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zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その3)

<<   作成日時 : 2017/07/22 10:10   >>

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 前回お話しした経緯で基準線が定まり、城下町造りが始まったのですが、それにはどのような要因の制約が関係し、その結果は町の形にどのように影響したのでしょう。
 今回と次回は、その町造りのお話になります。




*仙台城下の縄張りに使った縄を収めた「野中神社」
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 この野中神社は、仙台空襲で焼け、戦後に復興(昭和21年に仮宮造営、今の社は昭和63年造営)されたものです。
 ビルの隙間にこじんまりと佇むお社ですが、近所の方のお参りが絶えません。
 本来は仙台城下鎮護の神社なのですが、”縄”に因んで縁結びのご利益を求める参拝客が多いようです。









2)仙台城下の建設(1600年〜1628年)

 A”町”を割り振る
 織田信長、豊臣秀吉が自らの支配地に行った経済振興策「楽市楽座」及び、豊臣秀吉が京都の復興策として行った町割の手法「天正地割」は、近世の城下町の町割「両側町(りょうがわまち)」へと姿を変えました(注1)。仙台城下もこれを踏襲しています。


 城下の地割は先ず”町”(注2)を割り振ることから行われました。
 伊達氏は、以前の根拠地の米沢や岩出山でも城下町を造り各地から商人を集めていましたので、まずはそれら”譜代の商人”たちが優先的に割り振られました。これら譜代の商人たちが集められた町は「御譜代町(ごふだいまち)」と呼ばれ、町の序列「町列(まちれつ)」の内でも上位に位置し、格別の待遇を受けていましたし、城下町の行政での大きな役割も担っていました。
  ・図1:初期の頃の町割り
     「仙台市史 近世1」p98 図65をコピー、加筆
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 (この図は、仙台開府から20年ほど過ぎた寛永元(1624)年前後の姿です。
 濃い赤色に塗ったところが6町ある「御譜代町」です。)

 御譜代町でも上位に位置する「大町(おおまち)」は、大手門に近い街道筋に配置されました。この「大町」は、唯一例外的に(注3)一丁目〜五丁目の五つに区分されていました。ただ、行政的には一丁目、二丁目と三〜五丁目の2区分であったようです。この大町三丁目〜五丁目は「町列」の筆頭として芭蕉の辻を挟んだ街道の両側、城下町の中心に位置することとなります。
 そして、大町以外の御譜代町も、「南町」は奥州街道沿いに、「荒町(注4)はその隣のお城に近い位置に、「立町(たちまち)」、「肴町(さかなまち)」、「柳町」は大町に隣接して、これまたお城に近い位置に配置されました。

 次に行われたのは、この地の地侍、「国分氏」に仕えていた商人たちの処遇です。この商人たちは東街道沿い、国分寺周辺から南小泉にかけて住んでいました。これらの商人たちは新しくできた城下への移住をさせられます。
 (この事は、「C諸職人、下級武士の居住区を定める」の項に関連してきます。そして、今回の”謎”の一端にも…)
 大町四丁目の北辺に、奥州街道沿いに設けられた町は国分氏に因んで「国分町(こくぶんまち)」と名付けられます。同じく国分氏の配下にあって、毎月”二”の付く日に市を開くことを許されていた商人たちは、この「国分町」の北に接して「二日町(ふつかまち)」となりました。
 これら国分氏に仕えた商人たちは、東街道を行き交う人々、物資の物流や宿泊にかかわっていたと想像され、新城下の「国分町」では伝馬の役を、「二日町」では旅篭町としての機能を担わされます。
 (「国分町」にも後に対外諸藩の要人を泊める「外人宿/がいじんやど」が設けられます。)
 同様に、東街道沿いの古代の官衙(かんが)の跡、名取郡北目の地(現・太白区郡山)に住んでいた商人達(北目衆)は、南町の南端に接して、奥州街道沿いに設けられた「北目町」に移住させられました。こちらも同様に伝馬の役が賦せられます。

 「日形町(ひがたまち)」も、延宝6〜8年頃に「新伝馬町(しんてんまち)」と名が変わるように、伝馬役を担った町なのですが、由来や成立時期が定かではありません。山形の西磐井郡に「日形村」という所があるので、ここの人々が米沢→岩出山→仙台と、正宗と共に移ってきたとも考えられるのですが、いずれにしろ、開府当初はこの「日形町」は十分な機能をはたしていなかったのでは、と推量しています。と、いうのも、この時期はまだ「石巻街道」は十分に整備されていなく、城下の東の端の「日形町」の伝馬役の必要性は薄かったはずだからです。それが証拠には、石巻街道が機能し始めた寛文以降に「新伝馬町」という名が興ってきます。

 奥州街道の南の入り口に置かれた「田町」は、仙台城建設の際に特に功労があって新たに取り立てられた商人達で、紙の専売を許されました。奥州街道の南の玄関口という重要な位置に配されたことから、当初は「仙台指入御通町(せんだいさしいりおとおりまち)」という別称もありました。

