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zoom RSS 東六番丁〜東八番丁

<<   作成日時 : 2017/07/05 15:58   >>

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 今回は東六番丁〜東八番丁にまつわる話と、前回後回しにしました東三、四番丁の話です。



*ここが東六番丁通?
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 東六番丁は、明治20(1887)年に鉄道が敷かれたときにその大半が仙台駅構内になってしまい、ほとんど痕跡程度になってしまいました。
 で、そこから次のような「?」が生まれています。
3)東六番丁にまつわる話
  ・「東六番丁通」って何処?
 「東六番丁通」がどの通りの事なのかわからない方が増えています。かくいう私も、二年ほど前までは間違って憶えていました。と言っても、まるっきり違う、という事ではないのですが…

 以前、駅東口でタクシーに乗り、
 「東六番丁通を抜けて花京院橋に出て、細横の法務局の前までお願いします。」
と、言ったところ、
 「東六番丁通???」
 「東七番丁をまっすぐ行ってはダメ?」
と、聞き返されました。
 ま、駅東口の前を横切っている通りは東七番丁通で、そこをまっすぐ北へ行けば花京院通(国道45号線)ですので、そこを左折すれば「花京院橋」、順当な道順です。
 でも、私とすれば、東六番丁通を経由する方が信号もなく、近道だと思ったわけです。結局、元来気弱な私は、
 「あ、それでもいいですよ。」
と、折れてしまったのですが…

 で、その時私が思い浮かべていた”東六番丁通”は冒頭の写真の道路の事でした。
 しかし、実はこの道路は「東六番丁通」ではなかったのです。タクシーの運転手さんが「???」となったのも頷けます。
 じゃあ、本当の東六番丁通は何処なのでしょう?
 次の項に続きます。



  ・東六番丁通はどっからどこまで?
 現在の地図で前項の会話の確認をしてみます。
      ・東六番丁小学校付近の現在の地図
         菊全判「仙台市」/塔文社より部分コピー、加筆
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 私が思っていた「東六番丁通」はピンクの太線部分、タクシーの運転手さんが思っていたのは、おそらくですが、オレンジの太線部分です。これじゃあ会話がかみ合わないわけで、運転手さんは、細横方向へ行くのに何で遠回りするのだろう?、と思ったはずです。
 しかしですね、この東六番丁小学校前の通りは現在「宮町通」の一部になっていまして、私の頭には全然ここが「東六番丁通」という意識が無かったのです。
 私も、このピンクに塗った道路を指示するなら「東六番丁通」と言えばよかったのかもしれません。



 この辺のところを、古い地図を引っぱり出して解説いたします。
      ・江戸時代の東六番丁<通り>
        仙台市史近世編3 p92「60図 仙台城下の概略図」をコピー、加筆
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 赤紫の線が江戸時代と明治20年に鉄道が敷かれる前までの「東六番丁<通り>」です。現在の宮町二丁目と宮町一丁目の境から六道の辻まで直線で続いています。
      <宮町二丁目に残る「武家屋敷」>
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 建物は新しい物なのですが、地割、間取りは昔のままだそうです。現在この家が建っている所は宮町二丁目なのですが、新街区区分になるまではこの家までが東六番丁でした。



 さて、明治20年に鉄道が敷かれ、仙台駅ができるとどうなったか、と言いますと、
      ・明治30年の東六番丁通
        明治30年名勝絵入「仙臺明細全図」/風の時編集部
          より部分コピー、加筆

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駅裏部分が、少し東にオフセットさせられるのです。
 この地図はあまり正確でないので、仔細ははっきりしませんが、名掛丁通との交点より北の部分の付け替えが行われたように思います。



 大正15年の地図ではこれがもう少しはっきりわかります。
      ・大正15年の東六番丁通
       復刻版(大正15年)「地番入 仙台市全図」
         /仙台市歴史民俗資料館より部分コピー、加筆

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 「東六番丁通」は仙台駅の北端で終わり、南端以南、北目町通の交点までは道は残っているのですが、「柳町(飛び地として新たに作られた”柳町”なのか、”柳町通”の誤記なのかは不明だが、ここに小さな街区は在る)」に包含されてしまい、通りとしての名称は消滅しています。

 この時期、仙山線・東北本線を渡るための跨線橋が二つ作られます。一つは以前にも何度か採り上げた「エックス橋(宮城野橋)」で、もう一つが「花京院橋」です。
 ただ、この頃の「花京院橋」は、現在の様に花京院通に架けられていなくて、東六番丁通に架けられています。
 つまり、花京院通を東へ、小田原・原町へ向かう人は、東六番丁小学校(この頃は”東六番丁尋常小学校”)に突き当たったところで右に折れ、一旦東六番丁通を通って花京院橋で鉄路を渡ります。そして今度は左折して短い坂道を下り、再び花京院通に戻って小田原・原町方面に向かいました。
 ちなみに、この場所、花京院と小田原車町との間には10m近い段差がありました。今は線路脇の崖にその面影を見いだせるだけになっていますが、これはいわゆる「上町段丘崖」です。
 この頃のことを想像しますに、東西方向の主要道路は、元寺小路or名掛丁ーエックス橋ー二十人町or鉄砲町の経路で、花京院橋は南北方向へ行き交う人の為が主要な目的だったのではないかと思います。



