本的には仙台城近くの武家地の間の不定形の区画に配置されました。(図1の濃い山吹色の部分)



「町職人」
 もう一つの”職人”は、一般向けの商品を作る人々です。これらの人々は、特定の商人に直接雇われているか、専属契約を結んで、その求めに応じで商品を製造していました。これらの人々は、一般には「町職人(まちしょくにん)」と呼ばれていました。
 江戸時代の極初期にはまだ工業は十分に発達していませんでしたので、多くは商人の町割りの中に住み、家内手工業的に商品製造を行っていたか、城下の外に小規模な集落で住んでいた(注4)ものと思います。江戸時代初期の正保の絵図では職人町と判断できるものは極わずかです。
 図1には3ヶ所、その少ない職人町を薄山吹色で記入しました。
 奥州街道の南側、北目町と田町に挟まれてあるのが染色業の町「染師町(そめしまち)」です。現在の青葉区五橋2丁目、五橋中学校の西裏付近になります。(注5)これは明治以降に「上染師町」と名前を変えます。

 図1の大町通の北にマークしたのは「鍛冶町」(注6)です。この「鍛冶町」は、寛永の末頃(おおよそ1630年代)に奥州街道の北側、北四番丁通の少し南〜北六番丁通の少し南(後に北四番丁通角〜北七番丁角と、範囲が変化した)へと移転し、この場所は「元鍛冶町」という名に替わり、侍町になります。そして、移転した「鍛冶町」も同時期に出来た「南鍛冶町」との関連から「北鍛冶町」という町名になります。
 後の時代の南北の「鍛冶町」は、「鍛冶町」とは呼ばれていましたが必ずしも鍛冶職だけが住んでいたわけではなく、他の商人や職人も住むようになります。特に、北鍛冶町の場合、そのすぐ北に時代が下ると共に他の職人たち(特に畳職)(注7)が多く住むようになり、北鍛冶町との境が分かりにくくなりました。

 時代が下りますと、これら「町職人」の数も増え、「職業別集住制」の導入もあって、その職種の名を冠した町(例えば「畳町」、「紙漉町」等)も増えてきます。これら「町職人」の町は、城下の周縁部、街道に沿って設けられました
 また、後に述べる足軽、小人等の下級武士は、その少ない禄を補うために内職を始め、それが専業化して職人町化してゆきます。





 注1):御大工衆の町
 冒頭の「川内大工町」はその「御大工衆」の町の一例です。このような「御大工衆」の町は前例の他に、元寺小路の東端に「大工町」、現在の八幡1丁目の所に「江戸町」があり、(図1をご参照ください)また成立時期が定かではないのですが、寛政の頃に一時、現在の通町辺りに「北大工町」という町が置かれたこともあります。
   ・元寺小路東端の「大工町(だいくまち)」
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 (「何処なんだ!」と言われそうです。実は、この「大工町」は、そのほとんどが拡張された広瀬通と、新宮城野橋で消されてしまいました。昔の元寺小路をご記憶の方は、元寺小路の東五番丁通と東七番丁通の間辺りだ、と思ってください。)
 (この「大工町」は、荷車等を作る「車大工」だったようです。お城から離れたこの場所であるのも、「小田原車町」に近いのもそれで納得がゆきます。
 ちなみに、小田原・原町は南部米の牛車輸送で栄えた町です。)


   ・「江戸町(えどまち)」
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 今私が立っている足元には暗渠になった四谷用水の本流が流れています。この四谷用水の本流は、写真中央の白いガードレールの所から再び開渠となって、北六番丁通へと続きます。
 この四谷用水本流の右手側が「江戸町」です。1枚目の写真の道標は、2枚目の写真の中央付近、道路標識の後ろに建っています。
 「仙台地名考」に拠りますと、開府初期に江戸から『八人扶持五両切金』で呼び寄せた大工の棟梁黒瀬清四郎政則とその配下の大工衆の出身が江戸であったことから名づけられた町の名だそうです。
 しかし、それは通称だったらしく、江戸期の絵地図にはこの町の名は出てきません。後述の石垣衆でも同様なのですが、江戸期の絵図では『足軽衆』とか、『職人屋敷』、『御大工』等の記述になっています。ちなみに、大正15年の市街図では『エドヨコ丁』と、道の名にそれが使われていました。


