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zoom RSS 東〇番丁最大の謎(その1)

<<   作成日時 : 2017/07/10 09:29   >>

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 前回の最後で、
 『東一番丁通〜東五番丁通と東六番丁通〜東九番丁通は何で平行じゃないの?』
と、疑問を投げかけたままになってしまったこの問題に、今回取り組んでみようと思います。





*地下鉄南北線「五橋(いつつばし)駅」付近
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 仙台市中の交差点でもトップ5に入るくらい交通量の多い交差点ですので、車の途切れを狙っての撮影はなかなか大変です。この写真も15分ほど粘ってようやく撮れました。
 左手奥から入ってきているのが「東二番丁通」、右手奥から手前に直線で伸びているのが「清水小路(愛宕・上杉通の一部)」です。この交差点で狭い”Y”字型に合流しています。

 以前、ブラタモリで流れた映像はもうすこし荒町寄り(背後方向)からの映像だったように思います。
 録画を撮っていなかったので、よく憶えていないのですが、城下町というものは概して碁盤の目のように整然と道路が交差するのに対し、この場所では”Y”字型に交差している、不思議だなあ、というようなことだったと思います。その原因について「若林城」を持ち出していたように記憶しているのですが、その辺のところが記憶があいまいです。

 実は、この問題に関してこの場所を例に持ち出すのに私は少し抵抗があります。ま、映像的にはこの場所はうってつけかもしれないのですが…
 実は、この場所でこのように”Y”字型に交差する風景が出来上がったのは新しい事なんです。この”Y”字型の合流交差点は、昭和50年代に五橋中学校の敷地を削って作られました。それ以前は、東二番丁通は五橋中学校の正門前で五橋通りに丁字型に交わり終わっていました。昭和51年の市電廃止に続く形で、当時「街中(国道)4号線」として車の通行が多い東二番丁通の改修が行われ、その目玉としてこの工事が行われました。
      ・昭和39年の付近地図
        二万五千分の一地形図
        「地図で見る仙台の変遷」㈶日本地図センター
          から部分コピー、加筆

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      ・昭和52年の付近地図
        二万五千分の一地形図
        「地図で見る仙台の変遷」㈶日本地図センター
          から部分コピー、加筆

画像

 この地図では五橋中学校のど真ん中を新しい道路が貫いてしまって、五橋中学校は敷地の半分を失ったように見えますが、同じ敷地に在った「仙台女子商業高等学校」が昭和32年に国見に移転して、その場所のほとんどが新しい道路に提供されましたので、実質は校庭が多少狭くなった程度でした。ただ、正門の位置は北側から東側へと移動しています。
 当時、私は東京にいて詳しいいきさつをつぶさに見聞きしたわけではなかったのですが、敷地を削られた五橋中学校のOBからはかなり不満や嘆きの声が出たように漏れ聞いています。



 しかし、この仙台城下の南北の道路の傾きが二種類であるのは古くから「仙台城下の謎」のひとつでした。以前の回で使用した「東〇番丁、北〇番丁」の地図を再び持ち出してみます。
      ・「番丁の範囲」
        国土地理院五万分の一地形図「仙台」
          を部分コピー、加筆

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 赤紫の線が北一番丁通〜北九番丁通。青い線が東一番丁通〜東九番丁通です。
 北〇番丁通がほぼ直線で平行であるのに対して、東〇番丁通の方は、真北に対して東一番丁通〜東五番丁通は西へ少し傾き、東六番丁通〜東九番丁通は東へ少し傾いています。つまり、二つの傾きのグループがあるという事です。
 比喩的な言い方を許していただけるならば、まるで銀河の合体のように、二つの街が今まさに一つになろうとしている姿にも見えます。

 試みに、東一番丁通と東七番丁通の真北からの偏倚角を測ってみました。計測に使用した地形図は最新版(昭和52年第2回改測 平成19年更新)の二万五千分の一地形図、「仙台東北部」です。
 結果、東一番丁通は、西偏約16度、東七番丁通は、東偏約9度でした。おおよそ25度の角度差があるという事になります。
 この地形図をつらつら眺めますと、東六番丁通を境として、西の城下町と東の城下町が尻相撲をしているような想像も湧いてきます。このような町割りはどうして生まれたのでしょう?


 私がこの疑問を抱いたのは今から50年ほど前、地形図に興味を持ち始め、色々といじくりまわしていた中学生の頃でした。その頃は、『これは町造りの間に生じた磁北の変化かもしれない!』等と見当はずれなことを勝手に想像し、興奮していました。
 しかし、長ずるに従って仙台城下の事を少しは学ぶようになると、仙台城下の成立過程で影響したいくつかのファクターの所為ではないかと思い始めました。





1)このファクター(要因)について
 そのファクターとは、
   @開府以前からあったものによる制約。
   A地形的な制約。
   B時代のニーズ。

と、いう事になろうかと思います。

 このファクターが仙台城下の形成にどのように関わったのかを考察する前に、このファクターがどのようなものであったのかをもう少し詳しくお話しておこうと思います。
 @開府以前からあったもの
 仙台城下は何もない荒野に造られた、とよく言われるのですが、決してそのようなことはありません。確かに、仙台城下の中心部であった大町、国分町、二日町等、東二番丁通の西側は、「東奥老士夜話(とうおうろうしやわ)」等で『一面葦原の野谷地』と書かれていたように、人家、集落、田畑も無い荒野でした。
 しかし、東二番丁通の東側には古代、中世を経た集落や寺社が散在していました。
     ・開府以前の寺社、集落、東街道
        国土地理院五万分の一地形図「仙台」
          を部分コピー、加筆

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   注):調査がまだ不十分で、寺社、集落の範囲についてはあまり正確ではありません。
 オレンジ色に塗った部分が寺社、”町場”が残っていたと思われるところです。
 特に注目しておかなければならないのは、古代の官道「奥大道」(いわゆる”奥州道”)が中世に至って変化した「東街道(あずまかいどう)」と、その周辺の集落だと思います。上の地図に紫色の線で記したものが(推定)「東街道」です。
     ・東街道踏切と旧・東街道
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 若林区河原町2丁目と文化町の境、東北本線に架かる踏切です。ここから北へ、宮城野原にかけて土地の人々が「東街道」と言い伝えている道が伸びています。
 この東街道の沿線、「国分寺」辺りと、「原町(はらのまち)」辺りには中世の町人町が在ったのではと推定されます。
 また、この東街道の東側、現在の南小泉一帯は古代から引き続き稲作を営んでいた集落も散在していたはずです。



 A地形的な制約
 私の以前のブログでも、仙台城下は上町、中町、下町、三つの河岸段丘上に造られた街だ、という事を書いてきました。町暮らしをする上での水利には、この河岸段丘は湧水に恵まれ、その傾斜は用水路を張り巡らせるのに至便です。しかし、その反面、後背地の丘陵からの自然河川の流入や氾濫、段丘崖からの湧水が自然のくぼ地に溜まった低湿地も大きな面積を占めていました。
     ・開府以前の原風景
       仙台市史近世編2 p162第105図をコピー、加筆
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 上の図の水色に塗った部分がその低湿地です。これらの低湿地は相当の労力を費やさなければ住むことは困難だったはずです。

 また、上の図で黄緑色に塗った部分は自然丘陵で、これもまた道路を通す上や町割りをする上での制約になったはずです。



  B時代のニーズ
 これに付きましては、仙台城下の形成を時代を追って説明する中で、上記二つのファクターを絡めながら考察してゆこうと思います。



<<次回に続く>>

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