   ・昭和13年の東六番丁通
    復刻版「最新地番入 仙台市街全図」/塔文社
     を部分コピー、加筆

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 前の大正15年の地図と大きな変化はありません。ただ、この地図にはこの当時計画されていた花京院通の延伸(現在の国道45号線)が点線書で記されています。西端が現在のものと異なるのですが、花京院橋以東は現在のものと同じです。
 で、これによって花京院橋と東六番丁通が変わることが予感できます。
 戦況の悪化によって中断した計画は、戦後すぐの昭和21年から昭和26年にかけて順次実現されました。



   ・昭和27年の東六番丁通
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 この地図発行の前年に新しい「花京院橋」が完成し、原町線の市電(市電原町線の全線開通は昭和23年)はこの橋を通るようになりました。この事によってだと思うのですが、この新しい道は、花京院橋以東を「小田原電車道(おだわらでんしゃみち)」と呼ばれるようになります。
 そして、この新しい道路が出来たことに拠り、東六番丁通は花京院橋の所で分断され、南側はその名前を失くします。



 と、言うことで、「現在の東六番丁通は何処か?」という事の結論なのですが…、
 東六番丁小学校前の通りは、少し前までは「東六番丁通」だったのですが、昭和40年ごろ、この場所が「宮町一丁目」という街区名になると共に「宮町通」に包含されてしまっています。なので、この通りを「東六番丁通」と呼ぶ人はかなりのお歳を召した方かタクシーの運転手さん等に限られます。

 ピンクにぬった道路、新幹線の高架に沿った道路ですが、これは大正〜昭和初期に新たに作られた道路で、何度かの変遷を経てもいるので本来は「東六番丁通」とは呼べないのかもしれませんが、一応今の地図には「東六番丁<通り>」と書かれています。
 しかし、やはり仙台人はこれを「東六番丁通」とは思っていないようで、現在この道路を「東六番丁通」と呼ぶ人はほとんどいません(ここを「東六番丁通」と呼んだ私は”インピン”なのでしょう)

 ということで、現在「東六番丁通」は実質上存在しなくなっています。






4)東七、八番丁通と東三、四番丁通について少しだけ
 東三、四番丁はここに持ってきました。東七、八番丁と並び、あまり「不思議」が無い通りだからです。
  ・東三、四番丁通
 街区の名称としての「東三番丁」、「東四番丁」はもう存在しませんし、町並みももうすっかりオフィス街の裏通りという感じになっています。でも、道筋や始点・終点、道幅は昔のままです。
      <東三番丁通>
 元寺小路との交差点から県庁方向の眺めです。
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 仙台朝市の駐車場から県庁方向を写しました。
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      <東四番丁通>
 元寺小路との交差点を少し北に入り、錦町公園方向を撮った写真です。
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 南町通との交差点から仙台朝市の入り口方向を撮りました。この写真は、2013年秋の古い物ですので、「パルコU」はまだ出来ていません。
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  ・東七、八番丁通
 駅東口に隣接する東七、東八番丁は、東口の再開発でオフィス街や商業ビル街になっています。道幅もだいぶ広げられました。
 しかし、道筋や始点・終点に変わりはありません。
      <東七番丁通>
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 「伏見稲荷」の手前から南方向(新寺通方向)を撮っています。写真奥には新幹線の高架が見えます。

 東七番丁には「谷地小路(やちこうじ)」という別称がありました。これについては次の項で触れることになります。
 また、同じ由来から「柴田町(しばたまち)」という名もありました。侍町ではなく、足軽町だった頃(江戸時代初期)の話です。

      <東八番丁通>
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 地下鉄東西線「宮城野通駅」を出たところから南方向(新寺通方向)を写しています
 東八番丁は、江戸時代初めごろ「大河原町(おがらまち)」とも呼ばれていました。開府当初、大河原村(おおがわらむら/現在の柴田郡大河原町)出身の鉄砲足軽34人が移り住んだことに拠ります。その後、延宝年間に侍屋敷が建てられるようになると、東八番丁と呼ぶことが主流となりました。


 仙台開府以前は、この東七番丁、八番丁に新寺小路が交わる辺り一帯を「八塚(やつつか)」と呼んでいました。何者のものとも知れない塚が八つ、この辺に散在していたことからそう呼ばれたのだそうです。おそらくこの土地の豪族などの墓か塚なのであろう、と想像されています。
      <「東八番丁・八塚」の道標>
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  ・東一番丁通〜東五番丁通と東六番丁通〜東九番丁通は何で平行じゃないの?

<<ここまで書いたところで紙数が尽きてしまいました。この設問は次回たっぷりと書いてみようと思います。>>

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