 「立町」の北に位置する「本材木町(もとざいもくまち)」、「材木町」ですが、少なくとも「本材木町」は材木を扱う町として開府当初から在ったようです。その時期には単に「材木町」と呼ばれていました。
 まだ勉強不足で、確証はないのですが、以前読んだ本に、この「本材木町」と「材木町」は開府当初は一つの町だったのだが、木材の専売権をめぐるトラブルで二つの町に割れ、南の方は「本材木町」となり、北の方は「材木町」となって、木材の専売権はこの「材木町」だけが持つようになった、とありました。残念ながら、この本の名前を忘れてしまい、今、確認がとれません。
 手元の絵地図の内、「奥州仙台城絵図」(正保2年/1645年)では両所共に「材木町」ですが、「仙台城下絵図」(寛文4年/1664年)では「本材木町」と「材木町」に分かれています。この間の約20年でそのような事があったのかもしれません。
 「本材木町」の名は後世まで残り、現在の行政区画では立町に包含されていますが、通りの名には残っています。
 「材木町」は、後に「北材木町」となり、単に「木町(きまち)」とも呼ばれ、現在ではその「木町」の名が使われています。


 以上が”町”で、「本材木町」と「材木町」をひとつの「材木町」と見做し、「大町一丁目〜五丁目」もひとつの町と見做せば、12町が開府当初に設置された”町”という事になります。
 「北鍛冶町」、「本鍛冶町」、「染師町」はいずれも職人町ですので、Cの項でお話いたします。
 いずれにしろ、これらの”町”は、街道沿いと、城の正面に置かれたことが見て取れると思います。





  注1):「天正地割」、「両側町」
 この辺の、「町の構造」に関してはいつか別の機会を設けてお話ししようと思います。とりあえず、ここでは、古代・中世の条坊制によって作られた「四面町」の欠点、”通りに面しない区画の中心部が空き地となり、利用効率が悪い”という事を、その区画の真ん中に道を通す事によって解消したのが豊臣秀吉の「天正地割」。さらにそれが進んで、最初から街道の両側に商人を集めて”町”にしたのが「両側町」、というような認識でいていただければよいかと思います。



 注2)「町」について
 ここでは煩雑になるのを避けるため、「町」についての詳述を割愛しますが、「町」と「”町”」の書き分けをしたことについて少しだけ説明をしておきます。

 現在「町」という言葉には複数の意味が含まれています。一般に、「まち」と呼んだ場合は行政区画の最小単位を意味し、数字を冠して「ちょう」と呼んだ場合は近世の距離の単位(1町=60間)を意味します。
 さらに、これは時代によって意味が異なってきます。
 元々中国においては「町」は水田の1区画を意味していました。古代、これが日本に入り、条坊制の下で都市の区画の名称及び単位として、「1町=40丈(約120m)四方の都市区画の意味になります。
 中世に入ると、この距離の意味は薄れ、単に都市の区画の最小単位の意味になります。
 盛んに城、城下町が造られた近世初期においては、「町」は商業特権(その権利に対する義務として”町役/まちやく”を負担する)を付与した商人たちを集住させるための区画の意味でした。つまり、職人地や寺社地、宿場などは”町”ではなかったのです。
 しかし、これも時代が下ると共に意味が拡大され、年貢を課される百姓地以外の区画すべてを「町」と呼ぶようになります。ただ、元の意味は意識していたようで、単に「町(まち)」と言った場合は町奉行の支配地の範囲を意味し、それ以外は「侍町」、「寺町」、「門前町」、「宿場町」等の呼び分けはしていたようです。ただし、「職人町」は、かなり早い時期に”町”に組み入れられています。でも、権利義務関係は”町”とは少し異なります。

 今回の私の記事では、この様な混乱を避ける意味で、最も狭い意味(商業特権を付与した商人たちを集住させた区画)については「” ”」で囲んだ「”町”」を使い、「町」は広い意味での行政区画の最小単位の意味で使用することとしました。
 なお、距離の単位の「町(ちょう)」に関しては、特に紛らわしい場合には「(距離)」とルビを入れることにいたします。



 注3):「大町」における例外
 ちなみに、この大町にはもう一つ仙台城下の町としては例外的なことがあります。仙台城下の通りの名称は、「〜へ通じる道」という意味を込めて命名するのが基本則です。例えば、「定禅寺通」は「定禅寺」へ通じる道で、その端に「定禅寺」が在りました。しかし、「大町通」は「大町を通り抜けている道」の意味です。これと、城下を通る奥州街道と、その街道に面する町を総称して「通町(おとおりまち・とおりちょう)」と呼ぶのだけが通りの命名規則の例外になります。



 注4):「荒町」について
 「荒町」は、江戸時代初期にはこの位置に在りました。寛永4、5年〜元禄8年頃にかけて現在の地へ移転しています。移転後はこの場所は「本荒町(もとあらまち)」と呼ばれ、侍町となりました。
 現在この「本荒町」は、戦後に出来た青葉通りによって消滅しています。
     ・「本荒町」の石碑
         青葉通り、「晩翠草堂」前

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 ちなみに、「荒町」というと荒物屋さんが集まった町かと思われがちなのですが、専売品は麹(こうじ)です。現在でも麹屋さんや味噌・醤油の製造元などが何軒か残っています。
 この商人たちが米沢に居た頃、この町は「新町」と書いて「あらまち」と読ませていました。仙台のこの場所に移ってきた際、この場所が歌枕の萩の名所「本荒の里(もとあらのさと)」と勘違いしたため、”新”を”荒”と改めて「荒町」としたのだそうです。





 この様にして、街道沿いに町が造られたわけですが、それでは最も多い人口だった武士たちの居住区はどのようにして定められたのでしょう?
 また、職人たちは?
 以前からあったお寺は?
 次回はその話をしてみます。

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