   ・「御大工棟梁の屋敷」
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 ここは、藤の花の名所「半子町(はんこまち)の藤屋敷」、千田氏邸です。江戸時代、代々「御大工棟梁」を務めた家柄です。
 「御大工棟梁」の屋敷の大きさは、「仙台惣屋敷定」に拠りますと、間口12間、奥行き25間ですので、おおよそ300坪。足軽組頭の敷地よりかは50坪ほど広く、100石以下の中級武士の屋敷とさほど変わらない大きさになります。



   ・「角五郎町(つのごろうまち)」
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 「角五郎町」は、江戸期の絵地図には『職人衆』と書かれているのですが、職種が今のところ判然としません。町の規模や置かれた場所から想像するに、ここも「御大工衆」の町ではなかったか、と思います。もしかすると、「御大工衆」でも、橋大工とか、治水土木の業種の方だったかもしれません。

 この「角五郎」なのですが、「〜町(まち)」と「〜丁(ちょう)」の呼び名の揺らぎがあります。現在の街区名は「角五郎一丁目」、「角五郎二丁目」となっているのですが、これらを総称する場合、現在は「角五郎丁(ーーちょう)」の方が多数のようです。
 江戸時代は、正しく「角五郎町」だったのですが、明治に入り住む人も増えて、「角五郎町」が河岸の方まで拡張され、「角五郎新丁」、「角五郎表丁」、「角五郎裏丁」と分かれました。この時明治政府のお役人さんたちは「通り=丁」という考え方なものですから、「〜丁」と表記してしまったようです。したがってこれ以降、大正15年の市街図は別として、「角五郎丁(つのごろうちょう)」という呼び方の方が主流になってしまったようです。



 注2):石垣衆の町
 石垣衆の町は、寛文、及び延宝の絵地図に「石切」として二か所出ています。
 一か所目は先ほどの御大工衆の町「江戸町」の東、覚性院丁との間の町で、大正の地図に「石切丁」と出ている所です。現在は通りの名にのみそれが残っていて、「石切町通」となっています。
 二か所目は、現・若林区南材木丁の東隣の町で、南材木丁小学校とその北の一角の街区で、「南石切町(みなみいしきりまち)」と呼んでいます。
 この二か所の石工衆の町が開府当初から在ったかどうかは不明なのですが、すくなくとも「南石切町」は、第一次城下拡張計画(寛永5年以降)の事と思います。正保の絵図ではこの場所は何も書かれていない空き地なのですが、寛文の絵図では『石垣衆』という記述があります。
 江戸町東の「石切町」は、正保の絵図の同じ場所に「御足軽衆」と出ている所がそれなのかもしれません。石垣衆は「御作事方足軽」とも呼ばれていましたので。
 寛永5年以降になりますと、現・荒町の南に「石垣町(いしがきまち)」が造られます。こちらは、現在もその名を街区の名に残しています。


   ・「石切町(いしきりまち)」
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 「へくりざわ」に架かる「石切橋」です。「へくりざわ」は、今はほとんどが暗渠になっていますので、この橋も遺物のような存在です。でも、この橋と建物の間の隙間から、ほんのちょっとだけ「へくりざわ」が見られます。

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 この通りは八幡町へと通じます。この通りの両側と、先ほどの「石切橋」周辺が「石切町」です。

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 今も残る石材店と、この町の氏神「瀬田谷不動尊」です。ちょうどこの撮影日(2017年7月27日)は御祭禮の日でした。


   ・「南石切町(みなみいしきりまち)」
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 写真左手が「南石切町」です。この名は現在の街区名にも生きています。
 写真右手は「八軒小路」、その先の交差点から先は「新弓ノ町」です。この両者共に江戸時代から続く町の名です。


   ・「石垣町(いしがきまち)」
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 あまり良い写真ではありませんが…
 今私が立っている所はまだ「土樋(つちとい)」です。この先、通り(昭和市電通り)を越した先が「石垣町」です。この「石垣町」は荒町の通りに突き当たるまで続きます。全長400m弱の短い町です。




 注3):兵具方の町
   ・「日影町」
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 今私が立っている所は仙台七坂のひとつの「藤ヶ坂」で、目の前の銅板葺きの屋根の神社が「藤坂(ふじさか)神社」、そしてその下の道の向こうに広がるのが「日影町」です。
 この「藤ヶ坂」は、坂上が「中町段丘」、下は「下町段丘」で、その間の段丘崖は10m余りの高さです。「日影町」は、この段差の所為で日当たりが悪い”日陰、(日影)”の町という事でこの名が付きました。勿論、これは通称で、江戸時代の絵図では『職人衆』とか『職人屋敷』とかの記述です。
 「日影町」の町名が正式なものとなるのは明治中期以降の事ですが、現在は青葉区大手町に包含されてしまっています。


   *職種不明の「職人衆」
 正保と寛文の絵地図で、片平丁の柳町近くに、上級武士屋敷と中級武士屋敷に隣接して町屋敷数軒分の「職人屋敷」の区画があるのですが、これについてはその職種が分かりません。米ケ袋に近いことなどから武具製造(鞍とか、弓等)ではないか、と思っているのですが…






 注4):城下の外に居た職人たち
 「職業別集住制」の後に城下に出来た「南染師町」は、開府当初には、当時まだ城下の外であった「越路」(鹿落ち坂の坂下、現在の「御霊屋下」辺りを指す)に住んでいました。御霊屋建設の際(寛永13年/1636年)、この土地を明け渡して現在の七郷掘り沿いに移り住み、町の名を「南染師町」としました。移り住んだ当初の軒数は6軒だったそうですが、寛文の初め頃には11軒にまで増えたそうです。
 「図1」では薄い山吹色の線で囲んでおきました。




 注5):「(上)染師町(そめしまち)」
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 寛文の絵地図まではこの町は「染師町」と記されています。しかし、明治以降になると、後に出来た「南染師町」との兼ね合いから「上染師町」と呼ばれるようになり、大正15年の市街図には「上染師町」と出ています。現在は、五橋2丁目の街区に包含され、その名も忘れられているのですが、土地の古い人の中には上の写真の左右に横切る道を「染師町通(そめしまちどおり)」と、今でも呼ぶ人がいます。




 注6):「鍛冶町(かじまち)」改め「元鍛冶町(もとかじまち)」
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 この写真は前回もご紹介しましたので、説明は省きます。


   ・移転した先の「北鍛冶町」
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 「仙台駄菓子」で有名な「熊谷屋」さんです。この店は元禄8(1695)年からこの場所にあるそうです。地割も昔のままのようです。
 現在、この「北鍛冶町」には一軒も鍛冶屋さんがありません。母の話では、昭和40年ごろまでは鍛冶屋さんが1軒あった、との事ですが、私は記憶がありません。




 注7):北鍛冶町の畳屋さん
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 北六番丁通角の少し北にある「安田畳屋」さんです。このお店も、確か元禄4年とか8年とか聞いています。
 建物はおそらく戦後の物でしょうが、その構造に江戸時代の雰囲気を残しています。絵図などで見る仙台の江戸時代の職人の家は概ねこれと似た構造(瓦葺でなく、板葺屋根ですが)になっています。
 通りに面した家屋は、疑似二階建てで、店舗兼作業場です。屋根裏は材料置き場などになっていることが多いです。作業場の奥には四畳半か六畳くらいの小座敷があって、客を招き入れたり、従業員の休息スペースに利用していたりします。さらにその奥は細長い母屋となっています。それぞれの屋根の高さが違うことにご注目ください。










 次回は下級武士たちの居住区と、寺社地の処遇についてお話します。
 下級武士たちは、居住区の面積とすれば中級武士達の居住区の面積よりやや少ないくらいなのですが、人数ははるかに多く、7000人近くになります。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
仙台の○○町については実はほとんど知らないので勉強になります。気になったのは「仙台七坂」という言葉です。
東京には江戸情緒を残している坂を集めている人がいるそうですが(会員2名のうち一人がタモリ氏),仙台七坂についてもいつか教えていただけたら嬉しいです。
リアルET
2017/07/31 21:11
ET先生、おはようございます。

 2年ほど前になりますが、「夏の坂道」という題でこの「仙台七坂」の一部を紹介したことがありました。その記事は消去済みですし、あれからだいぶたちますので、近いうちに「仙台七坂」の題名で一括ご紹介しようかと考えています。

 ほかの城下町でもそうなのですが、仙台にも数字を冠した名所尽くしというのがいくつかございまして、「仙台七崎」などと言うのもあります。こういったものも順次ご紹介できれば、と思っています。
あきあかね
2017/08/01 08:15

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